沢田家の落着 1 

 結婚の挨拶どころではなくなった沢田家訪問が終わった。


 出来るだけ早く、なんて話にはなったけれども、さすがにこの足で役所に――などということはなく、やはり恭太さんのお母様の方に話をしてからにしよう、ということになった。で、特に問題がなければ二十四に籍を入れよう、と。


 こんな時ではあるけれど、その報告もしないといけないし、それと、あれからどうなったかも気になるということで、恐る恐る実家に電話をかけてみる。閉店作業が終わってるはずの夜八時半のことだ。


 母はお風呂に入っているということで、出たのは父だ。義孝は蓮君を寝かしつけているとのこと。麻美さんは、と聞きたかったが、何となく聞けないでいると、


「麻美ちゃんは実家に帰った」


 と父が気を回してくれた。

 

 義孝と麻美さんの離婚については、まぁかなり揉めたようだが、恐らくは、義孝が蓮君の親権を持つ形で決着がつきそうだ、とのことらしい。というのも――。


「ヨシ君と別れたら、私、どうやって生活したら良いの? ウチの親への仕送りは?」


 本当はもう一泊する予定だったが、さすがにあんなことがあったために私達はすぐに帰宅したのだが、その翌日、本格的な話し合いの場を設けたところ、麻美さんは真っ先にそう言ったらしい。蓮君の名前は一切出ずに、自分の生活と、母親への仕送りについて言及していたと。ちなみに、さすがに蓮君を同席させるわけにはいかず、同じ幼稚園に通う子を持つ義孝の同級生の家に預けたらしい。


 どうするもこうするも、離婚すればもう他人なのだし、麻美さんも、麻美さんの母親についても養う義務はない。義孝がそうきっぱりと告げたところで、やっと思い出したように、


「じゃあ、蓮は私が引き取る。養育費はもらえるわよね? 月十万。それと慰謝料は三百万。これはきっちり払ってもらうから」


 そう息巻いたのだという。


 慰謝料って、どういうこと? と首を傾げる私に、父は疲れたような声で「それがなぁ」と言った。


「どうも麻美ちゃんは、女は離婚したら慰謝料をもらえるもんだと思ってたみたいでな」

「えっ。でもこの場合はどちらかといえば、麻美さんが払う側なんじゃ」


 不貞行為をしたのは麻美さんだし、それに、私の件もあるし。


「どちらかといえばも何も、10:0ジュウゼロで麻美ちゃんが払うやつだろ」

「だ、だよね」

「それで母さんがまーた切れてな。いや、怒って当然なんだがな、なんていうか、俺は母さんがあそこまで怒るところなんて初めて見てなぁ」

「だよね、私もびっくりしたもん」


 とにかく、母無双だったらしい。


 浮気しておいて、何が慰謝料だ。払うのはそっちだ。我が子を義姉に預けてまで他の男と会いたいのなら、孫はウチで育てる。あなたに、母親を名乗る資格はない、と。


 あまりの剣幕に一旦は怯んだ麻美さんだったが、それでも我が子を取られまいと必死に抵抗したようだ。といっても、「蓮は私の子です」を繰り返すばかりだったらしいけど。


「それで、埒が明かないし、とりあえず、向こうの親御さんも呼んで、と思ったんだ」


 そういえば、麻美さんの母親とは、二人が籍を入れる直前に顔合わせで一度会ったきりだ。義孝と麻美さんの結婚は急だったこともあり、式を挙げていないのである。麻美さんの家は母子家庭である。離婚の理由については深く聞いていない。


「けどなぁ」


 携帯に何度かけても全く出ない。それでも根気良くかけ続け、やっと美鈴みすずさん――麻美さんの母親だ――に繋がったかと思えば、酷く騒がしいところにいるようで、かなり迷惑そうに「何ですかぁ?」と返って来たという。


「あれは明らかにパチンコだったな」

「えぇ……」


 義孝が仕送りしたお金でパチンコに? 生活費の援助って話じゃなかったっけ?


「それで、まぁ、事情を話したら、『麻美はもう嫁に出したんですから、いまさら返すとか言われても困ります。だいたい、ウチの子、結婚前に孕ませたの、そっちですよね』って言われて」

「そんな」


 それは確かにそうかもしれないけど。


「なんかもうな、疲れちまって。義孝もまぁとんでもない嫁さんもらったもんだな、って」


 はぁ、と電話の向こうからため息が聞こえる。


「そしたら、やっぱりここでも母さんがな」

「お母さんが?! お母さんがどうしたの?」


 騒がしいパチンコ店内で電話をしようと思えば、そりゃあ大声になる。だから、ハンズフリーでなくとも、ある程度の声は漏れ聞こえていたらしい。それで、父から携帯を奪い取ると、母は、


