§ サワダアサミの応報⑦ §
あんたのせいだから
「どういうことだお前!」
真知子と恭太と共に公園で遊んでいる息子のところへ行くと言って出掛けた義孝が、一時間ほどで戻って来た。文子と守重は店が休みの日でも「こっちの方が何か落ち着くから」と店の座敷で過ごすことが多いため、二階の居間でのびのびとくつろいでいた麻美にかけられた第一声が、これであった。
「は?」
何が何やらと思って、そう返した。
過去に色々疚しいことはあるけれども、その一言で「あのことか」と気付けるわけがない。
「何のこと?」
そう尋ねて、リモコンを操作し、テレビを消す。
一応は、精一杯に猫を被った声を出したつもりだ。何せいまは『猶予期間』である。ここで義孝の機嫌を損ねたらアウトなのである。とはいえもちろん、現在、既に彼の機嫌が悪いことは火を見るよりも明らかだったが。
「蓮が言ったんだ」
「蓮が? なんて?」
もしかして、何か余計なことでも言ったのだろうか、と考えて、ぎくりとした。でも、蓮に話せるのなんて、
「姉さんに結婚してほしくないって」
「あら」
上辺ではとりあえず困った顔をしつつ、内心では「よく言った」とほくそ笑む。甥を可愛がっている真知子のことだ。もしかしたら、案外これは効果があるかもしれない。そうか、蓮を使えば良かったのか、などと考える。
「何でだかわかるか」
「え」
「何で蓮がそんなことを言ったのか、だ。わかるか」
「わからないけど……。えっと、例えば、お義姉さんが、お相手の恭太君にふさわしくなかったから、とか?」
つい本音が出た。
が、麻美はその発言自体に問題があるとは思わなかった。だって、誰がどう見たって不釣り合いなのだ。五歳の子どもでもわかることだ、と。
「姉さんがふさわしくなかった、か」
お前はそう思うんだな、と睨みつけられ、そこで己の失言に気付く。蓮の側に立って考えてみれば、だ。麻美としては腹立たしいことではあるが、彼は真知子に懐いているのだ。ならば、恭太の方こそ、真知子にはふさわしくないと考えるのが普通である。自分の願望が実現しそうで、つい、口が滑ってしまったのだ。
「いや、その」
「蓮はな、結婚したら姉さんがお前みたいになると思ったんだ」
「え」
「結婚したら、ママみたいになる、そうなったら嫌だ、ってそう言ったんだ」
「え、な」
何を言ってるんだ、あのガキは。
ガキなんて、我が子に対して使う言葉じゃない。そんな当たり前のことすら考えられなかった。自分の思い通りに動かないやつは全員が敵だ。
「俺は、例えお前が他の男と会ってても、子育てはちゃんとしてると思ってた」
「ヨシ君、あの」
「俺は、親がずっと店で働いてて構ってもらえなかったから、自分の子どもにはそんな思いをさせたくなかった。だからお前には働かなくても良いって言ったんだ。蓮についててほしくて」
「ヨシ君、ねぇ聞いて」
「家事なんて下手でも良かった。飯は俺らが作るし、掃除や洗濯なんか下手でも死にゃあしない。そう思ってた。ただ、蓮の良い母親でいてくれたら、って」
「違うの、その」
麻美は必死に取り縋った。
この流れはまずい。
どうにか誤魔化さなければ。
どうにかこの場をやり過ごさなければ、と。
「違わないだろ!」
階下を気遣ってか、声量こそは控えめだったが、強い声だった。
「何が違うっていうんだ。母親みたいになってほしくないって言ってんだぞ? 息子がだぞ? それがどういう意味かわからないのか?」
「違うのよ。蓮は勘違いしてるだけなのよ。私は」
「私は? 何だ? 何をしてた? 蓮と一緒に遊んだ記憶はあるか? 何もキャッチボールをしろなんて言わない。誰にだって向き不向きはある。それはわかってる。一緒に絵を描くでも良いし、電車のレールを繋ぐことくらいは出来るだろ? それすらもしないのは何でだ?」
