沢田家の落着 3

「いま、なんて?」

「いや、だからさ。マチコさん家の近くに――、って別に同じ町内とか、そこまでじゃなくて。いまよりちょっと近くに、っていう」


 どうだろ、と恐る恐る伺うような声色である。


「あの、それは、もしかして、ですけど」

「うん?」

「ウチに気を遣ってくださってます? その、なんていうか、蓮君にすぐ会いに行けるように、とか」

「えっと、まぁ、うん。ぶっちゃけ、そうなんだけど」

「どうしてそこまでしてくださるんですか? だって、ウチの問題というか」


 結婚したら、私は白南風姓になる。沢田の家を出て、彼の家に入るのだ。だから、どちらかといえば合わせるべきは私の方なのである。ずっとそう考えて来た。女は嫁ぎ先に尽くすものだと。


「いやいや、マチコさん家の問題なら、俺の問題でもあるでしょ。ていうか、何ならこれはもう『問題』じゃないし。『問題』はもう解決したわけだし。何も問題じゃない」

「え」

「ていうか、駄目だった? 俺、もしかして出しゃばりすぎ? なんていうか、普通に俺自身が蓮君と関わりたいってだけなんだけど。でもほら、物理的にちょっと遠いわけよ。毎回バスで片道三十分ってさ。もっとふらっと気軽に遊びに行きたいというか。それで、せっかくだから車も買って――」

「え。いや、その。え? えぇ?」

「いや、何でそんな驚く?」


 やっぱり俺なんかおかしい? 浮かれすぎ? と電話の向こうで恭太さんが困惑しているのがわかる。


「あの、ちょっと、落ち着きましょう。お互いに」

「いや、俺は落ち着いてるつもりだったんだけど」


 落ち着いて、いるのだろうか。確かに恭太さんはいつも冷静だ。私一人がいつもいつも焦って空回りしているのだ。だけど、今日は何となく、恭太さんの方が焦っているように思える。


「お申し出はありがたいんですけど、でも、そういうのって普通、私が合わせるというか」

「マチコさんが合わせる? 何に?」

「その、恭太さんの職場に、とか。ご実家とか」

「え、何で?」

「何でって言われても。普通そうじゃないですか?」

「そうなの? ていうかさ、俺らって職場同じじゃん」

「確かに」

「それに、三千仲町さんぜんなかまちの方で部屋探したら、たぶん家賃だけで俺らの給料半分以上飛んでくけど」

「た、確かに!」


 言われてみれば、私達の職場は同じ大学だし、恭太さんのご実家があるのは三千仲町高所得者層の街だ。


「んで、大学ウチの周辺は学生が住むような単身者向けの狭い物件が多いじゃん。俺のところもそうだし、マチコさんもだろ?」

「そうです」

「だからさ、もうちょいファミリー層向けの物件とかにしたいわけ。そりゃあマチコさんとだったらせっまい1DKとかで常にベタベタしてても――」

「ふ、二部屋! 最低でも二部屋は!」

「ははは、そう来ると思った。大丈夫、半分くらいは冗談だから」

 

 ということは半分は本気だったんですね。というツッコミはぐっと飲み込む。


「それに俺、たぶんっていうか、確実に仕事持ち帰るから、個人の部屋はあった方が助かる」

「あぁ、ですよね」


 たぶんいまだって、何かしらの作業の合間にかけてくれているに違いない。そう考えると何だか申し訳なく思ってしまう。


「マチコさんも必要でしょ?」

「何がですか?」

「個室」

「個室……あれ? でも実家には両親の個室なんてありませんでした。夫婦で一部屋で。必要なんですか?」

「えっ? いらない感じ? 毎朝マチコさんの生着替えとか見て良いの?」

「あっ、えっと、個室、必要です。絶対必要です」

「クソッ、余計なこと言った、俺!」


 チクショウ、と絞り出すような声が聞こえ、それがあまりにも必死すぎてちょっと可愛い。いずれにしても――、


「とりあえず、物件についてはお互いにネットで探しつつ、近いうちに日程を合わせて見に行こう」


 そういうことで話はまとまった。まだ更新までは時間があるのだ。

 いまよりも一駅か二駅分くらいウチの実家に近いところにしようか、なんて話をして。もちろん、家賃と相談ではあるけれども。


「それと、ウチの親への挨拶なんだけど」

「あっ、そうです。それ、私もいつが良いんだろうって考えてて」

「今週の土曜はどうか、って」

「こ、今週の土曜、って――」


 明後日じゃないですか!


 思わず大きな声が出てしまう。


「いや、ごめん。そうなんだよ。そうなんだけど、冬期休業も今週いっぱいだし、ってことで」

「ま、まぁ、確かにそうですよね。それは、はい。わかります」

「ただまぁ、事前に話はしてあるし、結婚については反対する気もないみたいだし、ほんと挨拶ってだけだから。そこはほんと安心して」

「わ、わわわわかりました」

「大丈夫、大丈夫だから」


 大丈夫と繰り返されるほど、逆に不安が募っていく。

 本当に大丈夫なんだろうか。

 私みたいなのがお嫁さんで。

 

 そんな私の不安が電話の向こうでも伝わったのだろう、恭太さんがひと際優しい声を出す。


「絶対大丈夫。俺の親を信じて。それに、何があっても俺が守るから」


 私は単純だ。

 何の根拠もないはずなのに、そんな言葉で、すっと身体が軽くなる。


「わかりました。あの、頑張りますから。もしもの時はよろしくお願いします」

「おう、どんと任せて。ていうかたぶん、頑張るのは俺の方だと思うし」

「そうなんですか?」

「うん、まぁ、ウチの親、マジでちょっと……キャラが濃い、っていうか……。悪いやつではないんだけど、うん」

「えぇ。ちょっと怖いんですけど」

「いや、大丈夫! 怖いのは俺に対してだけだから!」


 必死にそう説明する恭太さんは、やっぱり『息子』なのだ。また彼の知らない一面が見えて、それがちょっと嬉しい。

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