§ サワダヨシタカの決意② §
俺は間違ってない
「パパ、ママはどこに行ったの?」
蓮が義孝にそう尋ねて来たのは、麻美が家を出て行ったその夜のことだった。その日も寝室に向かう直前まで遊び倒してくたくたになり、瞼を擦り始めたのを見計らって潜り込ませた布団の中である。
「ママは、みぃばあちゃんのところだよ」
みぃばあちゃんというのは、麻美の母、美鈴のことだ。ジージとバーバの呼称は義孝の両親で使用しているので、区別するためにそう呼ぶことになっているのである。文子よりも一回り近く若い美鈴は『ばあちゃん』と呼ばれることに難色を示していたが、かといって『みぃちゃん』と呼ばせるのは痛すぎる。いや、美鈴の方では乗り気だったが。
「帰ってくる?」
その問いに、言葉が詰まる。
誤魔化すことも出来た。何日かしたら帰って来るよ、とでも。
だけど。
「帰って来ないんだ」
義孝は、正直にそう言った。
それでも、その言葉を聞いた蓮の表情が曇ったのを見て、慌てて取り繕うように「だけどもし蓮が会いたいなら」と続けようとした時――、
「ぼく別に、会いたくないよ」
強がりで言っているようには思えない、本当にさらりとした返答が来て、拍子抜けする。
「そ、うなのか?」
「うん。ママ、きっとぼくのこと嫌いなんだ」
「そんなこと」
ない、とは言えなかった。嘘でもここはそう言うべきだったろうに。
「ぼく、またおばちゃんとおいちゃんに会いたいな」
「またすぐ来てくれるだろ。……まぁ、おいちゃんは忙しいかもしれないけど。おばちゃんはきっと来てくれるよ」
「おばちゃん、おいちゃんと結婚するのかな」
「結婚するよ。でも、おばちゃんは結婚しても蓮とたくさん遊ぶって言ってたぞ」
「ほんと?」
「ほんと。おばちゃんもおいちゃんも、結婚したって何も変わらないよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。二人とも、蓮のこと大好きだからなぁ」
「ぼくも大好き」
「パパも大好きだよ、蓮のこと」
そんなことをぽつりぽつりと話しているうちに、やがて、すぅすぅと寝息が聞こえてくる。布団を出ようかと思ったが、もう少し我が子の寝顔を見ていたい。
母の文子が誰にも内緒で親子鑑定をし、義孝との親子関係がなかったと知らされた時のことを思い出す。それまでさんざん自分の子だ、自分が引き取ると声を荒らげていた麻美が、その瞬間から、何も言わなくなったのだ。
普通に考えれば、だ。
けれど麻美は、その逆の行動をとった。
急にすべてを諦めたような顔をし、蓮を取り合っていた義孝に対して、離婚に応じる、親権はどうぞと言い放ったのだ。
あまりの豹変ぶりに義孝はもちろん、守重も文子もあんぐりと口を開けてしばらく呆然としてしまったほどである。それで、さっさと自室に向かい、荷物をまとめ始めた麻美に対し、「だったら俺が引き取る。蓮は俺の子だ」と言い、それで、蓮はこれからも沢田家に残ることになった。
もしかしたら、というのはずっと考えていた。もしかしたら、蓮は自分の子ではないのではないか、と。だけど、だからといって捨てるという選択肢はなかった。蓮のいない生活なんて考えられない。例え、血が繋がっていなくとも。たった五年の付き合いだとしても、だ。
麻美が出て行った後、緊張の糸が切れたのだろう、文子はめまいがすると言って、寝室へ行ってしまった。守重はそんな妻が心配なのだろう、それにしばらく付き添っていたが、ほどなくして、店へと降りて行った。
誰もいなくなった居間で義孝はソファに座り、ぼぅっと、部屋の隅に寄せられている蓮のおもちゃ箱を見つめた。友人宅に預けた蓮は、話がある程度まとまったら迎えに行くことになっている。この家に戻って来るのだ。この、家に。血の繋がった母親のところではなく。誰一人血の繋がりのない、他人しかいない、この、家に。
なぜ麻美は蓮を連れて行かなかったのだろう。
