結婚の報告
「教授、いま少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
そんな畏まった物言いで、恭太が
「どうしたの、白南風君。――おや?」
穏やかな笑みを湛えて椅子を回転させ、彼の方を向くと、すらりとした高身長のその後ろにもう一人控えていることに気付いて、「まぁまぁ、中にお入りなさいな」と手招いた。
「ちょうどおやつの時間だし、甘いものでも食べてかない?」
君、好きでしょ甘いの、と言いながら、デスクの引き出しを開け、クッキーの缶を取り出す。
「えっと、ではお言葉に甘えて」
真知子さん、と促され、彼女もおずおずと入室する。それを見て康成はウンウンと頷き、コーヒーの準備を始めた。
「教授、俺が」
と手を伸ばすのを「良いから良いから」と制する。
「僕の楽しみを奪わないでよ。僕はね、こういうおもてなしって大好きなの。奥さんからもね、コーヒー淹れるの上手になったって太鼓判押されたんだから」
さらりと惚気けてみせ、さっと手際よく三人分のコーヒーを淹れると、トレイの上にそれらを乗せ、その中央には仕上げとばかりにスティックシュガーを山盛り置いた。その量に真知子が目を丸くしていると、恭太が「な?」とでも言いたげに目配せをしてくる。以前彼は『自分の砂糖の量はこの界隈では普通、むしろ少ない方』だと豪語していたのだ。次々と砂糖を投入している康成を見て、そういうことか、と真知子は納得した。確かに彼に比べたら恭太の量は少ない方だ。
「それで?」
健康面が心配になるほどの砂糖を投入したコーヒーを美味そうに飲み、にこりと笑う。
「かねてから教授にはお話しておりましたが、先日、籍を入れまして」
恭太がそう言うと、康成は元々細い目を一層細くし、「そうかそうか」としみじみ言った。
「沢田さん。彼はね、少々誤解されやすいところもあるかとは思いますけど、こっちの分野に関しては本当に真面目な子でねぇ」
「え、っと。はい」
「ちょっと根詰めすぎることもあるので、ちょっと心配ではあったんです。でもほら、いまの時代、お嫁さんをもらったら、なんて迂闊に言えないじゃない?」
「それは、確かに」
「でもねぇ、僕自身が奥さんにだいぶ支えられてきた人間だから、彼にもそういう人が現れたら良いのになってずっと思ってたんですよ。でもほら、彼の場合ねぇ、ちょっと良くない女性も惹きつけちゃうっていうかねぇ」
あぁ、と真知子が色々悟ったような声を出す。康成は「ねぇ?」と念を押すように言って、ちらりと恭太を見た。真知子に対しては俺様の恭太でも師である康成には頭が上がらないと見えて、いやぁ、と濁すのみである。
「だからね、沢田さんとお付き合いしているって話を聞いた時は本当に安心したんですよ」
「ええと、あの、ありがとう、ございます」
何と返したものかと悩みつつ、感謝の言葉を口にする。
「いや、こちらこそありがとうですよ。彼のような若くて優秀な人材は貴重ですからね。沢田さん、どうかよろしくお願いします」
何度も頭を下げられ、それに返す形で真知子もぺこぺこと頭を下げる。
と。
コンコン、とノックの音がし、それに続いて「教授、よろしいですか」という声が聞こえて来た。声の主に気が付いた恭太が「げぇ」と顔を歪める。もちろん康成の方でも声だけでドアの向こうの人物が誰なのかわかったようで「どうぞ」と入室を促した。
「失礼しま――おっと。先客ですか」
「岩井さん。あの、どうも」
思わず真知子が腰を浮かせるのを「いやいや、座ったままで」とにこやかに制したが、恭太に向ける視線は厳しい。
「それで? 二人そろって教授に何の用?」
「結婚の! 挨拶に! 来たんすけど!」
「結婚?! ハッ?! 学生の身分でか?」
「お陰様で卒業は決まってますので」
「
「いやぁ、岩井サンのご指導ご鞭撻のお陰もあるかと?!」
「おう、そうかいそうかい。お前マジで夜道気を付けろな」
「ご忠告ありがとうございます。可愛い嫁さんもらったばっかりなんで、長生きしますわ」
「そうだなぁ、家族養うためにしっかり働かないとなぁ?! 明日から仕事増やしてやるから」
「上等ですよ。受けて立つっつぅの」
「はいはいはいはい。岩井君、僕の前で堂々とパワハラ宣言するのやめて。白南風君もね、安い喧嘩を買わないの」
康成がパンパンと手を叩いてにっこりと笑う。その堂々とした振る舞いを見て、手慣れてる、と真知子は唖然とした。胸に手を当てて、すわ一触即発か? とバクバクし始めていた心臓を落ち着かせる。
「沢田さん、驚かせてごめんね。この二人、いっつもこうしてじゃれてるの。本当は仲良いんだよ」
どうやらこのようなやり取りは日常茶飯事のようである。が、仲が良いとは到底思えないが。
けれども。
「ね? 仲良いもんね? いまの時代、能力のある若い子を妬んで仕事増やすとか流行らないし、それって結局自分が無能ですって喧伝するようなものだし。ねっ?」
「うぐっ」
「それに、相手の技量も推し量れないでとにかく上に噛みつくなんて、入学したての学生とか、入社したての新卒とか、社会を知らない二十代前半の若者まででしょ、許されるの。ねっ?」
「うっ」
「そう思うよね、沢田さんも」
穏やかスマイルを崩さず、口調もふんわりやわらかなのに、圧が凄い。突然名前を呼ばれた真知子も「お、おっしゃる通りで……」としか返せない。ぐっさりと釘を刺された二人は、さすがに言い返すことも出来ないようで、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
それを見て、真知子は。
いつだったか学食の面々が「笠原教授は笑顔で人を刺すのよ」、「あっ、もちろん物理的にじゃなくてね?」と言って笑っていたのを思い出していた。
怖い。
怖いけれども、この教授の下にいるうちは、ある意味安全かもしれないと胸を撫で下ろした。
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