沈む 2
こんなはずじゃなかった、と佐々木麻美は思った。
義孝から離婚を突き付けられ、判を押して旧姓に戻り、数ヶ月。予想はしていたとはいえ、義孝の子でないとあの場で知らされた時は肝が冷えた。予定では、離婚するにしても慰謝料をがっぽりもらい、それで生活の基盤を整えたら、毎月の養育費と母子手当で生活するつもりだったのだ。
だけれども、それはあくまでも『二人の子』であることが前提である。疑いがあろうがなかろうが検査さえしなければ、蓮は確実に『麻美と義孝の子』なのだ。養育の義務は当然ある。だったのに。
「蓮は義孝の子ではありませんよね」
元姑の、あの一言で空気ががらりと変わった。
それさえなければ、まだ自分は『被害者』だったのだ。結婚前に孕ませられた、という。それが根底から崩れた。もう優位な立場でいられない。親子関係がないからと慰謝料も養育費ももらえない状態で子どもだけ押し付けられても困る。麻美は即座にそう思った。ならばこの混乱のどさくさに紛れて蓮を置いていこう、と。気が変わる前に逃げなくては。
それで、身軽な状態で家を出た。
それでも弁護士と名乗る男が家にやって来て、あれやこれやと言いくるめられ、養育費を支払わなければならなくなったが。
それでやむなく職を探すことになり、思い出したのが、元義姉の婚約者である『白南風恭太』の母が三千仲町で高級クラブを経営している、という話である。
ちょうど良いじゃん。
麻美はそう思った。
その辺のキャバクラなら二十代前半くらいの若い女の方が良いのだろうが、何せ高級クラブだ。それよりはある程度年齢を重ねた、大人の魅力がある自分の方が適しているはずである。親戚ではなくなってしまったが、まったく無関係という間柄でもない。それに離婚云々はあくまでも沢田家の話であって、白南風家については無関係なのだ。
麻美にとってはすごく都合の良い関係のように思えた。
それで。
早速店を訪ねた。
何せ、ご子息とかかわりのある人間なのだ。
履歴書なんて必要ないはずだし、何なら好待遇で受け入れてもらえるだろう。
そう思っていたのに。
「恭太の知り合い? ふぅん。それじゃちょっと待ってて下さる?」
頭のてっぺんからつま先まで、無遠慮に視線を走らせたかと思うと、恭太の母親――百合子はにっこりと笑って応接室を出て行った。
待たされること、十分。テーブルの上のティーカップも、紅茶も何もかも上等である。もうすぐここが自分の職場になるのだと思うと、自然と頬が緩む。大学時代に数ヶ月在籍したキャバクラとは明らかに格が違う。生活の質も上がるだろう。そしたら、金金とうるさい母親とはさっさと縁を切ってどこかいいマンションに引っ越して――。
そんな算段をしているところへ、百合子がやはり笑みを貼り付けた状態で戻って来た。それで、その形の良い唇から発せられたのは、
「お引き取りいただけるかしら?」
その一言だった。
「は、はぁ?」
「恭太に確認したんですけど、『佐々木麻美』なんて方に知り合いはいないって言うのよね。たまにいるのよ。知り合いと言って息子に近付く女が」
「ま、待ってください。あの、そっちは旧姓なんです」
「旧姓?」
「そうです! 実は私、旦那に浮気されて離婚して!」
もちろん浮気をしたのは自分だが、そんなものは調べなければわからないことだし、わざわざ調べたりもしないだろう。そう思って。それを聞いた百合子が眉をぴくりと動かした。話を聞いてもらえる、そう思い、畳みかけた。
「それで、親権も取られてしまって、息子のために養育費も払わなくちゃいけませんし、慰謝料も」
「まぁ、親権を。へぇ、息子さんが、ねぇ。で、慰謝料、と。それは大変ねぇ」
「そうなんです! ですから、そのためにも月に五十は必要で! あの! そう、『沢田』です! 『沢田麻美』って言えばわかってもらえるかと!」
百合子が眉を下げたのを、自分への同情と思った麻美は、ここぞとばかりに声を上げた。何せ同じ『息子を持つ母親』なのだ。同情されて然るべきなのだ。イケる、と確信し、目の端に涙までサービスしてやった。
「沢田、ねぇ。沢田麻美さん、とおっしゃるのね」
