その左手の薬指に 2

 それからはまたバタバタと。

 本当にもうバタバタと動いた。


 指輪のデザインと素材を決めてから実店舗に行き、サイズを測ってもらって注文。出来上がりに二週間かかると言われた。


 それで――。


 テーブルの上には、記入済みの婚姻届がある。後はもう役所に出すだけだ。身仕度が出来たら、この後出しに行くことになっている。その傍らには、小さな箱がある。中に入っているのは、指輪だ。


 その、届と箱を交互に見つめる。

 結局『結婚』とは、この二つなのだ。いや、厳密には届だけなんだけど。気持ちの上で、指輪というのはやはり重要なファクターである。


 言ってしまえば、ただの紙切れと、貴金属である。


 私はこの二つのためにこれまで努力したり、から回ったり、落ち込んだり、泣いたりしたのだ。それら全部が無駄だったとは思わない。結婚相談所を利用したものの、そこで知り合った人とは御縁がなかった。結構な額を注ぎ込んだけれど、それも無駄だったとは思わない。


 あそこに通っていたから、あの時出会ったのだ。彼との距離が近付いたのも、そうだ。もしあの時、金井かないさんがあのカフェを指定していなければ、きっとこの未来もなかった。


「マチコさん」


 名を呼ばれ、そちらを見る。

 誰もが振り返るようなイケメンだ。それがもう、一分の隙もない完璧コーディネートで立っている。控えめに言って心臓に悪い。この人が私の夫になるのだ。


「行きましょうか」


 そう言って立ち上がりかけた時、「待って、そのままで」とそれを制して、彼は膝をついた。テーブルの上の箱を手に取り、「やってみたかったんだ」と呟く。


 それを私の前で、かぱ、と開ける。

 二人で選んだペアの指輪が並んでいる。


「沢田真知子さん、俺と結婚してください」


 その一言で、胸がぎゅっと苦しくなる。プロポーズの言葉は、出会ってすぐの頃にももらった。彼女のふりをしてくれと言われ、何の気の迷いか本当の彼女になってくれと昇格し、その流れで、餌のようにぶら下げられたやつだ。ほとんど脊髄反射でお断りしたのが懐かしい。


 それから紆余曲折あって、私はまた彼に求婚されている。返事なんて決まりきっているというのに、それでも、箱を持つ手が小さく震えているのは、体勢が辛いとか、そんな理由ではないことくらい私にもわかる。彼はいつも堂々としているけれど、いつだって、ここぞという時にはかなりの勇気を振り絞っていた。女性から断られたことのない彼を、唯一拒んできたのが私だから。


「謹んで、お受け致します」


 箱を持つ彼の手を両手で包む。すると彼は、身を乗り出して、そのまま唇を重ねてきた。


「これからもよろしく、マチコさん」

「よろしくお願いします、恭太さん」

「末永く」

「はい、末永く。でも――」

「でも?」

 

 何かまだ気になることが? と彼の表情が曇る。


「気になること、っていうか。誓いは、式の時にするものかな、って思っ」


 て、と続くはずの言葉を塞がれる。

 突然のことに驚いて、ふは、と息が漏れる。キスの時は鼻から息を吸うようにと教わったのに、つい酸素を求めて口を開けてしまう。彼の唇は貪欲だ。そのわずかな隙間を逃すまいと、彼は、侵入してくる。拒む理由はない。私達は、もうすぐ夫婦になる。テーブルの上の婚姻届を然るべきところに提出する、たったそれだけのことで、私達の関係は変わるのだ。ただの他人だったのが、口約束の婚約者を経て、夫婦になる。


 息が上がる。

 鼓動が弾む。

 体温が混ざる。

 感情が流される。


 身体ごと、彼のものになりたいと、思う。

 

 だけれども。

 

「……ま、待ってください」


 誘惑をどうにか断ち切って、唇を離す。平時から血色の良い彼の唇が、一層艶めいていて、ぞくりとする。口紅は出掛ける直前に塗るつもりだったから、私の口には色のない薬用のリップクリームしか塗っていない。何かしらの色が移るわけは、ない。


