だるまさんが転んだ 3

「とりあえず、俺に任せろ」


 やはりここは父親に任せるのが得策だろう。そう思い、号泣する蓮君を義孝に託す。何だか、思いきり殴られでもしたかのように、頭がごわんごわんする。硬いアスファルトの地面が、突然ぐにゃりと柔らかくなった気がして、身体がふらつく。


「帰るか」


 義孝の言葉に一歩踏み出そうとするけれど、上手くいかない。どうやら地面ではなく、私の足の方に問題があったらしい。蓮君とめいっぱい遊んだ疲れが出たのか、はたまたさっきの発言のショックか、膝に力が入らないのである。


「大丈夫か、マチコさん」

「だ、大丈夫です。でもちょっと……」


 頭を整理する時間をもらえたら。


 そう小声で告げると、白南風さんが「義孝さん」と、蓮君を抱っこしたまま前を歩く義孝に声を掛ける。すると、首だけをこちらに向けた義孝が、こくりと頷く。そして、何も言わずに顎をしゃくって見せた。その方向にあるのは、老夫婦が営む駄菓子屋である。さすがにシャッターは下りているが、ベンチと自販機があり、休憩所となっている。まるで「あそこで休んでいけば」というメッセージのようで、私と白南風さんはやはり無言でそちらに視線をやってから頷いた。


 遠ざかる義孝の方から、


「おばちゃんとおいちゃんは?」


 という、蓮君の眠そうな声が聞こえてきた。


「おばちゃんとおいちゃんは疲れたから、ちょっと休憩するってさ。先に帰ってちょこっと昼寝してようぜ。パパもさすがに疲れた」

「パパも一緒に寝る?」

「おうとも」


 そんな父子の微笑ましいやりとりも何だか虚しく思えてしまう。白南風さんに支えてもらって何とかベンチまで辿り着き、腰を落ち着けた。


「こういう時はさ、甘いのが良いよ」


 そう言って渡されたのは、ホットココアだ。


「ありがとうございます」


 ポケットから小銭入れを出そうとすると「良いから」と止められた。


「温かいうちに飲みな。そんで、脳に糖分送らんと」


 そう言う白南風さんの手にも同じホットココアの缶があった。


「脳に糖分ですか」

「そ。俺がいつも甘いの飲んでるのはそういう理由だから」


 決して、過度の甘党だからとか、そういうわけじゃないからな、という力説に頬が緩む。


 プルタブに親指をかける。爪を切ったばかりだからか、上手く引っかかってくれない。少し苦戦していたら、白南風さんが「やる?」と手を伸ばしてきた。けれどもタイミングが悪く、数度の空振りの後で、カシュ、と音を立てて蓋が開いてしまう。こちらに差し出してくれた彼の手が空を切って、ちょっと気まずい。


「なんかすみません」

「え、何が?」

「あの、開けてもらえば良かったかなって」


 そういうので自然に甘えられる女性が可愛いと聞いたことがある。


「気にしなくて良いよ。そっちの方がマチコさんらしいし」

「私らしい、ですか?」

「そ。そういうところが可愛いから問題ない」

「え」


 いま可愛いところなんて一つもなかったと思いますが!?

 

「俺には可愛く見えてんの。良いでしょ、見えても」

「それは、まぁ、その」


 五つも年上の女が可愛く見えるとは、一体どういうことだろうか。そう思わなくもないけど、一般的に、好きな人というのは、可愛く見えるものらしい。それは、姿かたちが整っていて美しいとか、愛らしいとかそういうことではなく、いわゆる『欲目』とかいうやつだ。正直に言えばまだ信じられない気持ちでいるけど、この人は私のことが好きなのである。私が一言その不安を口にすれば、実力行使で『わからせて』来るほどに、私のことが好きなのだ。だから、可愛いと思えるのだろう。冷静に分析すれば納得出来る話ではあるけれども。


 それでも恥ずかしいことに変わりはない。


 だから、ちょっと俯いて、缶を口に付けたまま、「ありがとうございます」と小さな声で返した。聞こえるかギリギリの声量だと思ったが、彼の耳にはしっかり届いていたらしい。「どういたしまして」と満足気な声が頭上から振って来て、ぽん、と頭の上に手を乗せられた。その重さに胸がじわっとする。


