§ サワダマチコの結婚⑦ §
真正面から来るとは 1
それからは怒涛の展開だった。
カンカンに怒った母が二階の居間に怒鳴り込んだのである。母は割と温厚な方だ。私も義孝もそこまで怒られたことは――……確か昔、義孝が両親の真似をして料理をしようとして勝手に火を使った時には、ものすごく怒られたけど、それくらいじゃないだろうか。
テストの点が悪かった時も、うっかり店の食器を割ってしまった時も、そこまで怒られたことはなかった。
その母が、見たこともない形相で、麻美さんと、義孝を正座させている。
なぜ義孝も、と思ったが、夫婦は連帯責任だから、というのと、そもそもあなたが結婚前に手を出したからでしょう、と、そういうことらしい。
私達でさえ経験がないのだから、お嫁さんである麻美さんだって、こんな風に母から怒鳴られたことなんてないはずだ。真っ青な顔で固まっている。
それで、とどめのように、
「もしも蓮から、真知子の肩について何か聞かれたら、正直に答えなさい。『ママが階段から突き飛ばした』って」
と言った。
「待ってお母さん、さすがにそれは」
「そうだよ母さん、蓮には」
さすがにそれはないと、私と義孝が思わず割って入る。
けれど母は、泣きそうな顔をして私達を見るのだ。
「じゃあ、真知子が全部被れば良いの? 真知子が我慢すれば済む話なの? 私だってね、五歳の子どもに言うべき言葉じゃないことくらいわかってる。だけど、自分の子どもを傷つけられて平気な母親なんていないの。麻美さん、あなたは、我が子に言えないようなことをしたのよ?」
震える声でそう言って、改めて、「麻美さん」とその名を呼ぶ。
「私はね、あなたを許せそうにないです。このまま義孝と結婚生活を続けたいのなら、どこかに部屋を借りて、出て行ってちょうだい。義孝もそれで良いわね? ウチを継ぎたいならそこから通って。まだお父さんだって働けるんだし、別に無理に継いでもらう必要もないから」
「そんな」
「いや、母さんの言う通りだと思う」
「ヨシ君まで」
「だけど、俺は麻美とこのまま結婚生活を続けるつもりはない。さっき、そういう話をしたよな? 俺は蓮とここに残る。店も継ぐ。お前とはもう限界だ」
「ちょっと待ってよ」
どうしよう、私達、ここにいて良いんだろうか。そう思って、ちら、と隣にいる白南風さんを見る。あまりにも母が鼻息荒く階段を駆け上がるものだから、何かあった時に止めなくては、と思ってついて来たのだ。でもこれ、私達が聞いて良い話?
白南風さんも、さすがに困惑の表情である。まだ私は義孝の姉ということで関係がなくはないけど、白南風さんに至っては無関係なのである。
「えっと、私達はそろそろ……ちょっと、下に……」
誰にともなくそう言って、そろりそろりと後退する。すると、白南風さんがこそっと耳打ちして来た。
「マチコさん、湿布」
その言葉で薬箱のことを思い出す。そうだ、湿布はコッチにしか置いてないんだった。ついでにもらってこないと。
ちょっと失礼します、と言いながら、正座をしている二人の後ろを通って薬箱を取りに行く。
「姉さん、大丈夫か。麻美が本当に済まなかった」
義孝が振り返って頭を下げる。
「大丈夫だよ。ちょっと捻っただけだから」
心配をかけるまいと、軽く腕を振ってそう答える。実を言うと手を動かすと結構痛いんだけど、でもさすがに折れてるわけでもないし。あはは、と愛想笑いを浮かべると、麻美さんもまたこちらをちらりと見た。ぎろりと睨みつけられ、びくりと身体が強張る。
「麻美さんは」
ピリッとした母の声に、麻美さんの身体が震えた。
またあっという間に表情をしぼませて、母の方を向く。私は、急いで湿布を取り出し、箱を元の場所に戻した。一刻も早くこの場から去らねばと早足で移動する。
「いつになったら真知子へ謝罪するのかしら」
自分の名が聞こえて、ぴたりと立ち止まる。
そういえばすっかり忘れてた。