親子関係がないと知らされた時、絶対にとられてしまうと思った。例え、法の上では親子でも、こうなれば確実に親権は麻美の方に行くだろうと、そう思った。けれど、麻美はそうしなかった。突然、パッと手を離した。ように見えた。だったらいらない、と、そう言ったように思えた。
恐らくは。
麻美にとって、蓮は、結婚生活を続けるための道具だったのだ。だから、義孝との親子関係がないとわかった以上、もうその手は使えない。とはいっても、子煩悩な義孝のことだ。そう簡単に手放せないだろうと踏んだのだろう。自分が引き取ったとしても、親子関係がないのなら養育費を搾り取ることも出来ないと思ったのかもしれない。何せ、どんな理由であれ、女は離婚すれば慰謝料がもらえると思っているような人間である。それで、義孝の気が変わらないうちに押し付けて、出て行ったのだ。
義孝はそう考えた。
そんな女に、蓮は何があっても渡さない。
もしかしたら、そのうちに気が変わって、蓮を返せなどと言ってくるかもしれない。それでも絶対に手放すものか。彼はそう思ったが、果たして両親はどうだろう。何せ、息子と親子関係のない孫である。いまは嫁への怒りもあって意地になっているかもしれないが、そのうち、「やはり血の繋がりのない孫なんて」となるかもしれない。
けれど、その数時間後、蓮を迎えに行くために家を空ける旨を文子に伝えに行くと、ベッドで横になっていた彼女は義孝の目を見て言った。
「お父さんとお母さんは、蓮を絶対にあの子には渡さないわよ。あなたが何と言おうとも、蓮は私達の孫だから」
決意を込めた目だった。
鼻の奥がつんとして、慌てて、視線を逸らす。
「俺だってそのつもりだよ。だからむしろ、お願いする立場かと思ってた。これからも変わらず祖父母やってください、って」
「お願いされるまでもないわよ、馬鹿息子。あんた、女を見る目がないのね」
「普段良い女に囲まれてるから、悪い女が新鮮に見えたんだ」
「誰よ、良い女って」
「母さんと姉さんに決まってるだろ」
「言うわね」
そんなやり取りをしているうちに、起き上がる元気が出て来たのだろう、よっこいしょ、と言いながら身体を起こすのを手伝う。
「寝てなくて良いのかよ」
「いつも元気なバーバが寝込んでたら、蓮が心配するでしょうが。まだまだ老け込んでらんないのよ」
「母さんはそのままでも若いって」
「駄目よ。恭太さんのお母さんとか絶対若いじゃない?」
「それはわからないだろ」
「わかるわよ。しかも絶対美人に決まってるもの」
「それはありそうだな。恭太もえぐいくらい顔が良いもんなぁ」
「ね。私もびっくりしちゃった。真知子って面食いなのねぇ」
「姉さんは否定してたけどな。内面だって」
「まぁ、あの子のことだから、中身で選んだとは思うけど」
ふふふ、と笑いながら、立ち上がり大きく伸びをする。
「ほら、早く迎えに行きなさい、パパ」
「わかってるっての、バーバ」
パン、と背中を強く叩かれて押し出され、足が一歩前に出る。
蓮を迎えに行くために踏み出した一歩である。
俺は間違ってない。
血の繋がらない息子と共に生きていくと決めたことは、絶対に間違ってない。間違いだったと思わないよう、蓮にも思わせないようこれから、これまで以上の愛情を注いでやるのだ。
口をぽかんと開けた、呑気な寝息がこちらの眠気を誘う。
いっそこのまま自分も寝てしまおうかと、瞼を閉じる。
『下らねぇこと言うようなやつを『下らねぇ』って思える人間に育てりゃ問題ない。そのためには、月並な言葉だけど、愛情をたくさんかけてやれる環境が必要なわけ。もちろん片親だから、一人で二人分頑張らないといけないし、心も身体もタフじゃないとだけど。義孝さんは、それがやれる男なんじゃねぇの?』
生意気な義兄の言葉を思い出す。
当たり前だ。やれる男に決まってるだろ、俺は。
もう間違えない。
絶対に。
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