あなたと同じが良い

「なっ、んっ、でっ、だ、よぉ〜!」


 いつものようにピークタイムを避けた午後二時半。ウキウキと学食にやって来た恭太さんは、厨房の奥にいる私の姿を認めるなり、うるうると涙目になった。その状態で発した台詞がこれだ。


「ちょっとちょっとどうしたのよ白南風君」

「なぁに? 研究行き詰まってんの? お疲れ? とりあえずその食券こっちに寄越しな?」


 カウンターを固める安原さん&小林さん重鎮二名が、厨房内に顔を突っ込まんばかりの勢いで前のめりになる恭太さんを鉄壁のガードで防ぐ。


「行き詰まってます。疲れてます。それは確かにそうです」


 A定食の食券をふるふると握り締め、提供カウンターに突っ伏す。そうなのだ。ここ最近の恭太さんはひたすら忙しい。それでも家には仕事を持ち込まないのだから恐れ入る。とはいえ、帰宅時間はかなり遅いし出勤時間も早い。


 私達はまだ一緒に住んでいないので、私に出来ることといったら、朝ご飯用のお弁当を研究室にお届けするくらいのことだ。早番の日はもちろん、遅番の日も。恭太さんは申し訳ないと辞退したが、私が引かなかったのだ。どうせ自分の朝ご飯は作るのだし、それを少し多めに作って詰めるだけ。遅番の日も私の起床時間は変わらないし。だから大丈夫、と。


 何よりも、三食しっかり食べてもらいたい。若いからと無茶な生活を――って睡眠時間に関しては無茶してるんだけど――してほしくない。


 手の中の食券を小林さんに奪い取られた恭太さんは、瞳を潤ませたまま、重鎮二人の間を縫って、厨房の奥にいる私に視線を送ってくる。


「マチコさぁん……!」

「あ、あの、いまは仕事中でして」

「それはわかってるけどさぁ」

「何? どうしたのよ白南風君。マチコちゃんと喧嘩でもしたわけ?」

「謝るならさっさと謝っちゃいなさい? どうせ白南風君が悪いんだろうし」

「そぉよぉ。悪くなくても男の方が謝った方が良いの。これが結婚生活を長続きさせるコツね」

「白南風君、そんなプライドは早々に捨てちゃいな?」 

「そうそう、謝ったら良いのよ。何したの? 元カノの写真でも出て来た?」


 もう完全に恭太さんに非があるような言い方である。いや、誓って恭太さんに非があるわけでは。


 というか。


 身に覚えがありません! 喧嘩なんてしてませんし!? 逆に私が聞きたいです。


 えっ、何!? どういうこと!?


「元カノなんていません! いたのはセフ――ゲホンゲホン、いや、まぁ、そういうのは、過去に、えっと」


 まっすぐ前を見て元カノ疑惑こそ否定はしたものの、その後に関しては何やらゴニョゴニョと視線を逸らして言葉を濁す。大丈夫、わかってますから。

 

「そうじゃなくて。別に俺は何もしてないですよ。ねぇ、そうだよね、マチコさん!」

「え、ええ、そうですね。これといって何も、ないと思います、はい」

「もうちょっと強く言い切って、マチコさん! 学食の皆さんの目が!」

「な、ないです! ないです!」


 ほらぁ、と恭太さんは学食の面々を見回して「俺は無実ですって」と声を上げる。それを聞いて、「ハイハイ。わかったわよぉ」と笑いながら恭太さんのA定食を仕上げていく。本日のA定のメインは塩サバだ。


「――はいよ、A定お待ちぃ」


 トレイをカウンター越しに提供し、小林さんがうんと悪い顔をして「それで? 何があったの?」と尋ねる。


「そう! そうですよぉ! ていうか、絶対にマチコさんの意思じゃないってことはわかってるんです!」


 そんなことを言い出して、添えられたミニサラダにドレッシングをかける。


「誰ですか? やっぱり安原さん?!」

「ちょっとちょっと何よぉ。あたしが何したってのよぉ。マチコちゃん、どういうことかわかる?」

「それが、私にもさっぱり。あの、恭太さん、もう少しわかりやすく」


 よくわからない理由で安原さんが責められるのは申し訳ない。だってきっと、私のことなんだろうし。全然身に覚えがないけど! ないんですけど!


「それ!」


 すると、恭太さんは、びしっ、と私の胸元を指差した。あの、人を指差すの、良くないと思います。私だからまだ良いですけど。


「名前!」

「へ?」


 学食のみんなが、一斉に私を見る。


「まだ『沢田』のままなんだけど!」

「え」


 そこでやっと気づく。

 彼がこれほどに消沈している様子に。

 私のエプロンについている名札はまだ旧姓のままなのだ。


「マチコさんはもう『白南風』なのに! 俺のマチコさんなのに!」

「え、あ――……、あの、それは」

「もしかしてあんまり好きじゃなかった? いや俺もさ、小さい頃は揶揄われたりしたんだよ、『シラハエ』なんつってさぁ」


 その言葉に、誰かが「あるんだ、そういうの」と呟く。

 ええ、私もいまびっくりしてます。


 じゃなくて。


「あの、聞いてください、恭太さん」

「別に俺は『白南風』じゃなくても良かったんだ。マチコさんと同じ苗字になるなら、俺が『沢田』になるんでも全然」


 そう言いながら、もしゃもしゃとサラダをつつく。

 いや、ちゃんと席について座って食べましょう?


