わからせるまでだけど 2

「え、えええ」

「つけてくれるんでしょ? マチコさんが」

「え、と」

「ほら、早く」


 襟元をずらし、首を少し傾げてこちらを見つめる白南風さんはいつにも増して妖艶だ。


「早く、マチコさん」

「あ、ああああんまり急かさないでくださいいいい」


 身体の向きを変え、白南風さんと対峙する。やり方は聞いた。吸えば良いのだ。それはわかった。わかったけれども、いますぐ出来るかといったらそれはまた別の話だ。

 

 そっと彼の鎖骨に触れる。そこに唇をつけようとし、あと数センチというところで止まった。


 どうしよう、私いま絶対鼻息荒くなってる!

 えっ、これ、呼吸とかどうしたら良い感じ?

 待って。よく考えたらキスの時だって呼吸はどうするの!? 止める!? 止めとく感じ?! 苦しくならない?


 そんなことを考えてぴたりと静止していると、私からのキスを待っていた白南風さんが、ぷっ、と吹き出した。


「いまマチコさんが考えてること当ててみようか」

「え」

「息はどうしたら良いんだろ、って考えてただろ」

「ど、どうしてわかっ――……、あっ、や、やっぱり鼻息荒かったですか!?」


 恥ずかしい!

 私一人でなんか興奮してるみたいで、めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど!


 思わず両手で鼻を覆って隠す。

 

「隠さないで良いよ」

「でも」

「良いから。手、どけて」

「でも」

「キスする時の呼吸いきの仕方、教えるから」

「え」

「マチコさんには、キスマよりもこっちの方が先みたいだし」


 だから、と私の顔の前にある手に触れて、「これ、どけて」と優しく突く。


 促されるままにそっと手をどけていくと、そのわずかな隙間に指を差しこまれ、ふに、と唇を挟まれた。


「マチコさんの口、ちっちゃ。キスするけど、良いよね?」


 唇を摘ままれているから、私に出来る意思表示といえば、首を縦に振るか横に振るかくらいのものだろう。だから、「良いよね?」に対する「どうぞ」のつもりで、小さく頷いた。


 すると彼は唇に触れていた指を顎へと移動させた。顔を近づけ、潜めた声で「マチコさん、顎もちっちゃ」と囁く。唇も、顎も、恐らくは日本女性の平均サイズだと思います、と返そうか迷った。たぶん、いつもの私ならそう返したはずだ。だけど、さすがの私にもわかる。いまはそれを指摘すべき時ではない。


 だって彼の唇はいままさに私のそれに触れようとしているのだ。私達の唇は、いま初めて重なろうとしているのである。


 触れる直前に白南風さんが「触れたらすぐに離すから、そこで息して」と囁いた。了解、のつもりで小さく頷くと、少し位置がずれてしまった私の顎を掬い上げるようにして調整される。直前の言葉通りに、軽く触れてはすぐに離れるキスだった。息は、吸うことよりも吐く方が優先された。胸がキュッと詰まって、押し出されたかのように、ふは、と漏れてしまうのだ。吐き出した分よりも浅く息を吸うと、それに合わせて二度目のキスが来る。今回も短い。それが何度か続いた。


 これくらいなら大丈夫そうだと思っていると、白南風さんは「もう少し頑張れる?」と掠れ気味の声で聞いて来た。何をどう頑張るのだろう。


「あの、実家ここで出来る範囲なら」


 そう答えると「当然」という言葉が返って来る。良かった。そこは忘れてないらしい。


「次は少し長くする。鼻で呼吸いきして。俺もそうするから、鼻息がどうとか、気にしなくて良いし」

「でも」

「ていうか、そんなの考えられなくするから」

「え」


 どういうことですか、と問い掛けようとしたところで、布団の上に押し倒された。顎に添えらえてた手を後頭部に回し、わずかな衝撃からも守ってくれようとしているのが、そつがなくて、さすがだと思う。


 宣言通りに、長いキスだった。

 彼の手は依然として私の後頭部で枕の役割を果たしている。もう片方の手は、敷布団の上に肘をついた状態で、ゆっくりと私の髪を撫でている。その感触がぞわぞわと伝わってきて、背中がぞくぞくする。彼が言ったとおりになった。鼻息がどうとか、そんなことをいちいち気にしてなどいられない。


 長い口づけといえど、常に唇が触れているわけではない。だから、その隙をついて口呼吸することだって出来ないわけではないのだ。鼻呼吸がうまく行かず、酸素を求めて口を開けると、彼は、上唇か下唇、いずれかを優しく噛んでくる。口呼吸を邪魔しているわけではない。それでも、彼のその行為は私の呼吸のリズムを乱す。


 本やテレビなどでは見たことはある。

 そういうことをする、という知識は一応ある。

 それでも実際の感触、男性の唇も思った以上に柔らかいということであったり、キスマークは実は結構痛みを伴うということなんかは、当然のように知らなかった。

 キスはただ、唇同士を重ね合わせるだけではないこともいま知った。噛んだりするのだ。噛むといっても歯を立てるわけではないけど。

 そういや外国の恋愛映画では、やけにキスが長かったし、触れているだけではなかった。確かに、何かをむような動きをしていたと思う。成る程、それがこれだったのだ。


 白南風さんが私の唇に触れる度に、白黒だった私の『知識』に色が塗られていくようだった。髪を撫でる手は優しく、落とす口づけは激しく、吐く息は熱い。息苦しさに堪らずうっすらと目を開けると、どうやら彼の目はずっと開かれていたらしい。すべて見られていたのかと思うと、羞恥で頭が爆発しそうだ。


「……っし、白南風さんも」

「恭太。名前で呼んで」

「恭太さんも、目つぶってください」

「やだ」

「どうして」

「マチコさんの全部を焼き付けておきたい」

「そんな……っ。あの、じゃあせめて電気を」


 消してください、と懇願すると、白南風さんはにこりと笑って首を横に振った。


「消したら止まらなくなるから駄目。この辺にしとこっか」

「え」

「ちゃんとまだ理性が残ってるから、俺」


 困るでしょマチコさん、これ以上はさ、と言って、白南風さんは私の額にキスをした。


 確かに困る。これ以上は。

 実家だってわかっているのに。

 私だって止まらなくなりそうだ。


 身体を起こして胸に手を当て、呼吸を整える。その隣に胡坐をかいた白南風さんは、満足気な笑みを湛えて私を見た後で、


「わかった、マチコさん?」


 そう問い掛けてきた。


「わかった、って、何が。あぁ、ええと、息の仕方、でしょうか。それなら、何となく――」

「それだけじゃなくて、俺がどれだけマチコさんを好きか、マチコさんが俺にどれだけ愛されてるかとか」

「え、っと。それも、あの、はい」


 改めて確認されると、恥ずかしい。

 だってここは、実家の客間の、青白い蛍光灯の下で、見慣れた客用布団の上なのだ。ムードの欠片もない。せめて雰囲気のあるホテルだったなら、浸りきることも出来たはずなのに、チラチラと視界に入ってくる馴染みの光景が邪魔をする。


「自信なくなって来たらいつでも言って。またこうやって何度でもわからせるから」


 そう言うと白南風さんは、私を抱き寄せた。


「一人で抱え込むのだけはやめよ。俺ら夫婦になるんだろ」

「……はい」

「悩んだら、まずは俺に相談。良い?」

「……はい」

「よし」


 そんじゃ――、と彼が膝を叩いた時だった。


「姉さん、恭太、起きてる?」


 軽いノックの後で、障子の向こうから義孝の声が聞こえてきた。

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