 ごく、と温かいココアを一口飲んで、ふぅ、と甘い息を吐く。これまで脳に糖分を送るなんて意識したことがなかったけど、そう言われると確かにちょっとだけシャキッとしてきたような気がしないでもない。


「あの」

「何?」

「さっきの、ですけど」

「おお」

「どういう意味だと思います?」


 白南風さんは、と口に出してしまってから、慌てて「恭太さんは」と言い直す。すると「ギリギリセーフ」と苦笑してから、「これはあくまでも俺の推測になるけど」と前置きをして、白南風さんは話し出した。


「子どもって短絡的だから、単純に『結婚』っていうワードで、一番身近な『夫婦のモデル』である両親を結び付けたんだと思う。俺とマチコさんがああいう感じになる、って」

「……ですよね」

「それで、まぁ――……蓮君にしてみれば、恐らく、麻美さんは『良いママ』じゃないんだろ。だから、マチコさんにはそうなってほしくない、ってことなんじゃないかと」

「それは、その、こっそり男の人と会ってて――、っていう」

「いや、どうだろ。そこまで深く知ってるとは考えにくいでしょ。知ってたとしても、五歳の子どもが、父親以外の男性と会うことをそこまでの『悪いこと』とは捉えないんじゃないかと思う。それよりは、例えばあまり遊んでくれないとか、そういうのじゃないかな。まぁ、俺はあの人が普段蓮君とどう接してるのかは知らないけどさ」


 私も麻美さんが普段蓮君とどう接しているのかを詳しくは知らない。私が彼女と会うのは、こういう帰省時と、あとは、蓮君を預かる時の一瞬くらいだ。


 例え月に数度、私に蓮君を預けて義孝以外の男の人と会っていたとしても。

 

 それでも、それ以外の時間は蓮君としっかり向き合っていると思ってた。何せそれまでは、育児や家事の息抜きをしてただけなんじゃないかって思っていたのだ。だから、ちょっとリフレッシュして、すっきりして、それでまた明日からも頑張ろうって、そういうことなんだと。


「――も、もし、私が」


 もし私が気付いていたら。

 数回は気付かなかったとしても、さすがに頻度が多いな、怪しいなって、疑っていたら。そういうのは良くないんじゃない? って麻美さんにちゃんと言えていたら、違ったのではないだろうか。私が蓮君を預からなかったら、麻美さんは男の人と会わなかったかもしれない。もしそうだったら、蓮君はあんなこと言わなかったかもしれない。ママみたいにならないで、なんて。


 そんなことをところどころつっかえながら話すうちに、ぼたぼたと目から涙が落ちて来る。何の疑問も抱かず、能天気に甥っ子と遊んでいた自分が情けない。


「違うでしょ」


 私の涙をコートの袖で受け止めて、なおも「それは違うよマチコさん」と言う。


「マチコさんが責任を感じるところじゃない、そこは」

「でも」

「月に何度も子どもを預けて他の男と会うような人だぞ? 例えマチコさんが預からなくても、どうにかして会いに行くに決まってる」

「そういうものでしょうか」

「俺はね、そう思うよ。だからマチコさんが責任を感じるのは違う。それに、そういうのは夫婦の問題っていうか。俺は何も知らないからさ、果たして麻美さんが百パーセント悪いのかもわからないし」

「それは」

「つまり、義孝さんにも問題があるのかも、ってこと。俺はまだ義孝さんのこと良く知らないけど、でも、マチコさんの弟だし、信じたい気持ちはある。マチコさんもそうだろ?」

「それは、もちろん」

「でもさ、それも夫婦間では違うかもしれない。もしかしたら、夫としての義孝さんに、麻美さんは不満があったのかもしれない。まぁ、だとしても浮気は違うだろって話だけど」

「……ですよね」


 それはそうなのだ。

 弟だから、もちろん全面的に味方になりたい気持ちはある。だけど、私だって『夫』としての義孝のことを良く知らない。

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