背中を支えてくれる手 1 

 「だからまぁ、なんていうかな」


 そう言って立ち上がり、飲み終えた缶を自販機の脇にあるゴミ箱に入れる。


「あとは夫婦での話し合いになると思うから、俺らがどうこう言う話じゃないと思う」


 再び私の隣に座って、「だけどさ」と彼は言った。


「別れるにしても、再構築するにしても、どっちにしても、辛いのは大人だけじゃない。もっと辛いのは子ども蓮君でしょ」

「それは、私も思います。あの、蓮君は、悲しい思いをしてほしくないです」


 それはもう手遅れかもしれないけど。

 だってあんな風に泣く蓮君を、私はいままで見たことがない。


「だから蓮君とは、俺は出来るだけ今後も関わっていきたいと思う。っつっても、ああやって一緒に遊ぶくらいしか出来ないし、もし仮に別れたとして、向こうに親権が行っちゃったら難しいかもだけど」

「それは、そう、ですよね」


 蓮君は、私のことをおばちゃんおばちゃんと慕ってくれる可愛い甥っこだ。私は結婚なんて出来ないと思ってたし、子どもだって持てないと思っていたから、その代わりに、なんて言ったらいけないのかもだけど、蓮君をたくさん可愛がって来たつもりだ。

 

 蓮君とはこれからも当たり前に『甥』と『伯母』の関係でいられると思っていたけど、もしも義孝が麻美さんと離婚して、親権が向こうに行ってしまったら、この『当たり前』は『当たり前』じゃなくなってしまうかもしれないのだ。そのことに気が付いて、胸がぎゅっと苦しくなる。


 でも、私が苦しがってる場合じゃないのだ。

 一番苦しいのは私じゃない。

 しっかりしなさい、沢田真知子。あなたは大人なんだから。


 泣きそうになる自分に喝を入れていると、隣に座る白南風さんが、ふはぁ、と大きく息を吐いた。


「……今日、蓮君楽しそうだったな」

「はい。し、恭太さんもありがとうございます。さすがに疲れたんじゃないですか?」

「正直言うと、ふくらはぎがヤバい」

「ですよね。私、明日が怖いです」

「ふは。ほんとそれな」


 自身のふくらはぎに触れ、パンパンだわ、と困ったように笑う。それで。


「落ち着いた? マチコさん。歩けそう?」


 優しい声で問われる。足を少し浮かせてぷらぷらと振ってみると、さっきよりはだいぶ力が入るようになっていた。


「大丈夫そうです」

「じゃあ、戻るか」


 その言葉で、ぐっと膝に力を込める。私の真正面に立つ白南風さんが手を伸ばしてきて、今度はそれをしっかりと取った。ぐい、と引かれて、立ち上がる。まだちょっと心臓は落ち着かないけど、大丈夫、ちゃんと歩ける。


 

 さわだに着くと、すりガラスの向こうに母の姿が見えた。私達に気付いた様子で、こっちに向かって手を振ってくる。店の方から入れということだろうかと思っていると、どうやら読みは当たっていたらしい。カラカラと戸を開けて迎え入れられた。


 蓮君は食堂の奥座敷でお昼寝中で、ほんの数分前までは義孝も一緒に添い寝していたらしいのだが、いまは父とバトンタッチしているらしい。父も可愛い孫と一緒に昼寝がしたいのである。


 二階の居間にいても良いんだけど、ちょっとね、と小声で濁す。


 てっきり、施錠しているとはいえ、昼寝している幼児と祖父を二人きりで放置するのは防犯上よろしくないとかそういうことかと思いきや、そうではなかった。


「何か麻美さんと話があるって言ってね、おっかない顔で行っちゃったのよ」


 卓の向かいに座る母が、そんなことをヒソッと言う。


 白南風さんは、「疲れたでしょう? もし良かったら、恭太さんも休んでちょうだい」という言葉に甘える形で、蓮君の隣に寝転んでいる。白南風さんと父に挟まれた蓮君は、心なしかちょっと窮屈そうに見えた。


「話があるって、どんな?」

「それは」

 

 あの、と母は口の中で何やらもごもごと言葉を転がしている。


 そして、ちら、と白南風さんに視線をやってから、「お母さんにもよくわからない」と言った。本当は心当たりがあるのだろう。だけど、白南風さんの前で話せる話題ではないと判断したらしい。そりゃそうだ。


「私ちょっと様子見てこようか? 夕飯の相談もあるし」


 毎年一月一日の夕飯はおせちやお雑煮の残りをちょいちょいと摘まむことになっているのだが、今年は白南風さんもいることだし、せっかくだからちょっと気合を入れて用意しようか、という話になっていたのである。その『気合を入れて用意』するのはやはり義孝と父で、私と母はその手伝いの予定だった。麻美さんにも声をかけたが、その時は「蓮を見ていないといけないので」と断られてしまったけど。


「じゃあ、ちょっとお願い出来る? 軽く声を掛けるだけで良いから」

「わかった」


 立ち上がり、膝を伸ばす。何だか最近、ちょっとの時間でも正座をすると膝が痛いのだ。これが衰えというやつなんだろうか。そう考えると悲しい。少しストレッチとかした方が良いのかな。


 何気なく白南風さんの方を見ると、彼は目を瞑っていた。よほど疲れているのだろう。蓮君の隣でそうしている姿を見れば、何だか本当に親子のようだ。……となると、蓮君を挟んだ向こう側に父がいるのは違和感しかないけど。


 三人を起こさないようにそろりそろりと共用のサンダルを履く。ちょっと声を掛けるだけだから、これでいいや。


 パタパタと大きめのサンダルを鳴らしながら、居住部へと繋がる階段を上る。

 サンダルをパタパタと鳴らして、なるべく存在感をアピールしつつ、階段をゆっくり上っていく。ブカブカの共用サンダルが歩きづらいのもあるし、それにもし、義孝と麻美さんが何かしらの話し合いをしているとしたら、人には聞かれたくないはずだ。何か物音がしたら、きっと話をやめるだろう。それを期待して。


「よ、義孝……。あの、夕飯の相談なんだけど……」


 あと数段で上りきる、というところまで来たけれど、特にこれといって話し声が聞こえてくることもない。もしや話し合いなんてとっくに終わっているのでは? という気がして、気持ち声を張って呼び掛ける。ドアの前よりは少し離れたところの方が、もしもの時に心の準備が出来るかもしれない、なんて考えて。


 と。


「うわっ!」


 焦ったような義孝の声が聞こえたかと思うと、何かが割れる音がして、それから、勢いよくドアが開いた。飛び出して来たのは麻美さんだ。


「あぁ、麻美さん。いま何か割れ――」

「あんたのせいだから!」

「え」


 何のことですか、と尋ねる間もなく、肩を押された。手摺には触れていたはずだった。


 のに。

 

 肝心なところで私の握力は役に立たない。

 咄嗟に握ることも出来ず、するり、と滑るようにして、それが指先から離れた。

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