§ サワダアサミの応報④ §

結婚の経緯

 夫に浮気がバレるまでの麻美の生活の流れはこうだ。


 朝、目が覚めると息子、蓮の身仕度を済ませたら、彼を一人で店の方に向かわせる。店には彼の父がおり、祖父母がいるからだ。それで彼は、父と祖父が作った朝食をカウンター席で食べる。食べ終えた後は、その時に手の空いている者が園バスの停留所へと彼を連れて行くのだ。


 だから麻美がすることといえば、蓮の身仕度をすることと、掃除、洗濯だ。食事の用意は一切しなくて良い。何せ階下には食堂がある。麻美の分だってもちろん用意してもらえるし、蓮の離乳食だって全てそこで作られたのだ。


 午前中に自分達の居住スペースの家事が終われば、あとは正直することがない。幼稚園のバスが来る時間まで自由である。だらだらとドラマを観たり、ネットショッピングをして過ごす。園バスの時間になったら、蓮を迎えに行く。


 帰宅後は、おもちゃの置いてある居間のテレビをつけっぱなしにして、そこで蓮を遊ばせる。昔はママも一緒に遊ぼうと誘われたこともあったが、麻美は何度誘ってものらりくらりとかわすだけで応えない。そのうち蓮も学習したらしい、母親というのは遊んでくれないものなのだと。だから、一人で黙々と遊ぶようになった。


 夕飯時になれば、姑が二人分の夕飯を持ってきてくれる。それを食べて、風呂に入り、また居間で遊ばせるのだ。


 これが平日の麻美のルーティンだった。


 土日は地獄だ。

 幼稚園は休みだが、もちろん食堂は営業中なため、一日中蓮と二人きりでいなければならない。それが苦痛で、外へ出る。いずれにしても蓮とは二人きりだが、まだ場が持つからだ。稀に雅也から連絡が入るので、そうなったら義姉である真知子に蓮を押し付ければ良い。どうせ真知子は麻美の頼みを断らない。


 そうやって、面倒なことから逃げてきた。

 ちょっとでも大変そうな顔をすれば、義孝は「じゃあ、しなくて良い」と言うのである。いまだにこの『授かり婚』に対して責任を感じているように見えた。昨今では授かり婚など珍しくも何ともないが、やはり順序を間違えたという気持ちはあるらしい。


 良かった。

 

 義孝が責任を取ると言って、ものの数分で結婚が決まった時、麻美はそう思った。良かった、と。


 蓮の父親は、もしかしたら義孝ではないかもしれない。『もしかしたら』というのは、検査をしていないから不確定、という意味だ。顔は麻美にそっくりである。少々耳の形が違うが、義孝の耳に似てると思い込めばまぁ何とか。


 当時、麻美には男がいた。

 一応義孝の方を本命としていたが、正直なところ、結婚相手として狙っていたのは彼ではなかった。義孝よりも三つ上の、商社マンの彼がいたのだ。彼は、少々性格には難があったが、稼ぎが良かった。そこそこのマンションに住んでいて、デートだって毎回それなりのレストランである。しかし、付き合っていると思っているのは麻美だけで、彼の方では麻美はあくまでも『女友達』の一人だった。彼を狙っている女はそれこそ山のようにいたのだ。どうしても『本命』に昇格出来ない。だから渋々、『その他大勢』の地位に甘んじていた。


 本命になるために、なんとしても子どもが欲しかった。

 子どもさえ出来れば結婚に持ち込めると思ったのである。

 出し抜ける。『その他大勢』から脱却出来る、と。


 麻美は昔から、モテる女だった。

 その気になれば友人の彼氏だって奪うことが出来た。

 それなのに。


 この私が『その他大勢』なんてありえないでしょ。

 私は、選ぶ立場なの。

 私が、選んだの。 


 それで。

 

 避妊具にこっそり穴をあけた。 

 もちろんきっちりと危険日を狙っての行動だった。


 義孝とも並行して付き合いを続けた。もしもの時は彼に助けてもらわねばならない。血液型も同じだ。バレるわけがない。


 麻美の計画は成功した。

 予定通りに妊娠したのである。

 陽性の結果が出た検査薬を持ち、揚々と彼の部屋に行った。子どもが出来た、責任を取ってと迫ったのである。


 が。


「無理。金は払ってやるから下ろして」


 即答だった。

 たったの一秒も悩む素振りすらなかった。


「てかさ、俺、きっちり避妊してたよな? お前との子どもとかマジいらないから。ゴムに穴でもあけたわけ?」

「……は、はぁ?」

「誰がお前みたいなビッチの子どもなんて欲しがるかよって話。お前、俺以外にも男いんじゃん」

「そ、それは」

「産みたいならそっちに押し付ければ? 俺は絶対無理。てか、こうなった以上、下ろしてももう終わりだから、俺達」

「え、なん、何で」

「何でとかよく言えるな。無理でしょ。子ども出来たとか言って脅して結婚迫るような女なんて。次は何されるかわかったもんじゃないし」


 つーわけだから、帰れ。もう来るな。


 そう、冷たく突き放される。

 彼の部屋には、麻美の私物なんて一つもない。化粧水のボトル一本すらも置かせてもらえなかったのだ。もちろん合鍵だってない。だから、来るなと言われたら、それで終わりだ。唯一の連絡手段であるメッセージアプリも当然のようにブロックされた。


