§ ミフネサチカの婚活 §
破局
「ちょっと待ちなさいよ!」
すれ違う人達が、ぎょっとしたような顔で彼女を見る。彼女と、それから、振り返りもせずスタスタと歩き去る彼を。
「あたしの時間を返せ! 責任取れぇっ!」
バッグを投げつけてやろうと手を振り上げて、やめた。彼に無理やり買わせた新作である。傷がついたら売れなくなる。SNSにも上げないとだし、友人達にも自慢しないとだし。そう思って。
歩き去る男――
精一杯、従順な女を演じた。彼女から
結婚さえしてしまえばこっちのものなのだ。
医者の妻になれれば、全部お釣りが来るのだ。
自分本位のセックスをするような男だけど、金さえ出してくれればそれで良い。
幸花はそう思っていた。
が。
「たまには君も出してよ」
映画に行く前の、カフェだった。上映まであと三十分。時間を潰す目的だからと、仕方なく入ったチェーン店のカフェだった。いつもは何も言わずに会計をする彼が、幸花の方を振り返ってそう言った。笑っていたから、恐らく、彼にしてみれば単なるジョークのつもりだったのだろう。
彼のその一言に、幸花は、カチンと来た。全く笑えないんだけど、と。
「なんで?」
あたしに対して、そういうつまらないジョークはもう二度と言わないように。そういう意味を込めて、そう返した。学生同士のお付き合いじゃないのよ。アンタはあたしの夫になる人なんだから、全額アンタが出すに決まってるでしょ。妻に財布出させるとか、ダサいことしてんじゃないわよ。
そんな思いを乗せた「なんで?」だった。
けれど。
「なんで?」
返ってきたのは同じ言葉である。
「なんでって、わからない?」
「わからない」
後ろの人の邪魔になるからと列から外れ、昴は、店員に「すみません、一旦キャンセルで」と声を掛けた。それにも幸花は腹を立てた。別に特別コーヒーが飲みたかったわけではない。こんなことで注文をキャンセルとか恥ずかしすぎる、そう思ったのだ。あたしに恥かかせてんじゃないわよ。モサ男の分際で、と。
良い機会だから、しっかり教育しないと。幸花はそう思った。何せこれから長い付き合いになるのだ。しっかり教え込んでおかなければ。自分を完璧にエスコート出来る男にしなくてはならないのである。
だから店の外に出て、幸花は懇切丁寧に一から十まで教えてやった。女性と、というか、自分と出掛ける時のマナーや心構えなどをだ。常に気を遣え、あたしを楽しませろ、一瞬でもつまらなそうな顔をさせるな、金を出させるなんて以ての外。プレゼントは毎回用意すること。花は邪魔になるから、ドライブデートの場合のみ可。車は最低でも普通車。軽なんか死んでも乗りたくない。ていうか医者なんだし、外車の一台くらい買っておきなさい。
なんでここまで自分が面倒を見なければならないのだという気持ちがなかったわけではないが、それよりもいまなら自分好みの男に育てられるという気持ちの方が勝った。この男が恭太に勝てる部分なんて金だけだ。顔もスタイルもかなり劣るが、身につけているもので何とか底上げは出来る。均せば及第点というわけだ。
このあたしが結婚してあげるって言ってんだから。
幸花の頭にあるのはそれだった。
プロポーズの言葉はまだだったが、何せ出会いが婚活パーティーなのだ。ならば付き合った時点で婚約しているも同然である。
それなのに。
「君はやっぱりそういう女なんだね」
返ってきた言葉がこれだ。
耳を疑って聞き返す。
「職場の皆から言われたんだ。その彼女、おかしくない? って」
「はぁ?」
毎回プレゼント?
高級レストラン?
彼女さんからは?
何もないんですか?
やっと自分にも春が来たと思って、付き合い始めた恋人――三船幸花の話をしたのだという。すると、その場にいた看護師達は一様に顔を顰めた。そして、近くにいた者も、少し離れた位置で何やら書類仕事をしていた者も集まって、口々にそれはおかしいと言ったのだった。
騙されてますよ。
それ、お金目当てですって絶対。
先生、目を覚ました方が良いです。
まさか、と思った。
けれど、
「試しに、『たまには君も払って』とか『今日は割り勘で』とか言ってみたら良いんですよ。そこで本性がわかりますから」
そう言われたのだ。
それで、確かめてみようと思った。実家住まいで花嫁修業中とのことだったから、収入がないことも知っていた。高級レストランはさすがに無理だろうと思ったから、リーズナブルなカフェにした。コーヒー一杯、五百円もしない。これくらいの額ならさすがに払うだろう。彼女はいつも身ぎれいにしているのだ。美にかける金はあるのである。ならば、ほんの千円足らず、出すはずだと。
もちろん職場の看護師達は、それなりのレストランなりバーなりの話をしていることだってわかっていた。わかっていたけれど、あえてこの店にした。それで、「仕方ないわね」なんて言いながら彼女が払ったのを、「やっぱり僕は騙されてなんかいなかったよ」と報告するつもりだったのだ。
これくらいなら、出してくれるはず。
そんな期待はあっさりと裏切られた。
「なんで?」
その一言で。
たった五百円すら、出すつもりもないのだ。それどころか、『今後のお付き合いのマナー』とやらを声高に主張までしてきた。それによれば彼は、彼女と会う度にありとあらゆる局面で財布を出さねばならないらしい。それから、高価なプレゼントに。車も外車に変えて。
彼女達の言葉は正しかったのだ。
それで。
「僕達もう別れよう」
その結論に至ったのである。
その言葉を告げた瞬間、幸花は豹変した。何せそれまで、昴の前では猫を被っていたのだ。今後のマナーとやらを滔々と語っていた時だって、(内容云々はさておいて)口調はまだ穏やかだったのだ。それが。
「はぁ? 別れるって何?」
「ふざけんな。あたし別れないから」
「別れるなら慰謝料寄越せ。それから、知り合いの医者を紹介しなさいよ」
休日のショッピングモールである。
もしかしたら、知り合いもいるかもしれない、思い切り生活圏内のショッピングモールである。
真っ赤な顔で髪を振り乱し、身体中から怒気を放出しているかのような剣幕で、幸花は叫んだ。しおしおと泣いて縋れば、まだ望みはあったかもしれない。お金持ちの恋人が出来て浮かれてしまった、ちょっと調子に乗ってしまったと謝れば、まだ何とかなったかもしれない。昴の方でも、幸花と結婚する気持ちはあった。モテない自分がこんな美人と付き合えるとはと、彼の方でも浮かれていたのだ。
けれども。
そんな仄かな恋心なんて、一瞬で冷め切った。
だから彼は追い打ちをかけるように、「もう無理だ。プレゼントしたものを返せとか、そんなことは言わないから、今後一切関わらないでくれ。これまでさんざん貢いできたんだ。慰謝料というなら、それで十分なはずだ。知り合いを紹介? 無理無理無理無理。君なんか紹介したら僕の評判がガタ落ちだよ。絶対に無理。連絡先も消す。さよなら」と早口で告げ、足早にその場を去ったのである。
その場に残されたのは、あと数ヶ月で三十一になる、無職女性一人であった。
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