§ サワダマチコの結婚④ §
わからせるまでだけど 1
沢田家の年越しにおいて、除夜の鐘が鳴る時間まで起きている人間はほぼいない。
何せ閉店時間が早いとはいえ、大晦日も開店時間は通常通りだ。よって、従業員はいつも通りに起床しているため、いくら年越しといえども二十一時を過ぎた頃から脱落者が出始める。そこまで酒に強い人もいないために宴会という宴会もなく、ただいつもより夜更かしをするだけの日だ。それで、最後まで起きているのは麻美さんだけ。義孝でさえ二十二時には「もう限界」と寝室に行ってしまう。もちろん蓮君はとっくの昔に夢の中だ。
だから毎年、紅白対抗の歌合戦もどっちが勝ったかは翌日のニュースで知ることとなるし、初詣だってのんびりお昼近くに行く。私はというと、起きていようと思えば起きていられるけど、麻美さんと二人でいたところで会話が弾むわけでもないので、義孝が離脱するタイミングで私も客間に引っ込むようにしている。それで、布団で寝転んでいるうちに朝になるのだ。だから麻美さんが除夜の鐘を聞いているのかはわからない。
それが毎年のことだった。
だからやはり今年も義孝が離脱したところで、「私もそろそろ」と席を立った。白南風さんはどうするだろうかと思ったけど、彼も「そんじゃ俺も」とそれに続いた。麻美さんは「恭太君は良いじゃない」と引き止めて来たが、「いやいや」とそれを軽くかわして立ち上がる。まだお酒もおつまみも残っていたから、無理に私に付き合わずとも、とは言った。何せ白南風さんはコミュ障ではないのだ。私と違って。初対面だった麻美さんとも普通に会話をしていた。何ならかなり盛り上がっていたと思う。
だけど。
「年を越す瞬間は一緒にいたいでしょ」と、グラスに残っていたあと数口分のビールを一気に飲み干し、私の手を取るのである。
「で、でもちゃんと起きてられるかどうか」
「寝てても良いよ。俺も寝てるかもだし。だけど、一番隣にいたいんだって。良いじゃん。俺ら夫婦になるんだし」
「ちょ、ちょちょちょ……!」
と慌てて振り払うと、彼はちょっと悲しそうな顔をして「駄目?」と首を傾げてくる。
「だ、駄目とかそういうことではなくて、その」
麻美さんの前だから!
だけど、本人の前でそう言うのも、とためらっていると、麻美さんと視線がかち合った。背筋がゾッとするほどの鋭い視線である。彼女に背を向けるような格好になっている白南風さんには当然見えない。私だけに向けられたその視線が恐ろしくて、思わず、振り払ったばかりの白南風さんの手を取り、縋るように強く握ってしまう。
「マチコさん? どした?」
「な、何でもないです。あの、行きましょう。麻美さん、おやすみなさい! 良いお年を!」
なるべく目を合わせないようにしてそう言うと、彼の手を強く握ったまま廊下へ出た。ドッドッと早く波打つ心臓を鎮まれ鎮まれと念じながら、早足で客間へと向かう。ついうっかりグラスまで持ってきてしまったけど、これは明日洗えば良いか。
と。
「マチコさんってば、だいたーん」
「え」
廊下の途中で立ち止まり、ぎゅっ、と抱きしめられる。
「ちょ、え、なんっ、何ですか?!」
「俺、マチコさんからこんな強く手ェ握られたの初めてかも」
「い、言われてみれば」
「ていうかそもそもマチコさんから来てくれるのレアだし?」
「そう、でしたね」
そういや数日前、そういう話をしたばかりなのだ。私から手を繋いできてほしい、と。
「どした。なんかあった? さっきの義妹?」
「えっと、いや、その」
「話してよ。話せない?」
「話せないわけでは」
「じゃあ」
「あの、とりあえず、部屋行きませんか? ここは寒いですし」
「よっしゃ。了解」
そう言うや、白南風さんは私の手を握ったまま、廊下をのっしのっしと歩き出した。私よりもよっぽど『ここの家』の人間みたいだ。
それで。
客間に入るなり、ぱぱぱ、と手早く布団を敷くと、その上にどっかと胡坐をかき、両手を広げて、
「はい」
である。
「はい、というのは?」
布団の端に膝をつき、恐る恐るそう尋ねる。
