背中を支えてくれる手 2
さっきもこんなことがあったな、なんて思う。
四人で『だるまさんが転んだ』をして、私がバランスを崩した時だ。あの時は義孝が背中を支えてくれたから、後ろに倒れずに済んだ。弟に背中を支えられたことなんて、たぶんいままでに一度もなかったと思うけど、そういえば、割と大きくなってから、おんぶしてもらったことはある。
怪我をしたとかそういうのではなく、その時見ていたテレビ番組で、自分のお嫁さんを背負って走るレースの様子が流れていたのだ。それで、その話の流れで「俺だって姉ちゃんのこと背負って走れるし」となったのである。
大きくなったとはいっても、義孝はまだ中学生だった。成長期が一気に来たみたいで、あっという間に私を追い越したせいか、成長痛が痛いなんて言ってたっけ。そんな、大人の身体になりつつある弟の背中は、何とも頼もしく思えたものだ。「全然楽勝」なんて言いながら、店の周りをぐるりと一周走りきった義孝の膝はちょっと震えていた。たぶん多少の強がりはあったのかもしれない。
あの時と比べるのは申し訳ないけど、やっぱり全然違った。可愛い可愛いと思っていた弟は、立派な男性になったのだ。片腕で私の身体を支えられるほどに。
だけど、いまの私の背中には、それがない。
支えるものがない身体が、ふわりと浮かぶ。
こういう時って、景色がスローに見えるとか、これまでの思い出が浮かんでくるなんて聞いたことがあるけど、こういうことなのか、なんて考える。このまま落ちたら、怪我するだろうか。怪我で済むだろうか。
でもいま私の身に何か起こったら、白南風さんはどう思うだろう。あんなにも私のことを好いてくれる彼は、どれだけ悲しむだろう。
そこでやっと、さっきまで触れていたはずの手摺の存在を思い出す。左手をばたつかせると、硬いものに触れた。これだと思い、後ろ手で、ぎゅっと握る。
とりあえず危機は脱したと思うものの、背中をのけ反らせた状態になっている上、おかしな体勢で掴んだせいか、肩に痛みが走る。階段の上にいる麻美さんがこちらに手を伸ばしてきたけれど、きっと私を助けるためのものじゃないはずだ。
「恭太ぁっ!」
そこからはもう一瞬だった。
部屋から飛び出した義孝が麻美さんを後ろから羽交い絞めにし、白南風さんの名を呼んだ。どうしていま彼の名を? と思わず後ろを振り返る。この動作が良くなかったのだろう。無理に捻った左肩に強い痛みが走り、手摺を掴む手から力が抜ける。
まずい、落ち――
「マチコさん!」
どん、と背中に衝撃があった。
といっても、階段や、床ではない。
「し、らはえさん」
「すっ……げぇ、間に合った、俺」
「ま、間に合いました、ね。え、でも、いつから」
まさか義孝が呼んだあの瞬間に移動して来た? だとしたら、それはもうスーパーマンなのでは。
「いや、マチコさんが行ってから、割とすぐ追いかけたんだ。まさかこんなことになると思ってなかったから、焦って追いかけたわけじゃないんだけど」
そしたら、ちょうど階段の下に着いたところで義孝さんの声がして、と言いながら、ゆっくりと私の身体を起こしてくれる。私がしっかりと体勢を立て直した後も、白南風さんの手は私の背中を支えたままだ。そして、その状態で、一段ずつゆっくりと階段を下りる。下り切ってから、階上の義孝に向かって白南風さんが「義孝さん」と声をかけると、「わかってる」と弟の震えた声が降って来た。
階段を下りてしまった以上、向かう先は店しかない。さっきの物音はこっちには届いていなかったようで、「義孝は何て?」と、カウンター席に座っていた母が、呑気な声で尋ねてきた。が、白南風さんに支えられつつ、左肩を押さえて歩く私の姿を見て、ぎょっとした顔をする。
「え? 真知子どうしたの? どこかぶつけたの?」
