§ サワダアサミの応報⑥ §

どこで間違えた

「だっる」


 ずぅんと重い頭を抱えて、沢田麻美は、ごろりと寝返りを打った。家族は初詣に行くと言って、出掛けてしまった。すぐ戻ると姑の文子は言ったが、精一杯の作り笑顔で「私のことは気にしないで、ゆっくりお昼も食べてきてください」と送り出したところ、さっきスマホに「お言葉に甘えて、お昼食べてから帰ります。麻美さんの分のご飯は用意してあるので、食べられそうなら温めて食べてください。」とメッセージが届いた。それに適当なスタンプを返して、スマホを布団の上に放る。これで数時間は羽を伸ばせる。


 昨日はついつい深酒をしてしまった。

 何もかもうまくいかず、イライラしてついついビールに手が伸びてしまったのである。それで、そのまま年を越したというわけだ。


 途中までは順調だった、と麻美は昨夜の出来事を思い出す。


 炬燵に入って、夫の義孝と義姉の真知子、その婚約者の恭太の四人でテレビを観ながら飲んでいた時までは良かった。真知子は正直邪魔だったが、それでも『婚約者』という立場上、彼女がいなければ恭太も同席しなかっただろうから、それは仕方ない。どうせもともと空気のようなものだし、いてもいなくても。そう思い、麻美は恭太にどんどん話しかけた。義孝はというと、クッションを枕にして寝息を立てている。毎年こうなのだ。


 紅白対抗の歌合戦は良い話のネタになると思った。若者向けの最近のヒット曲はもちろんだが、いわゆる『懐メロ』などと言われるような往年のヒット曲も流れたりする。それに乗っかって、高校時代に流行った歌やら何やらを話題にしたのである。


 しきりに「私達の年代は」、「私達の時は」を繰り返し、いつものようにオドオドと丸くなっている義姉の真知子に対しては、さもさもいま気づきましたとでも言わんばかりに「ごめんなさい、お義姉さんにはちょーっと通じませんでしたね?」とフォローも忘れない。もちろんフォローなどではないのだが。


 それで、恭太の方では一応『真知子婚約者の弟の妻』ということで、完全に余所行きの顔で愛想よくそれに応えていたに過ぎないが、麻美の方ではしっかりと手応えを感じていた。何せ、表面上は、それはそれは盛り上がっていたのだ。恭太も「そうそう」、「あぁ、懐かしいですね」などという言葉を並べていたのである。あのコミュ障の義姉ならこうはいかないだろう。そんなことを考えて。


 やがて、尿意でも催したか、義孝が目を覚ましてむくりと起き上がった。「俺もう寝るわ」と、瞼を擦りながら言い、それに釣られるようにして真知子も「私もそろそろ」と立ち上がる。これも毎年の流れだ。そうなるだろうと思っていた。例え、この場に婚約者恭太がいても。


 ちら、と卓の上を見る。

 恭太のために注いだビールはまだもう数口分残っている。これまでの反応から考えて、「じゃあこれ飲み切ったら行くわ」となると思った。それで、飲み切る前にさらに注いでしまえば良いのである。麻美は完全に恭太を『その場のノリに合わせられる人間』だと思い込んでいた。だとすれば、グラスの中に酒が残っているうちは、この場から離れることはない。麻美の仲間内は皆そうだ。

 酒はあまり強くないと言っていたから、だったらいっそ酔わせてしまえば良い。さすがにここで既成事実を作ることは難しいだろうが、酔いの勢いで連絡先を交換出来ればと思ったし、それ以上のこともあったらあったで良い。


 などと考えていたのだが。


「そんじゃ俺も」


 さらりとそう言って、恭太はすっくと立ち上がったのである。思わず麻美は、「恭太君は良いじゃない」と声をかけたが、「いやいや」と笑って返されてしまった。真知子はというと、「無理に私に付き合わずとも」などと、多少は、一人ここに残る麻美に気を遣うような素振りを見せた。けれど麻美にしてみれば、「押すならもっとしっかり押せ」ともどかしいことこの上ない。私だったらもっとうまくやるのに。これだから、コミュ障の陰キャは、と。

 

 すると、追い打ちのように、


「年を越す瞬間は一緒にいたいでしょ」 

 

 などと言って、卓の上のグラスを取る。そして、残っていたビールをあっという間に飲み干すと、真知子の手を取った。


 その後はもう麻美にとっては腸の煮えくりかえるような展開だった。


 真知子の手を取ったまま、寝てても良いだの、隣にいたいだのと甘い言葉を吐くのである。俳優かモデルかと見紛うような、誰もが振り返るイケメンが、麻美がずっと見下してきた義姉に対し、視線がしっかり合うようにと少し腰まで落として。