私、麻美さんから何も言われてない。
「少なくとも私はまだ聞いてないんだけど。――義孝」
「は、はい」
「あなたは聞いたの?」
「いや、俺は聞いてない」
「真知子も言われてないのよね?」
「それは、えっと、はい」
「麻美さん、どうして?」
「あの、それは」
「一歩間違えれば死んでいたかもしれないのよ? てっきり私の剣幕に押されてタイミングを逃しただけかと思ったけど。違うのね」
「あの、お義母さん」
「待ってお母さん、死ぬとか大袈裟だよ。私、生きてるし」
そこまで大きな話にしなくても。
そう思って、間に割り込む。すると。
「大袈裟じゃない。俺が間に合わなかったら、マチコさんは背中から落ちてた。可能性としては、十分有りうる」
白南風さんまでがそんなことを言い出す。確かにそうかもしれないけど。湿布を持ったまま、どう答えたものかとまごついていると、私の近くまで来ていた白南風さんが、そっと腰を抱き寄せて来た。
「何をマチコさんのせいにしたいのかわからないし、そっちの都合も事情も知らないけど、俺の大切な人を傷つけて良い理由にはならないでしょ」
肩に触れないようにという配慮だと思うけど、だからといって腰に手を回されるのはかなり恥ずかしい。
「……すみませんでした」
私ですら『渋々』というのが十分に伝わる態度で、麻美さんはぺこりと頭を下げた。義孝と母が同時にため息をつく。
「あの、もう、良いです。本当に。顔を上げてください」
謝罪の気持ちを受け取ったというよりも、いたたまれなくてそう返す。確かに怪我じゃ済まなかった可能性があるのはわかるんだけど、やっぱり、いまの私は無事なわけだし。それに、麻美さんはこの場に『味方』がいないのだ。義孝は彼女の夫ではあるけど、離婚に傾いているようだし、そうなると彼女はいよいよ一人なのだ。
その姿が、近い将来に嫁ぐ自分と重なって見えてしまう。仮に自分が似たような状況に置かれたとして(もちろん浮気なんてするわけはないけど)、その時に夫である白南風さんが味方でいてくれないとしたら、と考えるとゾッとする。嫁ぎ先では、嫁の周りは、我が子以外、全員が『他人』なのである。
かといって、私が味方になるとは言えないけど、それでも私まで攻撃する側に立ってしまったら、さすがに気の毒なように思えた。だから、早く話を終わらせたかった。それに、出来れば早く湿布を貼りたい。
そう思って、「失礼します!」と気持ち大きな声で言い、白南風さんを引っ張りながら、そそくさと居間を出る。その勢いのまま廊下を歩いて客間に向かおうとすると、「マチコさん、そんなに急いで歩いたら肩に響かない?」と止められた。確かに響いてます。痛いです。
「白南風さん」
「恭太だって」
「すみません、恭太さん」
「良いけどさ。それで、何?」
「あの、私のこと『大切な人』って言ってくださって、ありがとうございました」
「何だ、そんなこと」
「そんなことではないです。あの、嬉しかったので」
「どういたしまして。これからも何度だって言うよ」
それで、どうしたの、と優しく問われる。少し身を屈め、私と視線を合わせて。その配慮が嬉しい。
「私も、恭太さんのこと、大切な人だと思っています」
「――そ、それは、うん、ありがと」
「何でそんな反応なんですか?」
「だって、マチコさんからってあんまりそういうこと言わないでしょ」
「そうですけど。あの、でも、ちゃんと伝えたくて」
「素晴らしい。今後ともぜひそうしていただけると」
「それで、その、一つお願いがあるんですけど」
「何なりと、俺のお姫様」
調子よくそう言って、私の手の甲に口づけを落とす。
「あの、茶化さないでください」
「茶化してないよ。照れてるだけ」
いや、照れ隠しでこんなことします?
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