 それで結局。


「子どもが出来たの。ヨシ君の子だよ」


 義孝に泣きついた。


 収入面では彼に劣る義孝だが、顔と性格は良い。しみったれた食堂の息子だけど、そこそこ客の入りは良いし、持ち家だ。そのうち彼が店を継ぐとなったら、舅姑を追い出してこじゃれたカフェかレストランに改装すれば良いのだ。何が『食堂さわだ』だ。昭和か。ダサいったらない。そう思った。


 妊娠を告げた時、義孝はかなりショックを受けていたようだった。どこからどう見ても、喜んでいるようには見えなかった。確かに順序こそ違うものの、それでも現在交際している恋人が妊娠したのだ。親への説明やら謝罪やらを考えればもちろん憂鬱にもなるだろうけれど、それでも多少は喜んでも良いのではないだろうか。


 それなのに。


 この私がアンタを選んでやったっていうのに。


 そう思って、麻美は苛ついた。


 諸手を上げて喜びなさいよ。

 私が結婚してやってもいいって言ってんのよ。


 思わず舌打ちしそうになったが、堪えた。さすがにその態度はまずい。それくらいの判断は出来る。多少しおらしくして、「大好きなヨシ君との子どもだから、どうしても産みたいの」と、そう言うと、義孝は「わかった。責任を取る」と返して、この世の終わりのような顔をした。それにももちろん苛ついたが、麻美も薄々は気づいていた。彼に結婚の意志などなかったことを。頃合いを見計らって何となく別れを切り出されるのではなかろうかと、そんな気はしていたのだ。


 けれど、麻美だって引くわけにはいかない。本当に産みたいかと言われたら、正直なところ、そうでもなかった。だけど、結婚出来るものと思って、仕事だって辞めてしまった。計画が失敗したからといって再び就活するのは面倒だったし、何より妊娠は事実なのだ。


 じゃあやっぱり結婚するしかない。

 正直もう働くのなんて嫌だった。どっちにしろ、結婚すれば仕事を辞めるつもりだった。それが早まっただけだ。いずれにしても妊娠中は何も出来ないのだし、産んだ後だって子育てがあるから、働けるわけなんてない。そのままずるずると専業主婦を続ければ良いのだ。


 お世辞にもきれいな店とは言えないが、客の入りは良いし、妻子を養うくらいは出来るだろう。麻美はそう思った。何せ、現に沢田家は、子どもを二人育てているのだ。姉の真知子に至っては大学まで出ている。正直、義父母と同居するのは気が重いが、無料のベビーシッター兼家政婦だとでも思えば良いのだ。そう考えたら、まぁ悪くない環境かもしれない。


 実際、悪くはなかった。

 

 食堂さわだは、麻美が思っていたよりもずっと繁盛していたのである。その上、義父母は嫁入り前のお嬢さんにとんでもないことをしてしまったと、義孝以上に真っ青な顔で平謝りだった。これは何としても責任を取らねばならぬと大騒ぎになり、それからずっと、蓮を出産して以降もずっと、『お嫁様』の扱いを受けて来た。


 だったのに。


 そうして、話は再びクリスマス後の話し合いに戻る。


 

「男と遊ぶ時間があるんだったら、店の手伝いくらい出来るよな」


 謝罪の言葉が遅いと指摘を受け、怒りに肩を震わせている麻美に、さらにかけられた言葉である。


 そう言われれば、「出来ます」と言うしかなかった。

 渋々、手伝うことを了承したものの、その態度についても義孝は不満げだった。


「ていうかさ、少しでも申し訳ない気持ちとか、誠意を見せたいとかさ、そういうのはないわけ?」

「は」

「普通さ、こういうのだって自分から提案してこない? 何でもするから許してほしいとかさ。そういう姿勢、っていうか」


 結局麻美はさ、と吐き捨てるように言って、大袈裟すぎるくらいに深いため息をつく。


「謝罪の言葉も真っ先に出て来ないし、信頼を回復するための努力だってしようと思わないんだろ。ただちょっと反省してる振りしてりゃなぁなぁになるとか思ってないか?」

「そんなこと――」

「とりあえず、猶予期間だから」

「猶予?」

「様子を見させてもらうってこと。そんで、俺が駄目だって判断したら、離婚」

「そんな、ヨシ君。だって、蓮がいるのに」

「心配しなくて良い。その時は、蓮は俺が引き取る」


 義孝がそう言うと、麻美はかなり焦ったような顔をした。自分は母親だの、子どもには母親が必要だのと、そういう言葉を並べて。


「本当にそう思ってたら、クリスマスに伯母に預けたりはしねぇんじゃねぇの?」

「で、でも、子どもに聞かれたらまずい話だからって言われて、その、口車に乗せられたっていうか! そ、それに今回だけだし」

「そんなの通用するわけないじゃん。何だよ、子どもに聞かれたらまずい話って。犯罪の相談?」

「そうじゃなくて。だからその、プライベートな」

「お前さ、『プライベートな』って言っときゃ詮索されないとか思ってないか? その言い訳も聞き飽きたわ」


 まだうだうだと言い訳を並べようとする麻美の言葉を、とにかく、と遮って。


「猶予期間な。どこをどう直せとは具体的に言わないけど、反省とか、改善の余地が見られなかったら、即離婚。蓮の親権は全力で取りに行くから。以上」


 そう話を畳み、義孝は息子の眠る寝室へと引っ込んでいった。

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