「いや、そこじゃないでしょ、どう見ても。はい、ここ、はい」
「ここ、って」
「俺の膝の上。ハイ、どうぞ。ここ、マチコさんの専用席な」
「えぇ、あの、重いですから、私」
「大丈夫大丈夫。良いから早く」
「――そ、それでは失礼して」
そう断りを入れてから、膝歩きで彼の前まで移動し、よいしょ、と彼の胡坐の上に腰を下ろす。背中を向け、膝を抱えるようにして。
「えっ、そっち向き?」
「えっ? 違うんですか?」
「まぁ、それがマチコさんか。それで? ほら、話してくれるんでしょ?」
「あぁ……ええと、そう、ですね。あの」
「ゆっくりで良いから」
後ろから私の肩を包むようにして、頭に頬を寄せる。じんわりと彼の体温が伝わってきて心地よく、まどろみそうになる。
「なんかちょっとまた、自信がなくなって来たというか」
「自信?」
「あの、何ていうか、本当に私で大丈夫なのかって思っちゃったといいますか、その」
「あれだけマチコさんが良いんだって皆の前で言ったのに?」
「――っそ、それは! そう、なんですけど」
いつまでもウジウジと自信が持てない自分に嫌気が差す。わかってはいるのだ。こんな自分ではいけないことくらい。白南風さんを信じたい気持ちもある。だけれども。
「俺の言葉、まだ信じらんない?」
「違います。白南風さんの」
「恭太」
「恭太さんの言葉がとかじゃなくて」
「じゃあ何?」
「私が。私が、まだ、その。――ひゃあぁ」
下ろした髪をさらさらとかき分けられるくすぐったさに、思わず変な声が出る。彼の両手は私を抱き締めているから、器用にも鼻を使ったらしい。
「な、何するんですか! くすぐったいです!」
「んー」
「んー、じゃなくて! ちょっ、ちょっと」
うなじに、ひたり、と温かいものが触れる。それが彼の唇だと気付いて、身体がかぁっと熱くなった。
「まだ実感湧かない感じ?」
「っじ、実感、がっ、ていうか。あ、あの、そこでしゃべらないで」
「くすぐったい? 気持ち良い? どっち?」
「く、くすぐったいです、から」
必死にそう訴えるも、彼は「ふーん」と気にしていない様子だ。
「マチコさんは俺のこと好きでしょ?」
「そ、それは、もち、もちろん。ひゃあぁ」
「俺もマチコさんのこと好き。それじゃ足んない?」
「たっ、足りる足りないとかじゃなくて」
「もしかしてまだ伝わってない? だったら、しっかりわからせるまでだけど」
「わからせるって、な、――
優しく触れるだけだった彼の唇が、急に牙を剥いてきた。うなじにチリッとした痛みが走る。痛みと驚きで身を強張らせると、白南風さんは「ごめん」と呟いた。
「あまりにマチコさんの反応が可愛くて、キスマークつけちゃった。痛かった? ごめんな」
「えっ?!」
「えっ、て何? そんなに嫌だった?」
「いえ、その嫌とかそういうことじゃなくて。き、キスマーク?」
「うん。どした?」
「こ、こんなに痛いものなんですか?! えっ、なんか、チュッってしたらつくんじゃないんですか?!」
「え? そんなわけないじゃん。強めに吸わないとつかないって」
「す、吸う!? 吸うんですか!?」
「え? 知らないの、マチコさん?! 吸うんだよ?!」
「し、知りません! ていうかキスマークって女性がつけるものじゃ……!」
「は、はぁ?」
「だ、だだだだだって、キスマークって、口紅を塗ってチュッてするやつですよね? だから女性側がするものかと!」
「まぁ――……それもある意味キスマークではあるけどさ」
違うのね!?
違ったのね!?
えっ? 吸うの? あれって吸ってたの?
私が見たことあるやつって、男の人がほっぺたにべったり口紅がついてるやつだったんだけど、じゃああれは何だったの!?
「でもまぁ、良いこと聞いた。そうか、マチコさんの中ではキスマークって女性の方からするものなのか。へぇそうか。いや、良いこと聞いた」
じゃ、いっちょお願いします、と少し体をずらし、とんとん、と自身の鎖骨を指で突いてみせた。
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