第12話 新型ウィルスの発生
大分から佐知子と一緒に大阪に戻り年末年始を過ごした後、恭介はまた大分で仕事に励んだ。二〇二〇年に入り、夏に開催される東京オリンピックに向けて世の中が沸き立ち始めるはずだったが、一月下旬には日本でも新型感染症の感染者が見つかり、翌月には海外から帰港したクルーズ船の乗客の多くが感染、クラスターという言葉がニュースで頻繁に使われるようになった。中国武漢で発生したこの未知のウィルスは、遠い国の出来事で、たまたま海外から帰国した人たちが感染していただけと思っていた。過去にもSAARSやエボラ出血熱のような感染症が発生したが、日本に大きな影響はなかったし、新型インフルエンザが流行した時のように、風邪のようなものですぐにワクチンができるのだろうと恭介も軽く考えていたが、まさかこの先数年にわたり、人々の日常生活や企業の経済活動が大きく制限さることになろうとは、誰も知る由がなかった。
二月に入ると本社から新型感染症への感染対策として、マスクの着用や人混みの回避といった、政府の発表をなぞったような内容が周知された。本社のある東京や大阪でも感染者はまだ少なく、大分県内での感染者は出ていなかったため、本社からの周知も社員にとってはまったく実感のないもので、職場でマスクをする社員もまばらだった。恭介は息苦しくなるのが苦手で、これまで冬場のインフルエンザが流行している時期でもマスクをする習慣がなかったが、会社の方針を社員に示す意味で、会社にいる間はマスクを着けて仕事をするようにした。特に恭介は職場で唯一の関西からの単身赴任者で、少しずつではあるが感染者が増え始めた大阪へ度々帰省していたため、社員に不安感を与えないように気を使う必要もあった。
風向きが変わってきたのは三月後半になってからだった。全国での新規感染者が一〇〇名に近づき、大分でも数名の新規感染者が連日報告されるようになった。そして世の中に新型感染症の影響を決定付けたのが、国民的なお笑い芸人だった志村けんの感染死と、東京オリンピックの一年延期の発表だったのではないだろうか。恭介自身、海外では感染が増えているものの、日本では約一億二千万人のうちの百人程度のことなら大したことはないではないかと高を括っていた。しかし実際に感染してあっという間に亡くなる人を目の当たりにして、その警戒心は一気に高くなった。
四月に一部地域に出された緊急事態宣言が全国に拡大された時点で、本社から新たな支持が全支店に通達され、朝一番で支店長の中本から全管理者に緊急会議の招集がかかった。
「新型感染症ウィルス感染対策として本社から一斉指示があったので共有したい」
中本がめずらしく神妙な面持ちで話し始めた。
「大分ではまだ感染者は少ないですが、全社統一の方針として次のとおり対応します。まず、すべての営業活動は緊急事態宣言が解除されるまで停止します。電話やメールのやり取りは構いませんが、お客様事務所への訪問は原則不可です。他県への出張も禁止となります。故障対応等緊急時のみ所長の判断で可とします。また、総務系社員の九割は在宅勤務とします。営業・サポート系社員も可能な限り在宅勤務を活用して下さい。それから会社主催の懇親会は禁止とします」
中本は一気にそう説明すると、後を引き取るように総務部長の衛藤が言った。
「今日から適用になるので、社員への周知をお願いします」
「いやいや、ちょっと待ってください」
口を尖らせるようにして西川が声を上げた。
「今日からと言われても、すでに今週も来週もお客様のアポがたくさん入っています。それはどうするんですか」
「可能な限り電話やメールで済ませてください。どうしても対面でないといけないのであれば、緊急事態宣言解除後にリスケをお願いします」
「いま行く必要があるからアポを取っているんです。お客様がいいといってもダメなんですか」
営業に貪欲なのはいいことだが、相変わらず言い方がよろしくない。やれやれと思いながら恭介は口をはさんだ。
