第4話 異動前夜

 自宅に帰ると妻の佐知子は、洗面所で風呂上りの濡れた髪をドライヤーで乾かしているところだった。二人の子どもたちはそれぞれ二階の自分の部屋に上がっているようだ。長女の美咲は大学二回生、長男の堅太郎は高校二年になり、小さな子どもような手はかからないが、佐知子自身もパートで一日仕事しながら毎日の食事の準備や洗濯など家事をこなさなければならないので、風呂に入るのはいつも十時を過ぎてからだった。

「おかえりなさい」

恭介を見ると佐知子はそう軽く言って、冷蔵庫から牛乳を取り出しグラスに注ぐとダイニングテーブルに座って足を投げ出した。

「今日も疲れたー」

 先にそう言われるとこちらは疲れたとは言いにくい。それはお疲れ様、と言いながら佐知子の後ろに回り肩を揉んだ。

「ああ、気持ちいい。ありがとう」

 佐知子の表情が和らいできたのを見て、恭介は切り出した。

「今日異動の発令があった」

「えっ、もう異動の時期だっけ」

「前の異動からまだ一年だけど、ポストに空きができてね。行ってくれと言われた」

「行くってどこへ」

「九州」

「九州って!福岡?」

「いや違う」

「熊本?」

「いや違う」

「沖縄!」

「それでもない」

「九州ってあとどこがあるの」

「大分に行くことになった」

「大分‼関西出身のあなたがなぜ大分に行かなくちゃならないの。他にいくらでもいるでしょ」

「だから、ポストに空きができたんだ。前の営業部長が体調を崩して少し前から休んでいて、代わりを探していたらしい。課長職で営業部長だから栄転なんだけどな」

 佐知子にこの一か月の出来事を話す訳にはいかないので、そう答えた。前任者が体調を崩して休んでいるのは事実なので嘘は言っていない。

「で、どうするの。単身赴任するの」

 佐知子は半ば諦めて確認するように恭介に聞いた。三十代半ばで東日本本社へ異動したときは、まだ子どもたちも小さく小学校に入るまでには戻ってこれる見込みだったので、家族で東京へ行ったのだが、今となってはそうもいかない。

「仕方ないだろ。佐知子だけでも一緒に来てくれるならうれしいけど」

「そんなことできる訳ないじゃない。子どもたちもまだ家にいるし、私だってパートとはいえフルタイムで働いているんだから。一人で行ってもらうしかありませんよ」

 佐知子はそう言いながらだんだん表情が固くなり、口調もきつくなってきた。恭介は発令を受けた時点から単身赴任のつもりだったし、全国に拠点のある会社に勤めている以上いつそうなっても受け入れる覚悟でこれまで働いてきた。それがいまこのタイミングできただけだが、佐知子は違ったようだ。

「これまでだって散々子育てや家事をやってきて、ようやく自分も働く時間ができたと思ったら、また私一人に家のこと押し付けるんですね。本当に、男の人はそうやって仕事だって言えばどうにでもなると思って。いい身分ですね」

 佐知子はトゲのある言い方でそうまくし立てた。

「誰も好き好んで大分へ行くわけじゃない。人事異動は業務命令だ。それで給料もらっているんだから、嫌なら会社を辞めるしかない。異動のない役所勤めでもすればいいのか」

「大分でもどこでも行ってください。稼いでいるのはあなたで、私たちはそのお陰で暮らせているので。偉そうなことは言えませんから」

 佐知子はそう言うとさっさと寝室へ入ってしまった。

 恭介はダイニングで一人座ったまま呆然としていた。恭介自身行きたくて行くわけではない。背景はいろいろあったにせよ、会社からの命を受けた以上従うしかない。古い考えかもしれないが、それがサラリーマンの宿命だ。だが恭介は、いや世間のサラリーマンのほとんどがそうだと思うが、それもこれも家族のため、家族のためならつらい仕事も単身赴任も頑張れる、家族を持つサラリーマンの覚悟だと考えていた。この会社に勤めている以上、いつ単身赴任になるかわからないということは佐知子も分かってたはずだが。しかしそれは男の側の論理でしかない。心の準備なくいきなり言われて感情が先に出てしまったのかもしれない。結婚してからまもなく二十五年、佐知子にすれば一度も離れて暮らしたことがないことへの不安もあるだろう。

 佐知子とは大学時代からの付き合いであった。友人に誘われて行ったイベントスタッフのアルバイトで、たまたまグッズ販売の同じブースに入ったのがきっかけだった。同い年で同じ大学ということがわかり話すきっかけができたこともあるが、常に笑顔で接客し、疲れていても周りのスタッフへの気遣いもできるやさしさに、イベント期間が終わる五日目には恭介は佐知子以外目に入らなくなっていた。打ち上げと称して何人かで飲みに行って連絡先を聞き出した後、改めて食事に誘いそこから交際に発展した。お互い就職した後も交際は続き、就職から三年目、二十五歳の時に無事結婚することができた。佐藤姓になることで、苗字と名前に同じ字が入ることに佐知子はやや抵抗していたが、取るに足らないことだった。佐知子は結婚と同時に仕事をやめ、専業主婦となり、一年後には長女が、さらに三年後には長男が生まれた。今では長女は大学生、長男は高校生である。