 ひそ、と橋本さんが「ちょっと白南風君だいぶお疲れじゃない?」と耳打ちしてくる。それにこくりと頷いて「睡眠時間がちょっと」と返した。


「ちょっと聞きなさい、色男」

「何すかぁ」

「だいぶやられてるわね。普段の白南風君ならすぐ気付きそうなものだけど」

「何がすかぁ」

「だーから! こんなとこで『白南風』の名札なんてつけてごらんなさい、って話!」

「マチコちゃん、闇討ちされるわよ?!」

「身に覚えない? そういうの。ちょっと仲良くなった女子がいじめられるとかさぁ」

「……それは……あった、かなぁ……?」


 記憶を手繰り寄せているのだろう、天井を見上げて、ううん、と唸る。


「そっか。この男、それを気に病むようなタイプじゃなかったわね」

「白南風君的には『知らねぇよ』だもんね。うっかりしてたわ」

「何なら『お前誰だっけ』くらいのこと言いそう」

「っかー! これだからモテ男は!」


 酷い言われようである。


「とにかく!」


 と安原さんがまとめに入る。


「いくらいつもは奥にいるっていっても、あたしらが休んだ時はマチコちゃんだってカウンター入ることもあるんだし、その時に目をつけられたらどうすんのよ」

「そうよ。それにマチコちゃんはちょいちょいフロアの方にも出るんだから。囲まれてボコられたらどう責任取るってわけ?」

「小林さん、さすがにそんなこと起こるわけが」

「マチコちゃん、ここはあの二人に任せて」

「そうよそうよ。あたしらは高みの見物よ」


 と真壁さんと笹川さんが私を挟んでニヤニヤと笑う。


「そ、それは確かに考えられる……!」


 考えられますかね?!


「総務の馬鹿は何も考えずに新しい名札を用意してくれちゃったけどね、『学内で刃傷沙汰が起こったらどうすんのよ!』って突き返してやったの」

「あたしらに感謝しなさいよねぇ。白南風君、昔この手のトラブル起こしてるでしょ? 未遂だったけど」

「あぁ、まぁ、それは、はい」


 しょぼ、と肩を落とす恭太さんに、「わかったら、とっとと席について食べる!」と安原さんがさらに追い打ちをかける。学食のボスに逆らうことなんて出来るわけもなく、恭太さんは背中を丸めたままとぼとぼとトレイを持ってフロアへと向かって行った。


 と。


「さぁ、ここでマチコちゃんの出番よ!」


 真壁さんが肘で私を軽く小突く。


「え? わ、私ですか?」

「そうよ、あんなしょんぼりさせたままで良いの?」

「よ、良くはない、と思いますけど」

「でしょ? じゃあ、これ持ってってあげな!」


 そう言って、渡されたのは、個包装のチョコレート菓子だ。冷蔵庫にこっそり冷やしてある、私達の休憩用お菓子である。


「さりげなく、さりげなくよ?」

「そうそう、この小鉢に入れてさ、『すみません、小鉢お付けするの忘れてましたー』、って持ってくの」


 さっきまでおっかない顔をしていた安原さんと小林さんまでもが、こっちを見てにんまりと笑っている。


「な、成る程。わかりました。ありがとうございます。ちょっと行ってきます」


 そう言って指示通りに「小鉢をお付けするのを忘れてまして」とそれを届けに行くと、恭太さんの表情は一気に明るくなった。きっとこれでこの後も頑張れるだろう、そう胸を撫で下ろして「戻りますね」とUターンしようとしたところで、ぐい、と手を掴まれた。


「これって、そういう意味で合ってる?」


 と、チョコレート菓子の包みを指で挟んでひっくり返す。どうやらメッセージが印字されているものだったらしく、そこに書かれていたのは。


『あなたが好きです』


 の言葉。


 どうしよう。

 私が選んだやつじゃないんだけど。


 でも、間違いではない。


「……っそ、そういう意味で、合って、ますね」

「よっしゃ。もう完全回復した。さっきはダセぇとこ見せてごめん」

「ダサいだなんてそんなことないですよ」

 

 それだけ同じ苗字おそろいを大事にしてくれてるということがわかって、ちょっと嬉しくはある。でも、おそろいはこれだけじゃない。とこっそり左手に視線を落とす。


 精一杯こっそりと見たつもりだった。


 のに。


「でも俺らにはこれがあるもんな」


 全部お見通しとばかりに左手を突き出される。

 人目を忍んで、それに私の左手も重ねて頷いた。

 

 もちろん、一連のやり取りは学食の皆には全部見られていて、しっかり冷やかされた私である。

 

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