「それは」
「お前は普段何をしてるんだ。お前は蓮の何なんだ。姉さんに預けて男と会って。そんなに蓮が邪魔か? 何のために産んだんだ」
そこまで言われ、麻美は沈黙した。
何のために産んだと言われたら、例の商社マンを捕まえようとしたが失敗し、働くのも面倒だったから養ってもらうためだ。自分を生涯養ってもらうために、
「それは、その、ヨシ君の子だか」
「本当に?」
言葉を遮られる。
義孝はもう一度言った。「本当に?」と。どういう意味、と尋ねる声が震える。
「蓮は本当に俺の子か?」
「あ、たり前じゃない。蓮はヨシ君の」
「あの時、もう一人いただろ。俺以外に」
「ちょっと待って。それ」
誰から、と言いかけ、慌てて口を押える。これでは認めたも同然だ。だけど、義孝の表情は変わらなかった。
「俺は、蓮が俺の子じゃなくても構わない。もう俺の子どもだ。血の繋がりなんて関係ない。俺の子だ」
その言葉に安堵する。良かった。捨てられることはなさそうだ、と。
「だけど、お前は蓮の母親じゃない」
「は?」
「そうだろ? お前が蓮の母親である意味は何だ?」
「何言ってるの、ヨシ君。蓮を生んだのは私で」
「育てたのは?」
「え」
「育てたのは誰だ」
「わた」
「育てたのは俺らだ。俺と、父さんと母さんと姉さんだ。母乳が出ないとか言って、完全にミルクだったろ。夜中のミルクは全部俺だった」
「で、でもおむつ替えたりとか」
「さすがに日中のはな。だけど、それくらいだろ」
健診や予防接種は誰が連れてった?
体調が悪い、車がないと無理だって言って、母さんに行かせたり、車を出させたりしたよな? 何なら俺が仕事の合間に連れてったやつもある。
そう指摘されれば、もう何も言えない。
「猶予を与えるとは言ったけど、無理だろ。なぁ。少なくとも俺は無理だよ、お前とこれからもやってくの。蓮をお前に任せることも。信用出来ないんだ、全部。クソッ、姉さんの結婚まではと思ってたのに。無理だ」
絞り出すようにそう言って、額に手をやる。
どうしよう。
このままだと、ここを追い出されてしまう。
出戻りなんて恰好悪くて仕方がない。
それに、この状態で離婚なんて、絶対に分が悪い。慰謝料だってちゃんともらえるかどうか。それから養育費だって。母親はこっちの援助をあてにして仕事を辞めてしまったのだ。
麻美はそう考えた。
どちらに非があるかなど関係ない。
女は離婚の際に慰謝料がもらえるものだと思っているのだ。それでもさすがにこの状況なら、もらえるとしても減額されてしまうかもしれない、と。
何もかも、アイツのせいだ、と麻美は考えた。
真知子のせいだ、と。
アイツがあの日、彼にチクったから、と。
そんな時に聞こえて来たのである。
「よ、義孝……。あの、夕飯の相談なんだけど……」
「あの女」
ぽそり、とそう呟いて、麻美はテーブルの上にあった耐熱ガラスのカップを義孝に向かって投げつけた。麻美としては、義孝ではなくその奥の扉を狙ったのだが、手元が狂ったのだ。突然のことで避けきれず、カップは義孝の頬をかすめてから床に落ち、割れた。
義孝が頬の痛みと割れて散らばるカップの破片に気を取られているうちに、麻美はドアの外へ出た。
真知子はきょとんとした顔でそこにいた。
その顔を見ると、一気に怒りが込み上げてきて、心拍数が跳ね上がる。この女が全部悪いのだ。この女が私の家庭をめちゃくちゃにしたのだ。やられたらやり返すのだ。その権利が私にはある。
そんなことを考えて。
媚びるような目を向けてくるその忌々しい義姉の肩を――。
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