第5話 着任
豊かな自然と天然の良港に恵まれ、大分県の中部に位置する大分市は古くから東九州最大の経済都市として栄えた地である。戦国時代にはフランシスコ・ザビエルを自ら大分へ招いたキリシタン大名の大友宗麟がこの地を治め、全国に先駆けてヨーロッパ文化を移入。日本で初めて宣教師養成学校や西洋式の病院が作られるなど、南蛮貿易の拠点として隆盛を誇った。高度成長期には九州を代表する工業都市として急成長し、現在でも沿岸部には大規模な工場が立ち並ぶ。大分といえば別府の温泉が観光地として全国的にも有名だが、経済・ビジネスの中心は大分市である。
大分空港から高速バスに乗り、恭介は大分駅前のバスターミナルに降りた。かつは大分空港から市内へ日本で唯一のホバークラフトが運航されていて、三十分程度で市内まで繋いでいたが、ずいぶん前に廃止され今では空港からのアクセスはバスのみで約一時間を要する。恭介はバスの中でうとうとしていたので時間を感じることはなかった。バスを降り大分駅と駅前のロータリーを見て恭介は驚いた。十五年程前に出張で一、二回大分に来たことがあったはずだが、ホバークラフトに乗ったこと以外ほとんど記憶にない。失礼な話だが、地方都市にありがちな寂れた人気のない駅を想像していたが、目の前には巨大な駅ビルと、広々としたローターリーにバス乗り場のための木造り調の屋根が蹄鉄のようにぐるっと取り囲んでいた。夏の日差しに明るく照らされ、大阪や東京のような都市部では感じたことのない解放感が恭介を包んでいた。
会社が借り上げたマンションに住むことになっているが、手続きに時間がかかっているようで、一週間はホテル暮らしとなる。早速恭介は予約していた駅近くのホテルにチェックインし、佐知子に携帯からショートメッセージを送った。
『無事着きました。しばらくよろしく頼みます。』
『長旅お疲れ様です。体には十分気を付けてください。』
しばらくして佐知子から返信が届いた。簡単なメッセージだったが、そんな短いメッセージでも気持ちが和らぎありがたかった。さすが大分らしく、ホテルには天然温泉の大浴場があり、恭介はさっそく汗を流した。琥珀色の湯に体を沈めると、全身に温泉が染み渡るように体から力が抜けていった。自分でも気付かないうちに緊張していたのだろう。恭介は目を閉じてしばらく湯につかったまま、この温泉に毎日入れるならホテル暮らしも悪くないと思った。
翌日恭介は大分県庁にほど近く、かつて大友宗麟が治めた府内藩の名を残す府内町にあるビルに入居する大分営業所へ出社した。出社したその足で営業所長の中本のところへ挨拶に行った。
「今日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いしますよ。営業経験の豊富な佐藤さんに来てもらってありがたいです。期待していますよ」
中本は地元大分の出身である。九州と本社を行ったり来たりしながら、定年まであとわずかのところで地元に戻っていて、このまま定年を迎える見込みである。恭介が三十代前半の頃、一年だけ同じ部署にいたことがある。
「お互い老けたね」
「そりゃ中本さんと一緒だったのは二十年近く前ですからね」
当時は武闘派で厳しい印象だったが、いまでは定年まであと少しとなり、冒険することなく安全運転という評判である。
フロア内で一通り挨拶をした後、総務部長の衛藤から営業所の概要や事業計画の説明を受けた。大分営業所には営業部のほか、導入支援や導入後の保守対応を行うサポート部と総務庶務を担う総務部があり、営業所長を筆頭に各部の部長を加えた四人で営業所全体のマネジメントと意思決定を行っていた。社員は約八〇人だが、そのうち四〇人が営業部の所属である。営業部が営業所を支える屋台骨であり、そのため営業部長である恭介はほかの二人の部長とは異なり、対外的には副営業所長の肩書がつく。前職の関西営業所は営業部だけで百五十人の社員がいて恭介はその中の一課長に過ぎなかったため、自担当の成績を気にしていればよかったが、営業所の副所長のポジションにつくというのは、規模の大小にかかわらずその責任は大きなものだと恭介は改めて実感した。
とても一度で頭に入るとは思えないので、概要だけ聞ければよかったのだが、お昼休みを挟んでも衛藤は膨大な量の説明を延々続けていた。ようやく自席に座れた時には就業時間間際になっていた。
「お疲れさまでした。部長のPC、設定終わっていますからもう使えますよ」
営業課長の西川が声をかけてきた。恭介の下にいる四人の営業課長のなかで最若手だ。
「ありがとう、助かるよ。すでにメール溜まっているし」
「ところで今日の夜はどうされますか。よろしければ歓迎会でもいかがでしょう」
初日だし付き合うか。単身赴任で断る理由もないし、どういうメンバーか知っておきたい。
「ホテルに帰るだけだし、ぜひお願いするよ」
恭介はそう返事をした。一応佐知子に連絡しておこうかな。そう思いショートメッセージを送っていると、大阪の職場から送っていた段ボール箱の荷物が届いたので、一通り片付けたあと西川に連れられて会社を出た。
「乾杯‼」
「乾杯‼よろしくお願いします」
大阪の梅田や難波と比べるべくもないが、大分市内一番の飲み屋街である都町にある営業所御用達という小料理屋に集まった面々とグラスを合わせた。営業部の四人の課長たちとサポート部長の後藤が集まってくれていた。