「いまは緊急事態です。まずは社員の安全を最優先で考えれば、本社の指示に従うべきでしょう。とはいえ、大分ではお客様もまだそこまでの対策をしているところはほとんどないので、うちだけが営業を止めるというのは社員もお客様に言いにくいとは思います」
「それはそうだと思うが」
「本社の指示を営業所内で社員へどう伝えるかだと思います。お客様事務所への訪問は『原則不可』ということなので、基本は電話、メールでの対応として、すでにアポを取っているものもリスケ調整するものの、お客様から要望され訪問の了解を得た場合は個別に上長が判断するということでどうでしょう」
「そう言ってもらえるなら理解はできます」
西川がうなずいた。
「いつものことですが、本社から来る文書はそのまま社員に出せる代物ではないので、その都度営業内への展開は気を配る必要があります」
「わかりました。本社の文書に追記して大分営業所版として周知します。ただ社員の安全が第一ですので、そこは忘れないでください。それでいいですか、所長」
衛藤が中本を見ると中本は黙ってうなずいた。
「それからここまでは業務上の話ですが、もうすぐGWです。プライベートでの会食や旅行は制限できませんが、極力避けるように合わせて周知をお願いします。言いにくいのですが、管理者の皆さんも県をまたぐ帰省や旅行は控えていただけませんか」
衛藤が何となく恭介のほうを向いて言った。
「ちょっと待ってください、私もですか。本社の文書にそこまで含まれているんですか」
「プライベートでも県をまたぐ移動は避けるようにとはあります」
「プライベートではなく、私は会社の指示で大分に赴任しています。自宅に帰るのがダメだとおっしゃるんですか。それなら社員の休み中の行動もすべて把握するんですか」
さすがの恭介もやや冷静さを欠いた強い口調で反論した。
「社員の行動までは把握できないですが、不安に思う社員もいるでしょうから管理者だけでも控えたほうがいいかと」
「それはわかりますが、単身赴任者まで一括りにされるのは。繰り返しになりますが、会社の指示で、やりたくで単身赴任やっているわけじゃないですから」
他の管理者が手持ち無沙汰にキョロキョロし始めたので、恭介もこれ以上言うのは周りに悪い印象を与えかねないと感じたため、
「わかりました。やむ得ませんね」
と引き下がった。
「すまん」
中本が一言いって会議はお開きとなった。恭介は中本を見てやれやれと思いながら会議室を出た。
その夜、恭介は佐知子とメッセンジャーでやり取りしていた。
『今年のGWは帰省を控えるよう会社から指示された。せっかくの休みなのに申し訳ない』
『それは残念。でもこの新型感染症の状況では仕方ないわね。大分の人からしたら大阪というだけで心配する人もいるだろうし』
『それはそうだけど、やりたくて単身赴任しているわけじゃないし、家に帰るのがダメだと言われるのは納得いかないんだけど』
『会社であまり言うと嫌われるわよ。郷に入っては郷に従え。まだ先は長いんだから気楽にいかないと。GWは一人でゆっくりしたら』
『一週間もやることないし困ったな。ひたすら本でも読むしかないな』
普段家のことを佐知子に任せきりになってしまているため、休みのときは少しでも佐知子を楽にしたいといつも思っていた。単身赴任となってからはたまの帰省のときしか機会がなくなり、佐知子自身もストレスが溜まりメッセンジャーでイライラをぶつけてくることも増えたため、GWのような長い休みはゆっくり佐知子孝行をできると楽しみにしていたのが、新型感染症の影響とはいえ会社の指示で取り上げられたように感じていた。会社では単身赴任者は恭介だけなので、誰にも理解されない状況が内心腹立たしかったのだ。しかし、佐知子が理解してくれたことで少し気が楽になった。
