§ サワダマチコの結婚⑥ §
だるまさんが転んだ 1
初詣と昼食を済ませ、麻美さんへのお土産として、好物だという洋菓子店のフルーツゼリーを買う。せっかくだから皆で食べられるようにと人数分だ。
けれど帰宅すると、麻美さんの姿はなかった。義孝が電話をかけると、どうやら出掛けているらしい。近所のコンビニにいるようで、まさかこんなに早く戻るとは思わなかったと言って、買い物を済ませたらすぐ戻るとのことだった。薬が効いたようで良かった。義孝は何だか呆れたような顔をしていたけど。
もしかしてまた男の人と会ってたのでは、とか思ったのだろうか。いやいやさすがにもうそんなことはしないでしょ。だっていま猶予期間だって話なんだし。
そうは思うけど、私はあくまでも外野だし、当事者は違うのだろう。麻美さんが一人で出掛けることがトラウマになっているのかもしれない。
とにもかくにも麻美さんはすぐに帰ってきた。薬が効いたら退屈になって外の空気を吸いたくなったのだという。顔色も随分良く、私が「麻美さんの好きなゼリー買ってきました」と洋菓子店の箱を見せると、「お義姉さん気が利くじゃないですか」と受け取ってくれた。
それで皆でゼリーを食べた後、私と白南風さんで蓮君を近所の公園に連れ出した。
土日も食堂は営業しているから、こうして遊ぶ機会はなかなかない。私の時は義孝がいたけれど蓮君は一人っ子だ。幼稚園にはお友達がいるけど、家に帰れば遊び相手は母親のみ。麻美さんは身体を動かす遊びが得意ではないようで、こういう外遊びが出来ないのだという。ピークが過ぎた時間帯に母がたまに散歩に連れて行ったりするらしいのだが、さすがに七十近い祖母に身体を張った遊びは厳しい。
家を出る直前にそれを知った白南風さんが「じゃあ今日は思い切り遊ぼう!」と提案した、というわけだ。義孝も仕事を済ませたら合流するとのこと。
「し、白南風さん、すみません、私はもう限界です」
「おわ、大丈夫かマチコさん。あっちのベンチで休んでな?」
「申し訳ありません……。力及ばず……」
本当はボールでもあれば良かったんだけど、我が家にはない。何せ義孝の遊び相手は私だったのだ。ボールがあったとしても付き合えるわけがない。キャッチボールはもちろん、サッカーだって無理だ。普通の家庭なら、父親とするのかもしれないが、ウチの父は常に厨房だ。だから家にはボールがないのだ。
ベンチに腰を下ろし、はぁ、と呼吸を整える。
白南風さんと蓮君は、もう何度目かわからない鬼ごっこをしている。鬼ごっこといっても白南風さんが蓮君を追いかけ回すだけなんだけど。ルールも何もないような追いかけっこだが、蓮君は楽しそうだ。汗もたくさんかいているだろうから、自販機で何か飲み物でも買ってこよう。蓮君はりんごジュースが好きだから、それにしようかな。白南風さんは……こういう時でも激甘のカフェオレで良いんだろうか。
そんなことを考えて立ち上がる。
「マチコさん、どこ行くの? 座ってなよ」
「おばちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ、蓮君。あの、飲み物でも買ってこようかと。蓮君はりんごジュースかな? 白南風さんは何が良いです?」
ポケットから小銭入れを出して見せると、白南風さんが息を弾ませてこちらへ向かって来た。
「あの、わざわざ来ていただかなくても。ええと、何が良いですか? さすがに運動後ですし、カフェオレは違います、よね?」
「いやもうそれについては全然何でも良いんだけどさ。カフェオレでも何でも。じゃなくて、俺はね、そろそろ『恭太』って呼んでほしくて来たっていうか」
「え? あぁ!」
「何かマチコさん、気ィ抜いたらすぐ『白南風』になるからさぁ」
「すみませんすみません」
「そんな謝らなくて良いけど。そんな呼びづらいかな、『恭太』って」
何だろ、発音の問題? 『こうた』だったら呼びやすかったんかな?
などと、白南風さんが眉間にしわを寄せてううんと唸る。
「――ちっ、違います! そんな発音とかじゃなくて!」
「そうなん? なんかここまで来ると俺の名前の方に原因があるんじゃないかって思い始めてさ。発音しづらいとか」
「違います。ちゃんと発音出来ます。ただほんと、これまで家族とか親戚以外に男の人を下の名前で呼ぶ習慣がなくて!」
慣れてないだけなんです! 恭太さん恭太さん恭太さん恭太さん。ほら、ちゃんと発音は出来るんです! ついつい油断してしまっただけなんです! ですからどうか『ダーリン呼び』だけはご勘弁を! と必死に懇願すると、彼は、ぷっ、と吹き出した。
「そうやって名前連呼されたの案外初めてかも」
「え」
「そんな雑に呼ばないでよ。何かが削られそう」
「決して雑に呼んだわけでは……。えっ、削れる?! 削れるって何がですか?」
「んー? 何か、ライフ的なものが? いや、 わかってるけどさ、そんなつもりじゃなかったってのは。でも、どうせならもっと気持ち込めて呼んで欲しいんだけど」
「気持ちを込めて、ですか」
「そ」
気持ち、と言われても。
一体どんな気持ちを込めて呼べば良いのだろう。
意識してしまうと途端に恥ずかしくなる。
さっきは勢いで四回くらい名前を呼んだのに、いまはもうたった一回呼ぶだけで心臓が口から飛び出そうだ。ちら、と視界の隅に見える蓮君の姿で心を落ち着ける。彼はその辺に落ちていた木の枝を拾って地面に絵を描いているところだった。よし、大丈夫。平常心。
「お手本見せようか」
「へ」
いや、この場合は『聞かせる』になるのか、なんて言いながら、白南風さんが顔を近づけて来る。息がかかるような距離でもないはずなのに、ぞわりと背中がむず痒い。せっかく落ち着いた心臓が、またそわそわし出す。
「真知子さん」
「ひぇっ!?」
耳元で囁かれたいつもより低めの声に、思わず飛び上がって反射的に耳を塞ぐ。
「……その反応はちょっとショックなんだけど」
「っす、すみませんすみませんすみません! 何か変な感じがして! 何か! いつもと! 違って!」
「そりゃあいつもと同じならつまらないでしょ」
そうかもしれないけど!
そうかもしれないけど!
「じゃ、次はマチコさんの番ね」
さっきとは違う、いつもの自然な感じの名前呼びにホッと気が抜ける。
「へあぁ」
と返事なのか何なのかわからない言葉を返す。それに対しても白南風さんは、くすりと笑った。蓮君の絵は気付けばかなりの大きさになっていた。クマか犬かわからないその絵を見て、気持ちを落ち着ける。やれる。私だってきっとやれる。
さっきの白南風さんみたいに、顔を近付けて、耳元で言うのだ。いつもより声を低く――はしなくて良いのかな。決して地声も高い方じゃないし、このままでも良いだろうか。ごく、と唾を飲み、すぅ、と息を吸う。
覚悟を決めて、「きょ」の言葉を吐き出した時、
「おーい、そこの新婚さん。俺の息子をほったらかしにしてイチャついてんじゃないよ」
遥か遠くからそんな声が聞こえてきた。
誰かなんて確認するまでもない。
義孝である。
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