その左手の薬指に 1

「マチコさん、そろそろ覚悟決めない?」

「わ、わかってはいるんです。頭ではちゃんとわかってはいるんです」


 ぐいぐいと恭太さんの顔面が迫って来る。もうほぼほぼ息のかかる距離と言っても良い。

 

「ですけど、やっぱりちょっと心の準備と言いますか」


 そう言うと、「まぁ、気持ちはわからんでもないけど」と彼はがくりと肩を落とすのである。


 恭太さんのお母様――百合子さんとの挨拶も終わり、冬期休みも明けて、私も恭太さんも忙しくなった。それでも、婚約中の身だ。平日は無理でもせめて週末は一緒に過ごそう、という話になり、金曜の夜になると私の部屋に彼が泊まりに来る。それで、金、土と泊まって、日曜に帰るのだ。私と彼の部屋の更新が三月なので、入籍後もしばらくはこの生活の予定である。が、三月といえば、物件が埋まりやすい時期でもある。なので、二月中にはどうにかしたい。


 ここは単身者向けの狭い部屋だ。

 夕飯を食べ終えると折りたたみテーブルを畳んで壁に立て掛け、そこに布団を敷く。何せ、さすがにシングルベッドに二人は狭い。


 恭太さん用に敷いた布団の上に並んで座り、私のベッドを背もたれにして、何となくつけっぱなしになっているテレビを観ながら、ぽつぽつと会話をする。それが私達の過ごし方だ。もちろん、会話だけということはないわけだけど、何となく、『順番は守らないと』と私も恭太さんも考えている。


 それはもちろん、弟夫婦の一件があったからだ。いや、私達には当てはまらない話だと思うけど、その、なんていうか。そこは、うん。


 なので、二十四日に籍を入れるまでは、という話になっている。


 それで。


「でもさ、そんなに身構えるもの?」


 指輪だよ?


 と、布団の上に散らばっているカタログをかき集め、膝の上でとんとんと揃える。


「わ、わかってるんですけど。なんていうか、その、高価すぎて。それに、その、婚約指輪は本当にいらないと思うんですけど」

「えぇ? いらないかなぁ」

「だ、だって、婚約期間なんてあともう何日もないんですよ? だったら結婚指輪だけで良くないですか?」

「そうかぁ。俺としてはマチコさんの指にこう、こんくらいのダイヤを、どーんって」

「そ、それが怖いんです! ダイヤなんて、そんな!」

「え? 女の人ってそういうの憧れたりしないの?」

「憧れ……るかもですけど。私だって二十代とかだったら憧れてたかもですけど」

「じゃあ、何でいまは欲しくないの?」


 ばさ、と扇のようにカタログを広げる。

 どれもこれも歴史のある宝石ブランドのものだ。

 さっきぱらりと見てみたけれど、これに載ってるダイヤの指輪なんて、下手したら車一台買える額だ。こんなの怖すぎてねだれるわけがない。


「だ、だって。それよりも、例えば、貯金に回すなり、マイホームの資金にするなり、とか」


 それに子どもが出来たら、教育費にあてたり。というか、教育費以前にベビー用品が先か。いや、その前に生活費だ。うん、生活、大事。


 などと、指を折りながら話していると、その手を両手で丸ごと包まれた。


「マチコさん」

「な、何ですか?」

「マチコさんも子ども欲しいって思ってた?」

「そ、れは、まぁ。出来るものなら」

「良かった。俺頑張る」

「え、頑張る、何を?」


 産むのは私では?

 頑張るのは私では?


「まぁそれは一旦置いといて。あんまりそこんとこ詰めると、じゃあ早速、ってなりそうだから」

「で、です? ね?」

「というわけで。わかった。マチコさんがそこまで言うなら、でっかいダイヤの婚約指輪はナシにしよう」

「良かったです」


 何とかわかってくれたみたいで、ほっと胸を撫で下ろす。

 そんな大きなダイヤをもらったところで、まさに宝の持ち腐れなのだ。若い頃なら何も考えずに欲しがったかもしれないが、このご時勢に贅沢は良くない。出来るだけシンプルに、無駄なく生きないと。