 麻美の前だからだろうか、真知子が少々つれない態度をとると、恭太はより一層必死に首を傾げて甘えた声を出す。


 麻美は大学生の時、ホストにこれをやられたことがある。ホストといっても、学生でも通える程度の、低価格を売りにした店のだったが。髪型や店の雰囲気、それから、若さとノリの良さを上乗せして辛うじて五位あたりにしがみつくようなやつではない。外見の良さはもちろんだが、性格や物腰についても、なぜホストになったのかと疑問に思うくらいに品の良い、ナンバーワンの男だった。そんな彼が、不意に甘えた声を出すのである。学生なんだし、無理にシャンパンなんて頼まなくて良い。プレゼントだっていらない。ただ、あんまり間が空くと寂しい。そんなことを、騒がしい店内で、こそっと麻美だけに聞こえるように言う。


 それで、三日と空けずに通うようになった。

 大学四年の時のことである。

 内定も決まり、卒業するための単位も問題なく、また、麻美の通う大学では卒論も『出しさえすれば良い』というレベルだったために、暇を持て余していた時期だった。

 バイト代と貯金をつぎ込んだが、実家暮らしなので特に問題はなかった。それでもさすがに貯金が尽きて通う頻度が減った頃、義孝と、それからやや遅れる形で商社マンの彼と付き合い始めたのである。


 金のかからない交際は楽で良い。


 そこに気が付いて、そこに通うのをやめた。ギリギリ、借金も作らずに済んだ。とはいえ、貯金はすべてなくなってしまったが。


 それでも結婚さえすればどうにかなるのだ。女は結婚さえすれば、何とかなるのである。妻の側に金がなくたって問題はない。何せ、結婚すれば夫の財産は妻のものだ。共有財産という言葉があるではないか。そう思って、とりあえず就職はしたけれど、さっさとプロポーズされて早く寿退社したいと、そればかり考えていた。 


 その後、結婚に至る経緯については割愛するとして、現在である。


 麻美がさんざんに金を落として、それでやっと得られたその声と視線を、真知子は何の苦労もなく向けられている。それがひたすらに腹立たしい。


 どうしてあんな女が。

 私の方が上なのに。

 ほんの数ヶ月前まではみじめな行き遅れの三十路女だったのに。


 私は。

 しみったれた大衆食堂の嫁で。

 子どもは懐かないし。

 舅姑は常によそよそしい。

 その上、店の手伝いまでやらされるようになった。


 どこだ。

 どこで間違えた。

 

 額に手を当て、目を瞑る。


 あの義姉に息子を預けたのがまずかったのだろうか。


 パッと浮かんだのはそこだった。


 真知子に預けたから、その弟である夫に密告されてしまったのだ、と。友人に頼めば良かったのかもしれない。いや、果たして蓮が納得するだろうか。いつもおどおどしていて、見てるだけでイライラするような義姉だが、蓮は懐いているのだ。何なら自分よりも。


 いや、違う。

 これまでは特に問題はなかったのだ。

 何せ、金も時間も持て余した行き遅れの独身女だったのである。それが、いっちょ前にクリスマスの予定なんか入れたからいけないのである。あそこで歯車が狂ったのだ。こっちの家庭を壊した癖に婚約者なんて連れてきて、いままでの仕返しとでも言わんばかりに幸せを見せつけようとしているのだ。なんて生意気で性根の腐った女だろう。


 麻美の思考はそう飛躍した。


 つまりは、今回の元凶は真知子である、と。真知子がこれまで通り、自分の言うことを黙って聞いていればこんなことにはなっていなかったのだ、と。


 婚活を勧めたのは自分だが、どうせうまくいくわけなんかないのだ。誰からも相手にされないで、みじめな思いをすれば良い。自分より下の人間を見ると気分が良いのである。それで、さんざん失敗して、最終的には自分よりも一回りも二回りも上の男と結婚すれば良いのだ。そう考えていた。


 アンタはいつまでも底辺を這いずり回ってなさいよ。じめじめしたところでおどおどペコペコしてりゃ良かったのよ。それで、私のためにあれこれ立ち回ってくれれば良かったのに。


 絶対に許さない。

 これ以上調子に乗らせるもんか。


 ギリ、と歯噛みをして、麻美は布団から出た。

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