沢田家の落着 2

「あとはまぁ、養育費の問題だな」

「それは、麻美さんが払う、ってことだよね?」


 でも、麻美さんは現在無職だ。

 それに美鈴さんだってこっちからの援助有りで生活していたのである。決して余裕はないだろう。


「最初、義孝はそんなものいらない、もう関わりたくない、なんて言ってたんだけどな。マユさん――、わかるだろ、爾志にしのじいちゃん」

「うん、わかるよ」


 さわだの常連客の一人である『マユさん』は、『爾志にし八十助やそすけ』という歴史上の偉人のような名前を持つ、御年八十九歳のおじいちゃんだ。目尻の方まで長く伸びた眉毛がトレードマークで、昔放送していた、ニックネームで呼び合う刑事ドラマに憧れているらしく、「俺のことは『マユさん』と呼んでくれ!」、とお客さんに言って回り、無事、その称号を得た陽気なおじいちゃんである。髪が白くなるにつれ、そのトレードマークも白くなり、まるで絵本に出て来るサンタクロースのようだ。


「マユさん、もう引退して随分経つけど、あの人、弁護士先生なんだよ」

「えっ?! マユさんってそうなの?!」


 私の記憶の中にあるマユさんは、焼き魚、サバ味噌、野菜炒め定食を毎日ローテーションして、ご飯はお茶碗に半分。残ったおかずでビールを飲む、上下スウェット姿の小柄なおじいちゃんである。まさか弁護士先生だったとは。


「真知子が物心ついた頃にはもう引退しちゃってたからなぁ。そう、そのマユさんがな、養育費は子どもの権利だから、必ず払わせろって。それで色々動いてくれてな」

「子どもの権利。それは、確かに」

「それに、そういうのでもなけりゃ、あの子は働きに出ることもないだろうしな。もっと世間の厳しさを知った方が良い」


 それは一理あるかもしれない。


「というわけで、まぁ、落着――ではないんだろうけど。こんな感じだ」

「そうなんだ」

「それで、お前は」

「え」

「何か最後はバタバタになっちまったからなぁ。ほんとはもう少し結婚の話を詰めておきたかったんだが。ほら、籍はいつとか、式はどうするかとか」


 まぁ、俺らが口を出すことではないんだけど、なんて父が力なく笑う。


「あの、それなんだけど。籍は早めに入れよう、って話をしてて」

「おっ、そうかそうか。それは早い方が良いな。何、届一枚出すだけだからな。あとは自分達の覚えやすい日にするとか」

「そうなの。それで、式なんだけど、出来れば七月に、ちょっとしたお食事会みたいな感じで出来れば、って。私、呼べる人って職場の人とか、あと、親友くらいしかいないから」

「向こうは? 恭太君の方はそれで良いのか?」

「うん、良いって」


 実は、恭太さんもまた、呼べる人が少ないのだ。何せ、モテすぎるがゆえに男女共に交友関係を断ってきた人である。だから、親戚関係と職場の人くらい。親戚関係ももちろん、母方の方のみだ。


「そうか。だったらもう俺らは何も言わん。幸せになれ」

「うん」

「仕事はいつからだ」

「週明けだよ」

「忙しくなるな」

「そうだね。でも、もう慣れたから」

「身体に気をつけろよ」

「わかってる」

「あとまぁ、出来ればだけど」

「何?」

「頻繁じゃなくても良いから、ちょいちょい顔を出してくれ。蓮が喜ぶ」

「……わかった」


 それで、お風呂から上がった母と代わってもらい、入籍日や式のことについて伝え、やっぱり「幸せになるのよ」と言われて通話は終了した。どうやら義孝は蓮君と一緒に寝てしまったらしい。


 時計を見ると、もう九時だ。なんやかんやと三十分も話してしまっていたらしい。


 この短期間で、いろんなことが起こりすぎた。


 恭太さんと出会ったのが、(あれを出会いとするならば)九月。お付き合いを始めたのがクリスマスだ。そのクリスマスで義妹の不倫が発覚し、階段から突き飛ばされそうになって、たぶんそれがきっかけで、弟夫婦が離婚することになって。