言うや、手に持ったままのスマートフォンを何やら操作する。通話ではなく、メッセージアプリらしい。相手からの返事が来るまでの間、麻美は調子よくぺらぺらとしゃべった。恭太と知り合いであるということに信憑性を持たせるために、我が家に来てどんなもてなしをしただの、去年の年末も一緒に過ごしただのと。
やがて、ヴ、と小さな振動音が聞こえたかと思うと、画面を見た百合子が、やはりニッコリと笑う。その笑顔で勝利を確信した麻美は、ほっと胸を撫で下ろした。
が。
「やっぱりウチでは無理ね。あなたじゃウチの客層は無理よ。その代わり、知り合いのお店を紹介してあげる。まぁ悪いところじゃないわよ。この名刺を持って、ここのお店に行ってごらんなさい」
そう言って、名刺を押し付けられて終わった。
ここの客層は無理、と言われたことには腹が立ったが、それでも指示されたとおりにその店に行くと、名刺を見た支配人は麻美をそれはそれは丁重にもてなしたのである。当然のように即採用だった。
そこからしばらくは悪くない日々だった。
待遇も良かったし、給料についても、五十とまではいかないものの、それなりの額がもらえたのである。それで、悠々と養育費を振り込んで自由を謳歌していたのだ。
が、欲が出た。
自分より若い嬢の客を寝取った。
その嬢は自分よりも指名は少なかったものの、客単価が高かった。いわゆる太客ばかりを持っていたのだ。それが欲しかった。
何もかも順調だった。
その時までは。
客を寝取ったことはあっさりとバレた。
客の一人が、麻美を待つまでの間にヘルプでついた嬢の身体をベタベタと触り、それを咎めた黒服に対して口を滑らせたのである。
「麻美ちゃんならこれくらいのことさせてくれるし、金を払えばヤらせてくれる」
と。
客と寝る、いわゆる枕営業は、この店では禁止されている。推奨する店などそうそうないだろうが、この店は特に厳しく、発覚次第即解雇と決められていたのである。
それで、その店を追い出された。
それでも、次の店はすぐに見つかると思っていた。
何せ、枕営業をする前だってあっという間に指名はついていたのだ。実力はある、と。
が、甘かった。
それはあくまでも『白南風百合子』からの紹介だったからである。この業界において、彼女からの紹介というのは何よりも強いカードだ。けれど、店を首になったと同時に、それは失われる。それどころか、『白南風百合子』の顔に泥を塗った麻美を雇う店はなかった。元いたところよりもランクが下と思われる店に行っても、門前払いである。
もちろん、他の職種――例えばコンビニやスーパーなどに行けば雇ってもらえるのだろうが、月に数十万稼いでいた人間が、時給千円にも満たないところで働けるわけがない。
日に日に減っていく残高に足元をふらつかせながら繁華街を歩く。そのうち家賃だって払えなくなる。毎月の給料に見合った家賃の高層マンションである。母親と暮らせば稼ぎをすべて持っていかれると思い、住所も教えずに引っ越したのだ。いまさらあのしみったれた団地になんて帰れない。
おねーさん、ウチで働かない? の言葉にパァっと顔を上げれば、『風俗店』のスカウトであった。ふざけんな! と突き飛ばしてその場を早足で去ったが、はた、と足を止めれば、そこはいわゆる風俗街である。
まさかと思うが。
まさか自分にはもうこの道しかないのだろうか。
そう考えてゾッとする。
数ヶ月前は良かった。
きれいな服を着て、酒を飲んで、客の話をただはいはいと聞いていればそれだけで良かった。話を聞いて、高い声で、すごいだのなんだのと持ち上げていれば良かったのである。
いや、その前だって、自由になる金こそ少なかったが、それこそ三食昼寝付きの生活だったのだ。子どもの相手は面倒だったが、もう数年辛抱すれば小学校に入学して、自由時間が増えるはずだった。それなのにいまはどうだ。自分はいま何をしているのだ。
お金がほしい。
お金がないと。
そのまま、夜の街に消えた麻美のその後は、誰も知らない。
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