「マチコさんの口、真っ赤になってる。ごめん、やりすぎた」

「きょ、恭太さんの方こそ。ていうか、あの、行かなくて良いんですか?」


 ちら、とテーブルの上の婚姻届を見る。そうだった、とおどけて笑い、すっくと立ち上がる。それにつられて私も、よいせ、と膝を伸ばした。


「マチコさん、指輪、つけてくでしょ?」

「そうですね。あの、お願い出来ますか?」

「もちろん。俺にもお願い」

「わかりました」


 まずはマチコさんからね、と言われて、左手を差し出す。きれいなネイルとは無縁の、でも一応、手入れだけはちゃんとしているつもりの手だ。その手の薬指に、ゆっくりと指輪をはめられる。


 見慣れているはずの自分の左手に、銀色の線が一本走るだけで、見慣れない手に変わるのが不思議だ。そんなことを思う。


 次は恭太さんの番だ。


「ん」


 照れ隠しなのか、ちょっとぶっきらぼうに差し出された手を、壊れ物でも扱うがごとく、慎重に受け取る。少し骨ばった、私よりも大きな手だ。室内にこもりがちな恭太さんの手は白く、うっすらと血管が見える。他人の指に指輪をはめるなんて経験は、当然のことながら、ない。ただはめるだけだとわかっていても、つい、おかしな力が入ってしまう。私の力ごときでよもや歪んだりはしないだろうが、それでもちょっと不安になる。わずかにでも変形したりしないだろうか、と。それでぷるぷると震えながら、ゆっくりゆっくりと前進させていると、頭上から「ふっ」と声が聞こえて来た。


「な、何ですか?」

「いや? 何でもない。ただ、随分と丁寧でびっくりしただけ」

 

 その言葉で思い出す。

 彼は覚えてないかもしれないけど。

 私が恭太さんと初めて会った日に、かけられた言葉を。


 随分と丁寧な人でびっくりしたと、彼は言ったのだ。

 

 私はそれを、嫌味と捉えた。

 

 私の手際の悪さや、それ故に時間がかかりすぎることなどを精一杯オブラートに包むと『丁寧』という言葉に変換されるのだ。だからきっと、そういうことだと。


 あの時の恭太さんも、そういう意味で言ったのかもしれない。ただ純粋に、そう思っただけかもしれないけど。


 だけどきっと今回のは、額面通りに受け取って良いやつだ。私もちょっとずつわかるようになってきた。彼からの言葉に関しては。


「俺の手、そんなにVIP対応じゃなくて良いよ。もっとガッとやっちゃって良いのに」

「そんなわけにはいきません。私にとっては、VIPです」

「そ?」


 お互いに指輪をはめ終え、どちらも、何だか見慣れない手になった。これまでとの変化はたった一箇所。きっと数メートルも離れれば肌の色に馴染んで溶けてしまうほどに、細いシルバーのラインである。そのたった一筋だ。


「それじゃ、行きますか」


 玄関を出、ふぅ、と大きく息を吐いた恭太さんが、私の顔を覗き込む。はい、と返してから、右手を差し出した。


「手を、繋いでいきませんか」


 そんな言葉を添えれば、「マチコさんから誘われて、繋がない選択肢とかあるわけないし」なんて強気な返事が来て、笑ってしまう。いつもより強く握られた手を握り返して、私達は歩き出した。


 再びこの道を歩いて戻って来る時には、私はもう『沢田真知子』ではないのだ。そんなことを考えて、振り返る。


「どした? マチコさん。何かいる?」


 私が後ろを気にしているものだから、恭太さんも気になったらしい。もしかして、俺のストーカーとか? などと物騒なことまで言い出した。待ってください。いるんですか? いま現在。


「いいえ、何も」


 そう返して、「ほんと?」と背後を気にする恭太さんの手を引く。


「早く行きましょう、恭太さん」


 いつの間にか、その名を自然に呼べるようになった。

 

 彼はそれに気付いているのかいないのか、「行こうか、マチコさん」と照れたように笑った。

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