第7話 県庁にて

 短い夏休みの後、恭介の仕事は本格的に動き始めた。これまでの課長職と違って自ら営業に出ることはなくなり、ほとんど社内での業務になった。日々各営業課長から持ち込まれる相談事や決裁に対処しながら、所長からの事細かなオーダーにも応えなければならなかった。恭介の部下となる四人の営業課長はそれぞれ個性的であったが、仕事のやり方に口を出すことはしないつもりだった。恭介自身もそうだが、課長職まで上がってくる人間はそれぞれ自分のやり方を持っているものだ。性格と同じでそれは一人ひとり違うのが当たり前なので、自分のやり方を基準にしてはならない。恭介は課長職に就いた時から社員への対応も同じようにやってきた。一昔前のように「俺に付いてこい」的なリーダシップは流行らない。まずは相手の話をしっかり聞く。上司は部下が自分のやり方で仕事をやりやすいような環境を作ってあげることが仕事、あとは部下がやりたいようにやっていざという時には助けてやればいい。それが恭介のポリシーだった。

 いっぽうで所長の中本はとにかく上からの評価ばかりを気にしていて、直属の上部組織である九州事業部の会議でこんなことを言われたとか、本社の会議であんな資料を出ていたが大分はどうなっているんだとか、事あるごとに恭介のところへやってきては、恭介のデスクの脇に置いている小さな椅子に座り込んでいた。中本も他の部課長たちがまともに相手をしないので、旧知の恭介には言いやすいのだろう。とはいえ、いちいちすべてに答えていたら自分の仕事が進まないので、恭介は必要最低限の回答はするものの、適当にあしらいながらつかず離れずの関係を継続していた。

 十月に入ってもまだまだ日差しが厳しく、暑い日が続いていた。恭介は県から依頼されたICT関係のセミナーの打ち合わせのため、課長の西川、営業担当の若手女子社員である森山と一緒に県庁を訪れていた。昨今の働き方改革や災害時のBCPの観点から導入が叫ばれているテレワークについて、県が県内企業向けにセミナーを開催するため、メーカー各社にテレワークに使える機器やシステムの紹介をしてほしいというものだった。

「有識者の講演と、展示ブースを作ってメーカー各社さんに出展していただこうと考えていますので、御社にもご協力をお願いしたいのですが」

「自社の商品を紹介させていただけるなら、ぜひ出展させていただきます」

「あと講演なんですが、やるとは言ったもののこの分野の専門家をよく知らないんですが、どなたかご存じないですかね」

「そうですね。確か総務省がテレワーク推進のための協議会を立ち上げていて、セミナーへの講師派遣もやっていたと思います。以前東京で省庁対応をやっていて、総務省にも伝があるので、ちょっと聞いてみますよ」

「そうなんですか、さすがですね。ご紹介いただければ調整はこちらでやりますので、よろしくお願いいたします」

 県の情報政策課の担当者とそんなやり取りをして打ち合わせが終わり、県庁の廊下を歩きながら今日はこのまま直帰しようかと話していた時だった。

「もしかして佐藤さんじゃないですか」

 声をかけられ振り向くと、髪を短く刈り上げ浅黒い顔をした大柄の男性が、何人かの若手職員とおぼしき男女を先導するように歩いてきた。

「あれっ、篠崎さんですか。経産省にいらっしゃった」

「そうです。覚えてらっしゃいましたか。まさかこんなところでお会いするなんて。何年ぶりですか」

「私が東京で勤務していた時以来ですから、十年ぶりですか」

 篠崎は経済産業省のキャリア官僚である。恭介が東京勤務だった時、中央省庁の案件に多く携わっていた。当時安倍内閣の目玉として地方創生が掲げられ、そのために日本全国すべての市町村に交付金が配布された。恭介もいくつかの市町村の案件を手掛けていたが、その案件の相談のために地方創生の事務局だった内閣府に行った際に対応していたのが、経産省から出向していた篠崎だった。篠崎が現地視察へ行く時に示し合わせて一緒に現地へ行ったりもしていた。もちろんコンプライアンスを疑われることがないよう、お互いが弁えていた。

「いつから大分に」

「今年の春からです。経産省からの出向で、産業観光部長をやらせてもらっています。佐藤さんはいつからですか」

「八月に来ました。まだ二ヶ月半ですけど」

 着任した際の業務説明で県庁の幹部の名前も聞いていたが、膨大な説明の中だったのでその時はまさか自分の知っている人がいるとは思っていなかった。やっぱりちゃんと聞いておかないといけないな、恭介がそう思っていると、