「今日はありがとう。仕事は大丈夫だったのかな」
「こっちではみんな五時半の終業と同時に帰っちゃいますからね。だいたい残業するほと仕事もないですし」
「仕事がないのは寂しけど、それが健全だと思うよ」
恭介はこれまで関西圏の大規模営業所での仕事が多かったため、残業はほぼ毎日、終電に間に合わずタクシーで帰宅することまであった。最近でこそ働き方改革が叫ばれるようになったが、恭介の二十代から三十代の営業最前線の頃は残業は青天井、年休を取れるのも年に数える程度だった。
「それにしても所長は声をかけなくてもよかったの」
「あの人は放っておいていいですよ。来ても面倒なだけですから」
西川が笑いながら軽く言った。
「そうはいっても一応上司だけどね」
飲み会の席で上司の悪口は酒の肴みたいなものだが、直属の上司になる自分やサポート部長の後藤もいるところでのっけからそのような言い方をする西川に、恭介は若干違和感を感じたが、初日なので深く突っ込むことはしなかった。
「まあ、これからおいおいわかると思いますが、所長は自分では何も決められないので、何かと佐藤部長のところに話が来ると思いますが、我々もいますから」
サポート部長の後藤がフォローするように言った。
「中本さんとは以前同じ営業所にいたことがあってよくしてもらっていたので大丈夫ですよ。最近の様子も異動前に聞いていて、何もしないタイプだから大変だよと散々言われて来ましたから。後藤さんや西川さんの話を聞く限りでは間違っていなかったみたいですね」
「やっぱりそうなんですね。大阪までそんな評判が聞こえているなんて。佐藤部長、本当によろしくお願いしますよ」
西川がまた豪快に笑って言った。どうもこいつは軽いな。とはいえ、中本のことはある程度予想していたことなので、むしろいろいろ指示されるより任せてもらったほうがやりやすい。恭介はそう思って、最初に出された大分名物のとり天をつまみながらグラスを空にした。
「ところで佐藤部長は大分とは関係あるんですか」
営業課長の緒方が、恭介の空になったグラスにビールを注ぎながら聞いてきた。緒方は地元大分出身で、一時期福岡や熊本の営業所に行っていたこともあるが、会社人生のほとんどを大分営業所で過ごしている生き字引のような存在である。
「いえいえ、大分どころか九州にもまったく縁もゆかりもないですよ」
「そうなんですか。大分には佐藤さんが多いから、てっきり大分の方かと思っていました」
「佐藤ってもともとは奥州藤原が由来だから東日本に多いのが定説ですよね。私の祖父が福島の出らしいんです。関西でも佐藤はあまりいなかったんですが、大分に佐藤の姓が多いんですか」
「大分県の苗字別人口の一位は佐藤さんです。ほかにも藤の付く苗字が多いんですよね」
そう言われれば社員名簿を見たときに自分以外にも佐藤が二人いたし、他にも工藤や後藤、衛藤など藤の付く名前が多かったのを思い出した。
「なぜ大分に佐藤さんが多いんでしょう。不思議ですね」
「これは諸説あるんですが、源頼朝と義経の時代に遡るんです。そして私の名前、緒方も因縁があるんです」
「何か興味深い話ですね。教えて下さい」
もともと佐藤の姓は奥州藤原が起源である。一説では現在の栃木県の佐野付近を拠点とした藤原の一族が、佐野の藤原=佐藤と名乗ったとも言われる。そこから関東、東北を中心に広まったため、全国一位の苗字とはいえその多くは東日本である。緒方が言うには、大分に佐藤姓が入ってきたのは約八百年前の歴史上最大の兄弟げんかと言われる、頼朝と義経の衝突に関係があるらしい。源平合戦の際、当時の豊後の有力な地元武士団をまとめていた緒方三郎惟栄(これよし)はもともとは平氏側に仕えていた。平清盛の死後は源氏側を支援していたが、義経が兄の頼朝を差し置いて朝廷から官位を受け取ったことで頼朝の逆鱗に触れ、頼朝が義経を討伐に動く事態が起こる。その時義経が身を隠そうと頼ったのが豊後の緒方三郎惟栄だった。当時から九州における東からの玄関口は大分だった。しかし頼朝はそんな義経の動きを事前に察知し、幕府の権限で豊後を幕府直轄領とし自分の家臣である佐藤氏を配置した上に、緒方の所領を没収し流罪としてしまった。以降も関東から頼朝の家臣が移り住み藤のつく姓が広がったという。
「へえ、そんな話があるんですか。全然知らなかったです」
「諸説ありですけどね。だから佐藤さんという方が来られると聞いて、私はまた追い出されるのかとずっとドキドキしていましたよ」
緒方はそう言っておしぼりで額の汗をぬぐったので、みんな一斉に笑ってしまった。
「まさか追い出すなんて。これからもみんなを助けて下さいよ」
さすが海の幸も豊富で、都会では味わえない新鮮な刺身が次々と出され、これまた大分名物の麦焼酎がよく合った。
「本当に食べ物もお酒もおいしいですね。こんなおいしい刺身はなかなか食べられません」
「私ももともと出身は関西ですが、食べ物もおいしい、気候も温暖、何といっても温泉が豊富。本当にいいところですよ」
だいぶお酒も回ってきたのか真っ赤な顔の西川が自慢げに言った。みんなそれぞれ個性的ではあるが、むしろそのほうが面白い。この仲間たちなら何とかやっていけそうだ。恭介はすっかり気に入った麦焼酎のおかわりを自ら作った。
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