§ サワダマチコの結婚③ §
食堂さわだ、仕事納め 1
「お帰りなさい!」
配達を終えて店に戻ると、出迎えてくれたのは母だ。まばらにいる常連さんの卓を、お冷のポットを片手に回っている。
「あ、マチコさん、義孝さん、お帰りなさい」
厨房から、ひょっ、と白南風さんが顔を出す。洗い物をしているようだ。麻美さんもその奥で作業をしている。
「マチコちゃん、聞いたよぉ。結婚するんだって?」
カウンターに座っている、常連の佐藤のおじいちゃんがニコニコと話しかけてくる。
「ええと、はい。あの、お陰様で」
「いやー、残念。マチコちゃんにはウチの孫と結婚してもらいたかったのに」
すかさず近くにいた母親から、「佐藤さんトコのマサ君はまだ高校生でしょ」とツッコミが入る。佐藤さんは「そうだったそうだった」と調子よく笑った。
「ちょっと佐藤さん、俺の婚約者なんだから、駄目ですって」
ぬぅ、と再び顔を出した白南風さんが、そう口を挟むと、「マチコちゃん、愛されてるねぇ」と佐藤さんは一層愉快そうだ。いや、それよりも白南風さん、もう溶け込んでるの!? 早くない!?
「いやぁでもマチコちゃんが結婚か」
裏に住む高橋さん(こちらもおじいちゃんだ)が、会計のために席を立ち、こちらに向かいながらしみじみとそう言った。
「時の流れは早いもんだ。なぁ、シゲちゃん」
シゲちゃん、というのは父のあだ名である。『
「いや全く。つい最近高校を出たと思ったら結婚だもんなぁ」
義孝と焼き場を交代した父が、手を止めてそう言う。いや、三十二だし、つい最近高校を出た、はないでしょ。
「ヨシも一人前になったし、マチコちゃんも嫁に行って、言うことねぇやな、シゲちゃん」
「ほんとほんと」
ヨシも一人前。
この言葉は、たぶん、店の跡継ぎという意味だけではない。『所帯を持った』ことも含まれている。時代が変わっても、年号が変わっても、まだまだ『男は所帯を持って一人前』の考えが根強い。特に高齢の方は、この考えを変えることは恐らくないだろう。そういう時代を生きて来た人達だ。確かにそうだったのだろうし、彼らの考えを否定はしたくないけど。
厨房の義孝は何とも言えない顔をして「お陰様で」と返す。
私もさっき、反射的にそう返した。『お陰様で』と。私達は、いつだって誰かの『お陰』で生きている。たとえ直接関わりはなかろうとも、その気持ちを忘れてはならない。
高橋さんは会計後に「――そうだそうだ。おーい蓮君」と思い出したように言って、奥座敷にいる蓮君を手招いた。それに気づいた蓮君が、共用のサンダルをペタペタと鳴らしてこちらへ来る。
「ほら、おっちゃんからのお年玉。年明けはいつ来れるかわからないから、いま渡しちまうからな」
「ありがとう! おばーちゃん、もらったー!」
ポチ袋をしゃかしゃかと振りながら、「これ何? あけていい?」と母に見せる。
「ちょっと高橋さん、そんな気を遣わせちゃって! 蓮、ありがとう言えて偉いわねぇ。でも、開けるのは駄目よ?」
「タカさん、悪いよ。そんな」
「気にすんなって、どうせ五百円玉二枚しか入れてねぇんだから。これがほんとの『お年玉』ってなぁ」
「にしてもですよ。いや、ほんとありがとうございます。良いお年を」
「ありがとうございました」
「良いお年を」
「おじいちゃん、また来てね~」
さわだの従業員達に見送られ、高橋さんは、ちょっと照れ臭そうに手を振りながら帰っていった。途端に、店の中がピリッとする。常連さん達が一斉にヒソヒソしながらポケットをまさぐり始めたのである。知り合い同士、「おい、何か袋とか持ってるか?」、「孫に配った分がまだ余ってる」だのと耳打ちまでして。