しかしGWの直前になると、佐知子からのメッセンジャーでの文言が徐々に短くなった。恭介は朝起きたときと、仕事から戻ったときの一日二回、必ず佐知子にメッセージを送っていた。生存確認の意味もあったが、それ以上に佐知子とのコミュニケーションを維持する唯一の手段でもあったので、恭介は何も用事がなくても、他愛もないことでも欠かすことなく送り続けた。佐知子は仕事や家事、子どもたちのことでバタバタしているだろうから、毎回の返信を期待していたわけではなかったし、佐知子からしてみれば、日々の生活に精いっぱいで、仕事だと言って勝手に遠方の地へ行った恭介とのメッセンジャーでのやり取りまで気にしていないだろうということも分かっていた。それでも、佐知子からのメッセージだけが恭介が一人家族から離れて大分で働く糧になっていたのは間違いなかったので、絵文字が散りばめられた楽しそうなメッセージだと恭介もうれしかったし、二、三行の簡単な返信だけだと仕方ないと思いながらも、それが数日続くとだんだんと不安な気分になっていた。メッセンジャーの文言をみれば、佐知子の精神状況はほぼ推測ができた。
五月初めの五連休に入ると、朝送ったメッセージへの返信が来なくなった。恭介は新型感染症感染対策のため、食事のための買い物以外は出掛けることを控えていたので、本を読んだりテレビを見たりするしかなく、ほぼ一日誰とも喋らない日が続いた。そしてその夜、早めに布団に入り本を読んでいると、佐知子からのメッセージの着信を伝える電子音が響いた。
『もう限界です。私一人で何もかもすることはできません。どれだけやっても誰からも感謝の一言もない。そっちで何やってるか知りませんが、一人で好き勝手やれていいですね』
子どもたちも学校への立ち入りが制限され、GW中もずっと家にいるため、外にも出れずそれぞれがストレスを感じているようだったが、食事や洗濯やどうしても佐知子に負担がかかってしまう。この半年の間、何度か同じようなことがあり、その度子どもたちにも家のことを手伝うよう言い続け、佐知子へはどう返事をすればいいのか恭介は悩みに悩んだ。あまり時間が開いて無視しているように思われるのも嫌だし、かといって適当な言葉だけ返すのは真剣に考えていないと思われかねない。佐知子のように自分の言いたいことを何でも言えるのはうらやましくもあったが、恭介が同じように言いたいことを言ってしまっては火に油を注ぐだけ、それだけは絶対にダメだと言い聞かせていた。何を言っても、佐知子のおそらく怒りやら寂しさやら哀しみやらがごちゃ混ぜになった感情には触れられないのかもしれないが、恭介は「いつもありがとう」「ごめんなさい」を素直に伝えることがとにかく大事だと感じていた。いろいろな思いをぐっと飲み込んで、
『いつもありがとう。せっかくの連休なのに家のこと任せきりで、いつも佐知子にしんどい思いさせてごめんなさい』
恭介はいろいろと思いを巡らせて短くそう送信したが、だからと言って今何かできるかというと何もない。いつまでたっても既読のマークはつかず、結局その夜佐知子からの返信が来ることはなかった。佐知子はいつも笑顔で誰にでも明るく振舞っているが、実際は寂しがり屋で感情の振れ幅の大きな面があった。誰でも性格には陽と陰の部分がありそれは背中合わせだ。恭介は佐知子の陰の部分も分かっていたつもりだったが、こうやって初めて離れ離れで暮らすことになってまだまだ理解できていなかったことを実感していた。
ふと恭介は、佐知子は自分のことをどれくらい理解してくれているのだろうかと考えた。何も好き好んで大分にいるわけではない。家族の生活のため、住宅ローンや子どもたちの学費も必要だし、どこへ行こうがとにかく働くしかない。そのためには会社に縛られざるを得ない。ある意味家族を人質に取られているようなものかもしれない。六十五歳が定年としてまだ二十年近く働くことになると想像するだけでゾッとするが、それ以上に佐知子や家族に理解してもらえないなら、一体何のために働いているのか、なぜ今自分は大分にいるのか、この先どうすればいいのか。でも佐知子は佐知子で同じように思っているんだろうな。お互いさまと思える余裕があればいいが、いまはそうもいかない。考えれば考えるほど眠れなくなり、少しウトウトし始めたときにはすでに外は明るくなり始めていた。
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