 いままでの人生で一番濃い。


 その上、これから待っているのは、恭太さんのお母様へのご挨拶、入籍、それから引っ越しもしないとだし……ってその前に物件を見に行かないと。それからそれから。


「――わぁぁぁ!」

 

 ぐるぐると考えていると、手に持っていたスマートフォンがヴヴヴと震えた。驚きのあまりに手からするりと落ち、ベッドの上に落ちる。慌てて確認すると、恭太さんである。


「も、もしもし!」

「ごめん。寝てた?」

「いえ! 起きてます! 起きてました!」

「なら良いけど。いま、大丈夫?」

「大丈夫です。どうしました?」

「どうもしないけど。いや、声が聞きたくてかけただけ」


 駄目? と尋ねられ、そこまで伝わらないとわかっていながらも、ついつい頭をぶんぶんと振りながら「全然」と返す。すると恭太さんは、電話の向こうで、ふは、と笑いながら言うのだ。


「マチコさん、いま頭ぶんぶん振ってたろ」


 と。


「んなっ。何でわかったんですか」

「いや、わかるって」


 そんなやりとりの後で、話題はやはり沢田家のことになった。父から聞いた話をそのまま伝えると、恭太さんは、


「俺は、まぁ、割と部外者なんだけど」


 ちょっと話させてもらって良い? と言った。


「今回、母親と離れることになって、良かったと俺は思う」

「そうですか?」

「あまり他所様の家庭環境のこと言うのはアレだけど、もし母親の方に引き取られていったら、悲惨な未来しか見えない。娘の嫁ぎ先からの援助でパチンコに行く祖母、自分有責の離婚なのに慰謝料が取れると思ってる母親。そもそもその母親も、父親とは違う男と結婚して、その父親かはわからないけど、子どもを預けてホテルで浮気、ってさ」

「……確かにちょっと、良い未来は見えないです」

「そりゃもちろん、後悔するなり、反省するなりして、麻美さんの方は変わるかもしれない。だけど、その親の方はどうだろう。たぶんだけど、もう変わらないと思う。そうなると、彼女は蓮君を連れて家を出るしかない。いままでまともに働いてこなかった人が、それも、母子家庭っていうハンデありきで、生活基盤を整えられるだろうか」

「誰かの助けがないと厳しそうですね」

「そう、助けが必要だ」

「ですよね、行政とか」

「恐らく、そっちにはいかないと思う。あくまでも俺の勝手な決めつけだけど、たぶんあの人なら、頼るのは男だ」


 勝手な決めつけ、なんて恭太さんは言ったけど、確かに、と思わず納得してしまう。いや、わからないけど。わからないけれども。


「だから俺は、義孝さんが引き取ることになって安心した。ただ、血が繋がってなかったってのは驚いたけど。でも、義孝さんやご両親が納得してるなら」

「そこは、はい。私もですけど、父も母も義孝もいまさら他人だなんて思えなくて」

「それなら良いんじゃないかな。蓮君は蓮君だし」

「ですよね。そうですよね」


 私がそう返すと、恭太さんは、それで、と言った。何ですか? と聞き返すも、珍しいことに、「ああ」だの「ええと」だのと、ちょっと歯切れが悪い。


「どうしました?」

「いや、その、マチコさんさ」

「はい」

「車の運転って出来る人?」

「えっ、突然何ですか? 一応、免許はありますけど」

「車は?」

「持ってません。恭太さんは?」

「俺も免許はあるけど、車は持ってない。いままでなくても困らなくてさ。学校には歩いて通えるし」

「私もです。あの、それが何か」

「例えばだけど」

「はい」

「マチコさん家の近くに引っ越したりしたら、通勤が大変になるかな、って思って」

「え?」

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