「せっかくなのでこの後ちょっとどうですか」

 篠崎は声を落として恭介の耳元で囁くようにいいながら、右手でグラスを持つようなしぐさをして軽く振った。

「ぜひ、喜んで」

まさかここで篠崎にあえると思っていなかったので、いつもなら気が進まない夜の付き合いに恭介は二つ返事で答えた。

 篠崎に都町の営業所行きつけの小料理屋を伝えて、恭介は西川と森山もいっしょにお店に向かった。しばらくして、篠崎が県庁でいっしょにいた若手職員三人を連れてやってきた。

 西川も森山も自治体職員と飲むのは初めてだったようで、はじめのうちは緊張していたものの、篠崎が連れてきた県庁の若手社員とすぐに打ち解けていた。今の時代は何かと世の中の目が厳しいが、こういうところで人間関係が構築され仕事を動かす潤滑油となっている面があることも確かである。西川や森山にとっても、コンプライアンスを踏まえたユーザとの付き合い方を勉強するにはいい機会だ。

ビールは最初の一杯だけですぐに麦焼酎に切り替わり、新鮮な海鮮料理が次々と並べられる中、篠崎が中央省庁や出向先でのおもしろエピソードで場を盛り上げていた。

「そういえば、いっしょにやった秋田の案件のときは大変でしたね」

「そうそう、あれね」

「何があったんですか」

 一緒にいる若手職員たちも興味津々で聞きいてきた。

「何年かに一度の大寒波という日で、何とか羽田から飛行機で秋田に向かったんだけど、秋田空港が吹雪で着陸できなくてね。羽田に引き返してくれればよかったのに、東京も何年かに一度の積雪で羽田も降りられなくて。なぜか中部国際空港に降りちゃったんだ」

「えー、それでどうしたんですか」

「仕方ないから佐藤さんと空港で一晩過ごして、次の日東京へ戻ったんだ」

「そうでしたね。で、リスケして改めて行こうとしたら、今度は向こうの役所で市長が関係する汚職事件が発覚してそれどころじゃなくなって。半年後くらいにやっと行けましたね」

「あの時は正直、佐藤さんの会社が怪しいと思っていました」

「まさか、わが社は潔癖、クリーンですよ」

 西川が横から真顔で突っ込んだので、みんな一斉に大笑いしてしまった。

「でもその後、地元の企業や大学も参画して、産官学連携の成功モデルとしてほかの自治体でもずいぶん紹介させてもらいました」

「それにしてもまさか大分で篠崎さんに会えるなんて。本当にうれしいです」

「ほんとびっくりしました。また一緒になにかできるといいですね」

「こちらからもいろいろご提案させていただきますので、ぜひお願いします」

 恭介は焼酎のおかわりを篠崎に渡しながら、頭を下げた。

「ところで佐藤さんは、大分の二度泣きという言葉をご存じですか」

 そろそろお開きにしようかと西川に目配せをしたところで、篠崎が唐突に聞いてきた。

「大分の二度泣きですか。なんですかそれ」

「部長、大分の二度泣きを知らないんですか」

 西川が目配せの意図が分からなかったのか、わざと無視したのか得意げに言った。

「大分へ異動の辞令をもらうと『あんな辺鄙な何もない所へ行かないといけないのか』と悲観して泣き、その次の異動で大分を離れる時には『こんな良いところからは離れたくない』と泣く、という意味ですよ」

「その通り。気候はいいし、食べ物もおいしい、温泉もある。私も何度か地方に出向していますが、大分はほんとうに良いところだと思いますよ」

 篠崎がその場を締めくくるようにそう言った。会計はきっちり割り勘して店を出た。篠崎たちと別れ、それぞれ家に帰る西川と森山と途中まで歩いた。

「佐藤部長と篠崎部長がお知り合いだったなんて、すごいですね。お陰で職員の方とも仲良くなれて、これからの仕事がずいぶん楽になります」

森山はうれしそうにそう言った。恭介自身も篠崎との再会には驚いたが、これも全国規模の会社でいろいろな職場を経験してきた面白さだろう。だが、それ以上に恭介は「大分の二度泣き」という言葉が頭から離れなかった。大分への辞令があったとき、恭介は間違いなく泣いた。意味するところは全く違っていたが。二度目はいつ来るのだろう。その時ちゃんと泣けるだろうか。中心部でも夜になるとほとんど人の歩いていない大通りを渡って、恭介はマンションへ戻っていった。

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