第17話 新型感染症禍の本社と大分の交通事情
「佐藤部長、ちょっといいですか」
ある日の朝、始業早々に販売計画を担当している係長の藤原が困り顔で恭介のデスクへやってきた。
「ああ藤原さん、どうしたの」
デスクの脇の椅子を指さしかけるように促しながら聞いた。
「それが本社から送られてきた今年度の販売計画に誤りがあったので本社にメールしたんですが、まったく返事がないんです」
「なんだそれ。そんなの電話して言えばいいじゃないか」
そんなことをわざわざ自分に言いにきたのかと半ばあきれて言った。
「電話ができるならとっくにやっています。本社は全員リモートワークで、オフィスに電話しても誰も出ません。部署によっては転送設定されていることもありますが、本社から問い合わせは各部署のメーリングリストへ送るよう指示があったのでその通りにしたんですが。何度送っても返事がないんです」
新型感染症禍でこれまでなかなか浸透しなかったリモートワークが一気に進んだのは、新型感染症禍でもたらされた数少ない進歩かもしれない。いまや本社では八~九割の社員がリモートワークで、出社するのは月に一、二回と聞いていた。ただそれによりこれまでのような人と人との関係性、コミュニケーションが希薄になったのは間違いない。これまでなら隣の人に声をかけたり、電話をしたり簡単に話せたことが難しくなっている。結果これまで対話のなかで相互理解できたことが一方通行になりがちで、特にリモートワーク中心の部署では杓子定規な対応が目につくようになっていた。営業所のようなお客様対応の現場ではリモートワークはそぐわないため積極的には行っていないため、このようなギャップが起きてしまう。
「本社の主管はどこだっけ」
「西本社経営企画部の販売推進担当です」
恭介はすぐに社内イントラネットの社員録で経営企画部販売推進担当を検索すると、課長は以前あるプロジェクトで一緒だった後輩だった。
「この課長ならよく知っているので直接言ってみようか」
「お願いします。佐藤部長なら本社の方もご存じではないかと思いご相談しました」
「わかった。携帯も知っているのですぐに電話してみるよ」
「ありがとうございます。このところ本社の対応はこんなのばかりです。一方的に資料を送ってきて、問い合わせや要望には返事がないまま会議に付議されて既成事実にされてしまう。正直やってられませんよ」
恭介はこれまで本社や営業所をいくつも経験してきが、そこで得た社内外の人脈は一番の財産だと思っていた。特にこれだけの大きな組織になると社内調整だけでも大変な稼働がかかるが、相手を知っているだけでたいぶ軽減される。恭介はさっそく携帯から番号を探して電話をかけると、すんなり相手が出た。
「佐藤さん、お久しぶりです。今大分でしたよね。どうしたんですか」
「久しぶりでこういうことを言うのも申し訳ないんだけど、こちらの担当者が販売計画の件で送ったメールに返信がなくて困っている。リモートワーク中心なのは仕方ないけど、こういう大事なことはきっちりやってほしいな」
「そうだったんですか。それはすみません。担当者に確認してすぐに対応します」
「販売計画にかかわることだから見過ごすわけにはいかないし、頼みますよ」
「はい、承知しました。ただ我々も西日本の全営業所と対応しているので、どうしても漏れが出てしまって。言い訳にもなりませんが」
「この間社長はあんなことを言ったけど、本社の人たちがリモートワークでずっと自宅で仕事ができるのも、現場の営業が足で稼いでいるからだということを忘れないでほしいな」
恭介は最後にこれだけは言っておきたいと思っていたこと言って電話を切った。
午後になって藤原が恭介のデスクへ来たが、今度は笑顔だ。
「佐藤部長、ありがとうございました。本社の担当者から返信があって、間違いを認めて訂正するとのことでした」
「それはよかった。またなにかあれば言ってください」
正直自分が動くような内容でもないけどな、と恭介は心の中で思いながらもそうやって社員が頼ってくれるのは悪い気分ではなかったし、実務担当者でどうにもならないことを動かすのも管理職の仕事かなと納得することにした。
その日は特に大きな予定もなかったので、恭介は十八時過ぎには会社を出た。時間が早かったのでトキハデパートの地下でお惣菜をいくつか買って、他に行くところもないのでマンションに向かって歩いていた。県庁近くの交差点で横断歩道を渡っていると、前から来た一台の車が恭介の歩いている横断歩道に向かって右折しようとしていた。まだ道路の真ん中あたりだったので、当然車が止まるだろうと思っていたが、その車は止まることなくそのまま恭介に向かって進んできたのだった。
「えっ、危ない!」
恭介は叫ぶと同時に慌てて飛びよけたが、足がついていかずそのまま道路に倒れこんだ。とっさに車のほうをみると、運転席から男が顔を出して、
「すみませーん」
と間抜けな声をかけてきた。
「なんで止まらへんねん、危ないやろ!」
その間抜けな言い方にイラっときた恭介は、思わず関西弁で怒鳴った。車に当たったわけではなく、飛びよけたはずみに倒れて肘をついただけなので、特段体に問題はなさそうだったが、あえて痛そうなそぶりをしていると、男がようやく車から降りてきた。
「すみません。大丈夫でしょうか」
見上げると小柄で髪の薄い五十代後半と思われる男が立っていた。
「あんた人が歩いてるの見えてたやろ。目合うてたやん」
恭介は立ち上がりながら、あえて関西弁で言った。
「なんで止まらへんの」
「すみません」
「当たらんかったからええようなものの、おかしいやろ」
「すみません」
すみませんしか言わない男に恭介はだんだん腹が立ってきた。
「だいたい大分の人の車の運転おかしいで。完全に車が優先になっているやん。関西から大分に来て、もう何回もこんなことあったで。教習所で車が優先で教えられてるんか」
「いえ違います」
大分に来てから何度かこういうことがあったのは事実だった。信号のない横断歩道を渡ろうとしても、止まろうとする車はほとんどなかった。会社の目の前の交差点は比較的大きく信号もついているが、そこでも青信号で左折する車が止まらずに、横断歩道を渡っていた自転車をはねる事故が一度だけでなく起きていた。関西人は車の運転が荒い印象があるが、それは交通量の多い車道での車同士のことで、横断歩道でこのような経験をしたことは記憶になかった。
「これではそのうち大きな事故起こすから気を付けて」
「本当にすみません」
「それでこれはどうしてくれるの」
恭介は飛びよけて倒れたはずみで道路に散らばってしまった総菜を指さして言った。
「弁償します」
「ヤクザみたいなことは言いたくないけど、これでは食べられないのでそうしてもらえるかな」
結局その日の夕食はいつものコンビニ弁当になってしまった。
数日後、仕事で県警本部に行くことがあり、話の流れで県警の担当者と大分の車事情の話なった。
「大分はどこへ行くのも車がないと行けないので、車の保有台数は年々増えていて、それに伴ってどうしても交通渋滞や交通事故が起きてしまいます」
「そういえば先日わたしも危なかったんですよ」
そう言って恭介は事の顛末を話した。総菜を弁償させたところは伏せたが。
「そうでしたか。そうなんです。実は信号のない交差点での車の一時停止率という調査がありまして、大分は九州では最下位、全国的に見ても下位なんです」
「そんな調査があるんですね。私が感じていたのはデータからも間違ってなかったということですか」
「お恥ずかしい限りです。いろいろと啓蒙活動はしているんですが。もちろん教習所では歩行者、自転車優先でおしえています」
今後の大分県警に期待して、気を付けて横断歩道を渡るようにするしかないようだ。
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