第2話 広瀬奈々子

 四月のことだった。関西営業所第三営業課長の恭介は、新年度の始まりと同時にいくつかの新規案件を受注し好調なスタートを切っていた。恭介の課は主に京阪神地域の大手から中小の製造業の企業を中心に営業活動を行っているが、恭介の積極的な営業戦略により競争の激しい大阪においても確実にシェアを伸ばしていて、営業所内でも一目置かれる存在になっていた。そのため課員も若手の有望株が配属されていたため、通常のユーザ対応は課員に任せ、恭介自身は新規のユーザ開拓に専念していた。

 六人いた課員の一人が、入社五年目の広瀬奈々子だった。恭介が営業第三課に着任した際、同じタイミングで金沢営業所から異動してきた。入社してまもなく地方都市に配属されたため、着任してしばらくは対応する企業の規模の大きさに戸惑っていたが、半年もすると他の課員と遜色なく仕事をこなしていた。それでも課員のなかでは最も若く経験も浅いため、恭介も何かと面倒をみてきた。

 恭介の会社でも働き方改革が叫ばれ、毎週水曜日はノー残業デーとされ、緊急のトラブル対応などがない限りは残業が禁止されていた。どうしても残業する場合は営業所長の許可が必要となるほど徹底していたので、その日も就業時間が近づき残っている課員は帰り支度をはじめていた。その時、恭介のパソコンのディスプレイで、社内で使っているチャットツールが点滅した。

『今日この後、少しお時間いただけませんでしょうか。』

 広瀬奈々子からのメッセージだった。広瀬を見ると席に座って何もなかったようにパソコンに向かっていた。終業間際に時間に何だ、用があるなら業務時間中に直接言えばいいのに。そう思って恭介は返信した。

『業務中には言いづらいことかな。今日はもう終業の時間だから明日朝一でどう。』

『ほかの人に見られたくないので、社内ではちょっと。先に出ていますので、待っています。』

 恭介は会社の人間と飲みに行くのは好きではなかった。お客様や社内でもある程度の付き合いは仕方ないと思ってはいるものの、サラリーマン生活で何度も飲みに行くうちに、たいてい同じようなメンバーで、同じ店に行き、毎回同じ話をして、数千円を費やすことに辟易していた。ただ部下の話を聞くのは上司の大事な仕事、いやむしろそれが最も重要な仕事かもしれない。人は誰しもが仕事でもプライベートでも大なり小なり悩みや迷いを抱えているものだ。恭介が課長になってからこれまでにも、部下とのちょっとした会話から変調に気が付き、大事に至らなかったことは一度や二度ではない。そのような経験から、恭介は部下からの相談には何をおいても時間を割くようにしていた。それでもいつもなら業務時間中に社内で話をしていたので外でというのは気が進まなかったが、何かよほどの事情があるのだろうと想像し自身の仕事を早々に片付け、広瀬の携帯電話に以前お客様と行った堂島の個室のある小料理屋の場所と、先に入っておくようショートメッセージを送った。そこなら会社の人間と会うことはないはずだ。

 店に入ると、奥の小上がり座敷で広瀬が手持ち無沙汰に携帯電話を触っている姿が目に入った。仕事中はいつもセミロングの髪を一つに束ねてポニーテールにしているが、いまは髪をほどいて左側だけ耳にかけていた。普段あまり見ないだけにちょっとドキッとしたが、それも一瞬で、女性は髪型一つでずいぶん印象が変わるものだなと思いながら、恭介は座敷に上がった。

「待たせて悪かったね」

「いえ、急にお時間いただいてすみませんでした」

 ビールを頼みとりあえず乾杯した。

「それで何があったの。社内で話せないようなこと」

「中川さんのことなんですけど。ちょっと困っているんです。課長からうまく言ってもらえませんか」

 中川智彦は恭介の部下で、まだ三十歳になったばかりだが営業成績は課員の中でもトップクラスで、3人いる主任のなかでもリーダー格であった。そのため広瀬が異動してきてからは中川とペアを組ませて、中川には自身の業務だけでなく教育係として、広瀬の育成も任せることを申し渡していた。広瀬をうまく育てることができれば、課長職への昇進も見据え、東日本本社への配属を推薦するつもりだった。いっしょにお客様の事務所へ行ったり、見積書や提案書の作り方を教えたり、実際に営業成績も上がっていたので傍目にはうまくいっているように見えていた。

「本当にいろいろ教えてもらって頼りになる先輩です。仕事帰りに食事したり、休みの日にもライブやJリーグの試合に誘われたりしていて」

「そうだったのか。君たちそういう関係だったんだね」

「いえ、違うんです。先輩に誘われて無下に断れなくて。私はそういうつもりはないんですが、中川さんは社内で私のことを彼女だと言っているみたいで」

 中川の一方的な思い込みか。しかし、食事に行ったり、休みの日に会ったりしていたら、男なら誰だってその気になって当然だ。広瀬の気持ちも分からなくはないが、隙があったと言わざるを得ない。

「そのつもりがないなら、次からははっきり断ることだね。中川君には私からもそれとなく言っておくけど」

「わかりました。でも仕事ではこれからもお世話になるので、角が立たないようにお願いします」

 正直こんなことまで課長が首を突っ込むことではないと思ってはいたが、相談を受けた以上放っておくわけにもいかないので、恭介は中川と話をすることを約束した。そのまましばらく仕事の話をした後、一時間半ほどで店を出た。

「それじゃあ気を付けて」

「ありがとうございました」

 軽く頭を下げて、広瀬は地下鉄に乗るため、すぐ目の前にあった地下へ降りる階段へ消えて行った。頭を下げたとき耳にかけた髪が垂れ、広瀬はその髪をかき上げて恭介ににこっと笑ってみせた。恭介はしばらくその場で広瀬の後ろ姿を追いかけていた。胸のポケットで携帯電話が鳴り、恭介は我に返った。電話に出るとさっきまでいた小料理屋だった。