湿布貼る? と言いながら、薬箱を取りに行こうとしたのだろう、慌てて腰を浮かせるが、それは二階にあるのだ。ここにあるのはせいぜいが消毒薬と絆創膏くらいなものである。いま母があの場に行ったらまずい。そう思って「大丈夫だから」と無理に笑って見せる。
けど。
「お義母さん、実は」
と白南風さんが小声で言う。
「白南風さん、あの、それは」
「マチコさん」
私さえ黙っていれば、いまの件はなかったことになるのだ。この肩だって、なんか適当に誤魔化せば、それで何もかも丸く収まるはずだ。だって猶予期間と聞いたのだ。きっと義孝だって、麻美さんが私を押したところは見てないはず。私が足を踏み外したことにすれば、それで。
「駄目だよ、マチコさん」
「駄目って」
「自分が我慢すればとか、思ってない?」
「それは」
「俺は我慢出来ない。自分が何されたか、わかってないの?」
「わかりますけど。で、でも、何もなかったですし。結果オーライというか」
「結果オーライとか、そういう問題じゃない。第一――」
そう言って、私の左肩に触れる。触れられただけだ。それでも、痛みを恐れて、びくり、と身体が強張る。
「これは『何もなかった』とは言わない。違う?」
「ち、違わない――です」
私と白南風さんのやり取りを見て、母もさすがに、『上で何かがあった』と気が付いたらしい。
「真知子、恭太さん、何があったの?」
「え、と」
奥座敷に視線をやる。
蓮君も父もまだぐっすり寝ている。
「麻美さんに何かされたの?」
核心を突かれれば、頷くしかない。
「義孝を呼びに行ったら、何かが割れた音がして、それで、麻美さんが飛び出してきて、それで、あの、私、階段の途中にいて」
我ながら、説明が下手だと思う。けれども、母も白南風さんも黙って頷きながら聞いてくれた。
「それで、えっと、私のせいとか言われて、肩を、こう――」
隣にいる白南風さんの肩をトン、と押す。
「あっ、でも、この肩の痛みは、変な体勢で手摺を掴んだからっていうか」
確かに押されたのは事実だけど、この肩の痛みは自分の鈍臭さが招いたやつだ。これに関しては、うん。私が悪い。
「そういう問題じゃないでしょ。それで、『私のせい』って何? 真知子、あなた何かしたの? 麻美さんに」
「わかんない。身に覚えはな――」
もしかして、クリスマスのこと?
私が義孝に連絡したせいで、っていう、アレのこと? 確かにそれは私が悪……いや、悪いのかな? だって私だって予定あったし、ちゃんと十八時まで、って言ったはずだし!?
「真知子?」
「え、えっと」
でもこれ、私が言って良いやつなのかな? お母さん、何も知らなそうだし。え、知らないのかな? どうなんだろ。その辺ちゃんと義孝に確認しておけば良かった!
どうしよう、なんて答えたら良いんだろう。
俯いて困っていると――、
「クリスマスの日のこと?」
いつもよりちょっとピリッとした母の声に驚いて、慌てて顔を上げる。
「麻美さんがあなたに蓮を預けて男の人と会ってた、って」
「え」
「義孝から軽くは聞いてたの。だけど、とりあえず、詳しい話とか、今後のことはあなた達が帰ってから、ってことになっててね。それで私もお父さんも麻美さんには、何も言わないでいたの」
そこまで話して、母は大きくため息をついた。そして、白南風さんに向かって深く頭を下げる。
「恭太さん、ごめんなさい。せっかくおめでたいお話なのに、こんなことになってしまって」
「いえ、僕は」
「私とお父さんとしては、蓮もまだ小さいし、しっかり話し合えば、って思ってたんだけど」
ふるふると首を振る。
そして――、
「自分の娘に手を出されたら、私だって黙ってられないわよ」
母が、腰を上げた。
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