30分後、僕と坂崎は、スタッフルームで着替えをしていた。スタッフルームはその大部分が店の物置として活用されており、クローゼットとカフェテーブルとスツールが2つ、全身映るサイズの鏡が一つあるだけだったが、着替えにはそれで十分だ。用意されていたバニー服は残り一着。それは予定通り坂崎が着て、僕の分は、急遽店のマスターが買いに走ってくれた。Rioの着ているものよりは露出の少ないバージョンのバニー服だ。

 狐につままれた気分だった。どうしてこうなったのか、思い返しても腑に落ちない。坂崎はあの後も、しばらく駄々をこね続けていた。が、トイレの電球を買いに行っていたマスター(男前)が戻って来て「よう、楽しみにしてるぜ」と声をかけると、観念したのか、大人しく自らスタッフルームへ向かった。――僕を連れて。

 何故僕がバニーを着なければならないのか。僕の放った根源的な問いに、坂崎は真っ直ぐな目をして答えた。

「今着なくて、いつ着るんだよ。ここで着なかったらお前、一生後悔するぜ」

 この無茶苦茶な返しを言い切った時の坂崎の表情は、何故か、真剣そのものだった。夏の暑さのせいだろう。僕は、その言葉に、心を掴まれるような強い説得力を感じてしまったのだ。

 しかし着替え終えた自分を鏡で直視した頃には、早くもその決断を激しく後悔していた。どう見ても、変態だ。体つきはRioよりひょろいし、体毛は元々薄くて目立たない。が、そういう男がバニーの服を着ているというだけで、可愛くもなんともない。

 二人の言葉を信じた僕が馬鹿だった。泣きたい気持ちで惨めに立ち尽くす様子を気にも留めず、坂崎はバニー姿の僕をひとしきり眺め、頷くと、「さて。じゃ、次は、メイクすっか」と、持っていたバッグの中からメイク道具一式をずらりと取り出す。

「え、坂崎君がするの?」

「なんだよ、じゃあ自分でやるか?」

 そう返されても不安しかなかったが、自分でやったところでいい結果になる気は微塵もしなかった。完全にやけくそ、半ば不貞腐れながら、黙って身を任せる。


 そして魔法が発動した。



 意外な程柔らかな指で坂崎は、僕の顔に、化粧下地を伸ばしていく。目元までしっかりファンデをなじませる。目の下に染みついた隈に真剣な表情でコンシーラを叩きこんで消し去り、丁寧に肌のベースを作る。

「すごい……。つるつるに見える」

「ブルべだな」と一人ごちた坂崎は、ブラシを手に、ラベンダー色とパステルピンクの粉を頬骨の上に丸くはたき、ふんわりと立体的に仕上げる。

うるうるとしたチェリーピンクの唇。不自然にならない程度に長くかかれたアイライナー。光を受けてキラリと輝く細かいラメの入った桜色のアイシャドー。

「目、でか!」

「女の子ならこれくらい普通っしょ。うわ、まつ毛なっが。つけま要らねーな」

 しゃべりながら、器用にまつげの1本1本をカールさせ、マスカラを塗っていく。

最後の仕上げに前髪を整えて、坂崎は顎をさすり、いいじゃん、と満足げに頷いた。

「どうよ」

 僕は、途中から完全に言葉を失っていた。

これは、本当に鏡なのか。ここに映っているのは本当に僕なのか。

「ちょっと立ってみ?」

 促されて立ち上がり、全身を鏡に映す。愕然とする。

 ――可愛い。普通に可愛い。全然女の子だ。

 目を見開き口を開けたまま、振り返った僕に、坂崎は、ちょっと照れ臭そうにへへっと笑って目を逸らし、言った。

「俺さ。本当は、メイクアップアーティストになりたかったんだ」

 僕は食い気味に返した。

「なれるよ。なればいいじゃん。今からだって」

 ――坂崎の目が、射るように僕を見た。

 前のめりになっていた僕は、びくっとして一歩後ろに引いた。何か言いかけた坂崎は、唇をきゅっと引き結び、黙って自分の爪先を見つめた。

 ややおいて、何事もなかったかのように顔を上げた坂崎は、「そうだな。うん。そうだよな」と、あははと笑いながら、言った。

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