「多分お連れ様のだと思いますが、携帯電話をお忘れです」

「そうですか。すぐに取りに行きます」

 すぐに店に戻り、若い女性に人気のブランドのロゴが入った、淡いピンクのスマホケースを受け取った。いつも広瀬が持っているものに間違いない。明日会社で渡せばいい。そう思ったが、携帯電話がないと気付いたら広瀬は相当不安になるだろう。それに明らかに女性もののケースに入った携帯を自宅に持ち帰って妻に見られたりしたら、説明するのも面倒だ。さっき地下に降りたところだし、追いかければ間に合うかもしれない。まだ時間も早いし今日のうちに返してしまおう。恭介は先ほど広瀬が降りた階段から地下鉄を目指して歩き始めた。

 社員の人事情報は頭に入っているため、通勤経路や最寄り駅も把握している。広瀬は地下鉄で5駅のところにある会社が借り上げたマンションに住んでいた。地下鉄のホームまできたが、もう地下鉄に乗ってしまったのか広瀬の姿は見えない。ちょうど電車が入ってきて、恭介はホームで電車を待っていたほかの客の流れに逆らうことができず、車両に乗り込んだ。仕方がないので最寄り駅まで行って、それでもいなかったら明日にしよう。社内に吊り下がっている週刊誌の見出しを眺めているうちに目的の駅に到着し、恭介は電車を降りた。改札口へ上がると、改札の向こう側で肩から下げたバックの中を覗き込んでいる広瀬の姿が見えた。改札を出て声をかけた。

「えっ、課長。こんなところでどうしたんですか」

「いやいや、君、携帯を忘れてただろ。お店から連絡があって、取りに行ってすぐに追いかけたんだけど。ないと困るでしょ」

「電車の中で携帯電話がないのに気が付いて、どうしようかと思っていたんです。明日会社で渡してもらってもよかったのに」

「会社だと周りの目もあるし。まだ時間も早いから今日のうちにと思って」

「わざわざすみません。ありがとうございます」

 広瀬はさっきまで飲んでいたお酒のせいで、少し赤くなった目で恭介を見つめはにかんだ様子で携帯電話を受け取った。広瀬は今度は深々とお辞儀をしたあと背を向けて歩き出しそうとしたとき、足元がふらついたせいで改札から出てきて出口へ急ぐサラリーマンに体当たりする形になってしまった。恭介は慌てて駆け寄り、立ち上がろうとする広瀬に手を貸した。

「どうしたの。大丈夫」

「ちょっと飲み過ぎたみたいです。面倒かけてすみません」

「家、すぐ近くだったね。心配だから送っていくよ」

 後から考えれば、この時点で先の展開に想像を巡らせるべきだった。しかしその時は、このままどこかで倒れられると大事だし、ましてや自分と飲んだことでそのような事態を招いたとなると責任重大だという考えが先行し、広瀬との間に何かを期待するような思いは、一切なかったことは神に誓って言ってよい。広瀬の住むマンションは歩いて五分ほどのところにあるので、広瀬を送ってから家に帰ってもそう遅くなることはない。そう考えて恭介は広瀬の腕をとり一緒に歩いた。4月とはいえ、夜になるとまだ冷え込むことが多くその日も風が冷たかった。広瀬は時折左右に揺れながらも、マンションのエントランス前まで歩くことができた。ここまでくれば自分の責任は果たしたと言えるだろう。

「あとは大丈夫だね。また明日」

 そう言って、恭介は駅のほうへ戻ろうとしたが、広瀬はつかんだ腕を離そうとしなった。

「部屋でコーヒー…、飲んで行きせんか」

「いやいや、そういうわけにはいかいから。早く行きなさい」

「せっかく勇気を出したのに、なんで気付いてくれないんですか。課長のためにがんばってたんです」

 広瀬はそう言って両手を恭介の背中に回し、胸に顔をうずめた。これはまずいぞ。恭介はどうやってこの状況を打開しようかと考えを巡らせていたが、背中の両手はますます強く恭介を締め付けていた。日ごろから部下との何気ない会話を大事にしてきたつもりだが、恭介は広瀬が自分に対してそのような感情を抱いていたことは、まったく気づいていかなった。広瀬の小さな体からぬくもりが伝わってきたころには、恭介はだんだん広瀬をいじらしく思い、そっと髪をなでた。自分も男だ。若い女の子に言い寄られてうれしくないと言えば嘘になる。少し部屋に寄るくらいなら…。その時恭介の目に、髪をなでた自分の左手の薬指にはめた結婚指輪が目に入った。妻の佐知子の顔が浮かんだ。自分には愛する妻も子どももいる。

「そんなふうに思っていてくれてありがとう。でもやっぱりこれ以上はだめだ」

 恭介はがそう言うと、広瀬は恭介を見上げた。恭介をじっと見つめた目が赤いのは、飲んだお酒のせいだけではなくうっすらと涙が溜まっていた。いつの間に塗りなおしたのか、グロスを塗ったぷっくりとした唇が光っている。このままじゃおさまりがつかないな。恭介は夜風で冷たくなった広瀬の頬に手を当てた。恭介が顔を近づけようとしたとき、広瀬は我に返ったように慌てて恭介から離れた。

「すみません、また明日」

とだけ言って、小走りにマンションの中へ入っていた。恭介はそれを見てほっと胸をなでおろし、地下鉄に駅に向けて来た道を戻っていった。しかし、向かいのマンションの駐車場の陰から、一人の男が険しい表情でその一部始終を見ていたことに、恭介も広瀬も気づいていなかった。

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