「あの……皆さん、まさかと思うけど」
「やめてくださいね。あの、ほんとに、蓮にお年玉とか」
高橋さんが前例を作ってしまったお陰で、何となく『蓮君にお年玉(五百円玉数枚ならOK)をあげなくては』といった空気になってしまったようだ。
昨年までは、蓮君はこの場にいなかった。
麻美さんと一緒に、家の方にいたのだ。
だから、常連さん達でも、蓮君の姿を見ることはこれまでほとんどなかった。弟か父母、あるいは麻美さんが幼稚園バスのお迎えに行って連れて帰る、その一瞬だけだ。店と家は繋がっているから、店を突っ切って、家の中に入るのである。といってもそうするのは父母と弟だけで、麻美さんはぐるっと店を周って裏玄関を使うのだが。
それが今年は麻美さんが店にいるから、蓮君もここにいる。それまで滅多に顔を出さなかった、『ヨシの奥さん』の接客に、常連さん達は何となくソワソワしているように見えた。母の話では、「若い子がいると活気が出て良い」なんて話している人もいたそうだ。
とにもかくにも、長年通い詰めてくれている常連さんからしてみれば、嫁が店で働いている間、奥座敷で子どもが遊んでいる光景こそが『食堂さわだ』の正しい姿だったりする。彼らの中で、嫁というのは当たり前に家業を手伝うものだった。だから、そうしなかった麻美さんは異質だったのだ。
「ヨシは嫁を大事にしすぎて、奥の部屋に隠してる」
なんてからかう人もいたらしい。文面だけ見ればなんてことはないが、この言葉の裏には「なぜ嫁を店で働かせないんだ」という意味が込められている。その証拠に、その後に続くのは、
「シゲちゃんも
「良い嫁さんもらって幸せだなぁ、シゲちゃんは。文ちゃんに感謝しろよ?」
麻美さんとは対象的な母への賛辞である。父はそれを聞いて、「いやいや、ウチのカミさんは好きでやってくれているから」と返し、母はそれに乗る。このやり取りまでがセットだ。その間義孝はというと、ただ愛想笑いを浮かべて料理を作っていた。
「いやぁしかし、蓮君はアレだね、母さん似だね」
誰かがぽつりと言った。
その瞬間に、何だか、空気がひりついた気がした。ほんの一瞬の間を挟んで、私と白南風さん、そして麻美さんを除いた三人が動き出す。
「そうでしょう? でもね、髪質なんかは義孝に似てるのよ。ねぇ、お父さん?」
「そうだそうだ。それに、骨が太くて健康なところとかなぁ」
「でも、顔とか、パッと見えるところはぜーんぶ妻に似ちゃって」
取り繕うような声で、三人が言う。麻美さんは、というと、こちらを見もしないで黙々と調理台を拭いている。
「そうかそうか。でもまぁ、男の子は女親に似るって言うもんなぁ」
どうやら何かしらの地雷を知らず知らずのうちに踏んだらしいその常連さんは、けれど何を感じ取るでもなくガハハと笑っていた。私だっていまの話の中に何かまずいことがあったなんて思わなかった。確かに『男の子は女親に似る』なんて話も聞いたことがあるし、自分の母親とどこもかしこも似ていないばかりに、「幼い頃は橋の下から拾ってきたのだと嘘をつかれたことがある」と話してくれた友人もいる。
いまここに流れる微妙な雰囲気はきっと、白南風さんにも伝わっているだろう。何せ私にもわかるほどだ。察しの良い彼は、麻美さんが浮気をしているだろうこともすぐに見抜いていたし。
けれど、こんな微妙な空気だ。さっきの言葉の中に、何かしらのヒントがあったとすれば、もしかして。
蓮君は、義孝の子どもではないのではないか。
そんなことを考えずにはいられなかった。
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