「じゃ、俺とペアだし、普段使い出来るような、シンプルなやつだな?」

「そうです。そういうのが良いです」

は? ゴールド? シルバー?」

「そうですね、シルバーでしょうか」


 そう答えてから、何となく違和感を覚える。

 色? と。


「成る程。じゃ、素材はプラチナでー」

「えっ」

「えっ? 何? 違った?」

「えっ、いや、あの、シルバーは、シルバーでは?」

「いやいや。結婚指輪だよ?」

「ですけども?」

「結婚指輪で、色がシルバーなら、それはもうプラチナだよね」

「そうなんですか?! あれ? ウチの親ってどうだったっけ?」

「まぁまぁ、そこはそんなこだわるところじゃないから。大丈夫大丈夫」

「そ、そうなんですか? ほんとに?」


 もしかしてこれが百合子さんの言う「口車に乗せられている」状態なのでは?!


「ほんとほんと。それで、ブランドだけど」

「ひっ、また怖いカタログが!」

「怖くない怖くない。この時点ではこんなのただの紙の束だから」

「そうですけど!」


 0の数が多すぎて目がちかちかする。

 テレビや雑誌で見たことだけはある、だけど一生無縁だと思っていたブランドのカタログばかりがそこにある。


「も、もうちょっと考えさせていただいて」

「またぁ? 良いけどさぁ。ていうか、マチコさんは何にビビってるわけ? もしかして、俺からの指輪とか、欲しくなかったり?」


 扇状に広げたカタログで鼻から下を覆い隠し、きゅ、と眉毛を八の字に下げる。いつもはクールな切れ長の目が潤んで、さながら叱られてしょげる大型犬のようだ。


「欲しくないとか、そういうわけでは! ただ」

「ただ?」

「その、本当にあまりにも分不相応に思えるというか。こういうブランドのものって、海外セレブとか、そういう人が身に着けるもの、っていうイメージがあって」

「成る程」

「指輪だけ立派でも、着けるのは私ですし。その……さんじゅ」

「はい、『三十二のおばちゃん』はNGワードですー!」

「えぇっ?! そうでしたっけ?」

「そうなの。でもまぁわかった。そういうことね」


 じゃあさ、と膝歩きで部屋の隅に移動すると、そこに置かれていた鞄を漁り、もう一冊のカタログを取り出した。それを「これならどう?」と振りながら戻って来る。


「これは?」

「実はまぁ、だろうなって思ってはいたからさ。俺も色々探してみたわけ」


 そう言って、こちらに手渡して来たのは、『ゆい』という、国内メーカーのカタログである。


「聞いたことないです」

「あ、ほんと? これね、ブライダルジュエリー専門の店らしくて。結構老舗みたいなんだけど、やっぱり海外ブランドの方がわかりやすくて人気だから、あんまり目立たないかも」

「そうなんですね」


 ぱらり、とめくると、そこにあるのはどれもこれもシンプルなもの――といってもゴテゴテしていないからそう見えただけで、デザイン自体は捻りが効いたものもある――ばかりだ。


「さすがに俺もね、マチコさんのことわかってきたから」

「……と、言いますと?」

「あんま0が多いと駄目」


 ニッと笑って、「正解?」と尋ねてくる。それはまぁ、そうなんだけど。ズバリ言い当てられると恥ずかしい。


「別に、0が多いと駄目とか、そういうわけでは。車とか家とかなら、それは」


 とりあえず反発してみるが、恭太さんは全部お見通しとばかりに「そうだねぇ。そうだよねぇ」とにんまり顔である。


「いや、俺もさ。別にマチコさんの意思を無視してまで高いの贈りたいわけじゃないから。だけど、長く使うものだし、高いもんはやっぱり質が良いのも確かだしな?」

「それは、そうですよね」

「で、ちょうど良いのを探した結果がここ、ってわけ。マチコさん好きじゃない? 国産って響きとか」


 どう? 俺なりにかなり歩み寄ったんだけど、と上目遣いで見つめてくる。確かに『国産』という言葉は好きだ。国産だからこそ高級なものももちろんあるけど、地に足がついてる感じがするし、安心感もある。


 それに、これまで見てきた指輪達に比べたら、デザインもシンプルだし、価格もかなり抑えられている。私の『一生物の指輪』として背伸びするのにちょうど良いのではないだろうか。

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