第3話 呼び出し
翌日からも恭介は変わりなく仕事をこなした。広瀬のことは何も気にならないと言えば嘘になるが、特段意識することはなかった。これまでのサラリーマン人生において、何人もの女性部下や他社の女性社員と関わっていれば、二人きりで食事に行くことは何度もあったし、時には相手の女性から言い寄られたこともあったが、それ以上の関係なったことは誓って一度もなかったため、今回の広瀬とのことも気に留めていなった。当の広瀬も何事もなかったかのように、これまでどおり仕事をこなし、恭介に書類や決裁を持ってくるときも、これまでと変わりなかった。こんなアラフィフの中年男でなくても、広瀬ならいくらでもいい相手がいるはずだ。あの夜相談を受けた中川ともこれまで通り接しているようだったが、その点だけは気になっていた。恭介は何度か広瀬にショートメッセージを送って確認しようと思ったが、その度にもう少し様子を見ようと思いとどまり書きかけのメッセージを消去した。
あの夜から一か月ほどたった朝、課のミーティングが終わったころに恭介の直通番号に電話が入った。西日本本社人事部の徳永と名乗った。
「佐藤課長。急で申し訳ないありませんがちょっと確認したいことがあるので、今日の午後本社に来てもらえませんか」
「何でしょう。電話では話せないことでしょうか」
「そういうことです。ただし私から呼ばれたことは内密にお願いします」
ということはあまりいい話ではなさそうだ。何かあったか、恭介は頭の中で想像を巡らせながら返事をした。
「わかりました。お伺いいたします」
恭介は午前中いつも通り会議や決裁をこなし、昼食もそこそこに西日本本社が入る大阪駅前の高層ビルに向かった。受付で徳永を呼ぶと、会議室へ案内された。大阪駅を見下ろす大きな窓があり、恭介は窓際に立って、シンボルとなった大屋根の中へ列車が次々と吸い込まれては、同時に吐き出される様子をしばらく眺めていた。
「お待たせしました」
徳永が会議室に入ってきて椅子に座った。窓の明かりが反射した眼鏡の奥の目でiPadを見たまま話しを始めた。
「実はあなたが部下とよからぬ関係にあるとの投書がありました。今日はその事実関係を確認させていただきたく、お呼びいたしました」
「よからぬ関係とは何でしょう。自分には身に覚えはありません」
徳永は三十代半ばだが、先ごろ課長職に昇進して本社人事部に配属されたスーパーエリートである。将来の社長候補とも言われている。
「単刀直入に言いますと、部下の広瀬さんと不倫関係にありませんか」
「何をバカなことを言っているんですか。いくら人事部の課長でも本気で怒りますよ」
「ある人物から投書があり、本人にも確認しました。佐藤課長と広瀬さんが、広瀬さんのマンションの前で抱き合ってキスをしているのを見たとも言っています」
嵌められた。恭介はすぐにそう感じた。あの夜の地下鉄の改札から広瀬のマンション前での出来事が一気に甦ってきた。誰かに見られていたということか。しかし誰が。考えられるのは一人しかいない。中川だ。おそらく仕事帰りに広瀬の後をつけて、自宅の場所を確認していたのだろう。あの日、目につかないところに隠れ広瀬の帰りを待っていたところで、自分と一緒のところを見たに違いない。キスなどしていないのに、明らかに話を盛っている。こういうことがあるから外で会うのは気が進まなかったのだ。恭介は表情を変えずに言った。
「その投書をしたのは、私の部下の中川君ですね」
「・・・・」
徳永は何も答えなかった。申告者を明かさないのがルールのため、答えられないのだ。否定しないということは中川で間違いない。エリート課長か知らないが、またまだ駆け引きが甘い。
「投書した人物のプライバシーを守るのがルールだから、答えられないですよね。しかし、違うとも言えなかった。正直な人ですね」
「こちらの質問に答えていただけませんか」
徳永は動揺を隠すように努めて淡々と言った。
「中川君が勝手に広瀬さんに好意を持っていたのがそもそもの発端です。広瀬さんから相談があり、食事をしながら話を聞きました。その時広瀬さんがお店に携帯電話を忘れてしまい、急いで追いかけて地下鉄の駅で追いついたのですが、彼女が少し酔っていたので、マンションの前まで送った。それだけです」
「抱き合ったりキスしたりはしていないと」
「もちろんしていません」
「そうですか。広瀬さんにも確認しましたが、同じことを言っていました」
すでに広瀬にも話を聞いていたとは知らなかった。ここ数日は広瀬とはすれ違いで、社内で顔を合わせる機会も少なかった。
「だったら間違いないじゃないですか。何が問題なんですか」
「二人で口裏を合わせているとも考えられます」
「ばかばかしい。それなら中川君の行動をもっと調べるべきでしょう。マンションの前で待ち伏せするなんで、ストーカーじゃないですか」
「もちろんそのつもりですが、問題はこの投書が社長あてに届いたということです。社長は社内のコンプラインスには非常に敏感です。事実はどうあれ、何もなかったでは済みません」
「どうするつもりですか」
「本件は人事部で預かります。社長に判断を仰ぎます」
結局自分では何も決められないじゃないか。最近の本社の連中はなんでも社長に判断を委ね、それを「社長の意向」として現場に落としてくることが多い。社長の意向と言われると誰も反対できない。恭介はもうどうにでもなれという気持ちで本社ビルを後にした。
そして定期異動の発令の日、大分営業所への異動を命じられた。徳永では埒があかないため、以前同じ営業所で仕事をしたことがある人事担当部長の中岡に内々に連絡をとり、話をしたが、結果は同じだった。
「広瀬さん、中川君はどうなるんですか」
人事発令を受けた後、恭介は中岡に聞いた。そもそも発端である中川が何もお咎めなしでは納得いかないし、それ以上にこのことで広瀬が不利益を被ることは避けたかった。
「中川君はこのまま広瀬さんと同じところに置いておくわけにはいかないので、名古屋営業所へ異動させる。名古屋は製造業が強いから、彼の経験を十分発揮できるだろう。ただ課長職への道はもうないと思うがね。広瀬さんはこのままいまの仕事を続けてもらう」
恭介は自分のことはともかく、二人の部下への対処については中岡に礼を言った。
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