 もちろんここまですべてが順風満帆だったわけではない。二十代から三十代にかけては、恭介は仕事、佐知子は家事と育児に追われ、すれ違った時期もあった。その頃の恭介は平日は会社を出るのが終電ぎりぎりになることはざらだった。必然的に家事、育児は佐知子に任せきりになり、佐知子のストレスは溜まる一方で、常にイライラしていた。たまに早く会社を出ることができても、恭介はそんな佐知子の待つ家に帰るのをためらい、本屋やスターバックスで時間を潰し、佐知子が寝付くころに家に帰ったりしていた。佐知子は佐知子で家事と幼い二人の子どもたちの世話で精いっぱいで、恭介のことまで構っていられなかったが、日々の子どもたちのことをもっと恭介と話して共有することで、一緒に子育てをしたかった。しかし佐知子も子どもたちを寝かしつけながら自分も我慢できず一緒に寝てしまう。恭介が帰る頃には佐知子と子どもたちは川の字で寝ていて、台所には夕食を食べた後、積み上げられたままの食器がいつも残っていた。それをみると恭介はいつもため息をつきたくなったが、それでもダイニングには恭介の分の夕食がラップをかけてきちんと並べられていた。恭介はどんなに遅い時間でも佐知子が用意してくれた夕食を食べ、積みあがった食器たちを食器洗浄機に詰め、台所を片付けた。子どもたちと遊べるのも、恭介と佐知子がまともに顔を合わせて話せるのは土日だけだったので、恭介はどんなに疲れていても土日は朝のうちに起きて、地元のおいしいパン屋へ朝ごはんのパンを買いに行ったり、家族でドライブにでかけたり、家族との時間は大事にしてきたつもりだった。

「あなたは毎日外で好きなことできていいわね」

「毎日朝から満員電車で、夜遅くまで仕事してるだけで、何もいいことはないよ」

「仕事といえば何でも許されると思って。実際何してるかわかったもんじゃないわ」

「そんな言い方ないだろ」

「私は毎日毎日、掃除、洗濯、料理、子供の世話で自分の時間なんてまったくない。籠の中の鳥と同じ」

「それを言うならこっちだって朝から晩まで、みんなの生活を守るために、嫌な奴にも頭下げて必死に働いる」

 お互いの溜まったストレスを一気に吐き出すように、何か月かに一度はこのような言い争いがあった。お互いが自分のやるべきことに必死で、相手を思いやる余裕がなかったのだろう。どこの夫婦にもあるように幾度の危機がありながら、なんとか持ちこたえてきたというのが正直なところかもしれない。

 家族のためと思い働けば働くほど恭介の会社での地位や責任は大きくなり、ますます仕事に時間が費やされるなかでで、家のことをすべて佐知子に任せてしまっている後ろめたさが常にあった。家族のためといいながら、結局は会社に縛られていると言われればその通りだし、飲み会や出張など仕事を通じて楽しい思いもあったのは間違いない。そして今回の大分転勤である。幸い大分への赴任までは一か月ある。夫婦の関係もゆっくり準備していかないといけないな。恭介はそう思いなおして、寝間着に着替えるといつも佐知子といっしょに寝ている布団に潜り込んで、佐知子の手をそっと握って眠りについた。

 それから一か月。大分への赴任に向けて業務の引継ぎを行いながら、休みの日には単身赴任生活のために必要なものを揃えていった。恭介にとって学生時代から結婚前まで一人暮らしをしていたが、それ以来である。

「お鍋やフライパンもあったほうがいいんじゃない」

「寝に帰るだけだし、最低限でいいと思うけど」

「でも野菜も取らないといけないし、休みの日くらいは自炊もしてくださいね。いつも外食だとお金もかかるし」

 大分行きを告げたときは感情的になっていた佐知子も、その後表向きは落ち着いて何かと気をまわして必要なものを買いそろえてくれた。寝に帰るだけといっても、揃えていくと大なり小なり必要なものはいろいろあって、リビングの隅に積んでいた段ボール箱が次々と増えていき、それまで佐知子が毎日ヨガやストレッチに使っていたスペースを埋め尽くしてしまった。そして七月最後の日、恭介は伊丹空港から大分行きの小さな飛行機に乗り飛び立った。飛行機の窓の下には大阪から神戸、淡路島までが飛行機のエンジンの熱気に揺れて見えていた。これも人生、必ず帰ってくる。恭介は自分に言い聞かせながら、窓の下で流れていく街並みをずっと見ていた。

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