「ウチの息子が送ったお金でパチンコなんて良い御身分ですね。当たり前ですけど、援助は止めさせていただきますので」


 そう言ったのだとか。


 うん、それはもう当たり前というかなんというか。けれども、向こうは焦った。年齢的に定年はまだのはずだけど、援助が必要だなんて一体何の仕事をしているのだろう。


「それは困ります!」

「どうしてですか? そちらの娘さんは、ウチの娘を階段から突き飛ばして殺そうとしたんですよ? そんな嫁と結婚生活を続けられると思います? 別れるならそちらさんとの縁も切れるに決まってますよね? こちらとしては、いまから警察に行っても良いんですけど」

「は、はぁ? 脅すつもりですか?」

「脅しだなんて心外です。では、この足で警察に行きます。脅しではないです。いまから行きます、という報告です。では」

「ま、待って。待ってください。いまから伺いますから! 良いんですよね? それで」

「それで解決すると思うのでしたら、お好きにどうぞ。こちらとしては、ただの離婚か、娘さんに前科をつけた上での離婚かの二択だと思ってますけど」


 というやりとりになったそうで。


「お母さん……」


 母は強しとはよく言ったものである。いつもニコニコとお客さんと笑っている温厚な母が、まさかこんなに強かったとは。


「それでな」

「えっ、まだ続きがあるの?」


「さっき、『結婚前に孕ませた』っておっしゃってましたけど」

「そ、そうですよ! だいたいね、順番が違うんじゃありません? 結婚前に子どもを作るとか――」

「蓮は義孝の子ではありませんよね」


「――って」

「えっ?! ちょ、ちょっと待って。それって」

「いや、俺も初耳だったんだけどな。どうやら母さん、こっそり鑑定してたみたいでな」

「それって義孝は」

「義孝も知らなかったみたいだ。麻美ちゃんもびっくりしてたけど」


 麻美さんも知らないとかある!?


「母さんはな、何となくおかしいとは思ってたみたいなんだ。何だろうな、女の勘ってやつなのかもしれねぇけど。それで」

「義孝の子じゃなかった、と」

「あぁ。でも、ずっと言えなかったらしい。これまではまぁ、何事もなくやって来たし、自分が我が子の家庭を壊すのは、って」


 自分が黙っていれば、そう思って母は一人で抱え込んでいたのだ。母はオープンな性格で、何でも話す人だと思っていたので驚いた。まさか母にも私のような部分があったとは。


「『証拠もあります』なんて言ってな。麻美ちゃんは真っ青な顔してたな。義孝は……もしかしたらある程度予想してたのかもな。険しい顔はしてたけど、何も言わなかったよ。俺もまぁ、なんとなくは、なぁ」

「そうなんだ」

 

 でも、だとすると、どうして麻美さんは一人で実家に帰ったのだろう。確かに義孝は蓮君の親権を取るつもりでいたみたいだけど、だけどそれは自分の子どもだと思っていたからだろうし。いや、でもさっき父は言っていたのだ、『ある程度予想していたのかも』と。もしかしたら自分の子じゃないかもしれないと思ってはいたけど、それでも親権をとるつもりだったのだろうか。


 だけど私だって。


 いまさら蓮君が全く無関係の子だとわかっても、じゃあこの瞬間に「ハイ、他人です」なんて割り切れるわけがない。蓮君だって、義孝のことを父親だと思っていて、ウチの両親のこともジージとバーバだと思っていて、私のことをおばちゃんだと思っているのだ。たぶんこの場に、この瞬間から他人だと切り替えられる人間なんて、誰一人としていないのである。


「麻美さんはどうして一人で」


 何せそれまで自分の子だと言って、離婚に反対していたのだ。義孝との親子関係がなくなったとなれば、絶対に親権を取ろうとする――というか、それが当たり前なのではなかろうか。


「それがな、義孝の子どもじゃないって知った途端に、興味をなくしたというか」

「え?」


 母が美鈴さんとの通話を終えた後、麻美さんは、それまで何度も繰り返していた「私の子」という言葉を吐かなくなった。それで、離婚には応じる、親権はどうぞ、と言って、テキパキと荷物をまとめ、出て行ったらしい。


「どうぞ、ってそんな」


 自分の子どもを、物みたいに。


「それにもショック受けてな。俺も母さんも義孝も。だって、ほんの数分前までは母親だったんだぞ? いや、いまも肩書としては『母親』ではあるんだけどな? 母親の口から出る言葉じゃねぇよ、あれは。それで、じゃあ俺が引き取る、って義孝が言って、それで」


 それでいま、蓮君は沢田家にいるのだという。

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