第5話
「ところでさ、ノワールが迎えにきてる」
ユイはそう言ってベランダを指差す。
ベランダには黒い猫が一匹、ちょこんと座っていた。
ブランと同じく、私が勝手に名付けた、近所に住みついているノラ猫のノワール。この二匹はいつも一緒にいる。多分、夫婦。
ブランはノワールの元へと駆け寄り、窓をシャカシャカする。ここから出たいのだろう。
「うーん。流石にこのまま出すのはなあ……」
ユイの言う通り、流石にあの汚れのまま外に戻すことはできない。
ならばやるしかない。
「ユイ、ブラン捕まえて。お風呂入れる」
「紗耶が入れんの?」
「うん。実家にいた頃猫、飼ってたし。多分大丈夫」
「そういうことなら了解。その間にこっち片付けとく」
「ありがとう」
急いでジャージに着替え、ブランをお風呂に入れる。お風呂場に入るまでなかなか暴れたが、観念したかのようにおとなしくなった。
猫用の石鹸などはないため、お湯だけでなんとか絵の具を落とす。
思っていたよりも絵の具が乾いておらず、すんなりと色が落ち、ブランの持ち前の白い毛が現れた。
まだ何も描かれていない、キャンバスみたいだ。
「ブランは、ノワールが好き?」
ブランを撫でながら問う。にゃーんとすぐに返事が返ってきた。
「ノワールと一緒に入れて嬉しい?」
この問いにもすぐ返事が返ってきた。
まるで人の言葉がわかっているみたいだ。
「ユイとこれから先いても良いと思う?」
ブランと目が合った。じっと、静かに、見つめられる。
自分で決めろってことだろうか。
少しの間見つめあった後、わかったと言うと、満足気にうにゃんと鳴いた。
ブランを乾かして、ノワールと再会させると2匹仲良く帰って行った。
帰り際、ブランはまた私を諭すようにじっと見つめられた。
アトリエはユイの手によって、普通に歩けるスペースができていて、2人で片付ける。
「ユイ、あのさ」
「なに?」
「この前の、ぷ、プロポーズのことなんだけど……」
「ああ……。無かったことにしてくれていいって言ったじゃん。気にしないでよ」
ユイは淡々と、作業をしながらこちらの顔も見ずに言い放つ。
その姿に腹が立ってしまった。こうさせたのは自分のはずなのに。
「しない。無かったことになんてしない!」
突然私が声を荒げたことに、目を丸くさせている。
「私だって、ユイと一緒にいたい。でもそれは……私は、ユイにとって重荷になるから……!」
「……そんなことないよ」
ユイに優しく手を握られる。
鼻がツーンとして、ユイの顔が見れなくなった。
「あるんだよ。だって私、ユイがいなきゃ、生活できなくて、何もできなくて……そんな私だから、ユイを縛りたくはなくて……」
言葉がうまく紡げない。
視界がぼやけてぼやけて仕方がない。
頭が真っ白になる。
本当に伝えたいのはこんなことじゃない。
もっとあるはずなのだ。
もっと、もっと。
でも、泣き止むのを待ったら、せっかくの勇気がなくなりそうだ。
これ以上、ユイを待たせたくはない。
なら、もう、。
「ユイ……こんな私だけど、一緒にいてくれますか?」
ゆっくりと、顔をあげる。
すると視界がユイを捉えることなく暗転し、ドンッという音と衝撃を感じた。
痛くはなかった。ただ頬に冷たい感触がする。
水……だろうか?
視界が開けると、ユイは下にいて、2人で床に転がっていた。
白く濁った水溜まりに少し突っ込んでいる。
どうやら頬についたのはその飛沫のようだった。
ふふっと、笑い声がする。
「逆プロポーズっやつじゃん、これ」
「本当だ……」
ユイにつられて笑ってしまう。
しばらく2人で笑った後、ユイは急に黙ってそして。
「いいよ」
優しい、口付けをして、また二人で笑い合った。
しばらくして、ユイは我に返ったのか、明日のスーツがないと騒いでいた。
そんなユイを横目にベランダを見ると、山茶花の花が一輪、まるで意図的に置かれたかのように落ちていた。
ブラン 夏谷奈沙 @nazuna0343
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