§ サワダアサミの応報② §

車内にて

【沢田義孝視点】


 姉の真知子をホテル・ジュノーに送り届けた後、ギッ、とハンドルを握り締めてから、後部座席で呑気な寝息を立てている愛息子をちらりと見た。


 俺の子だ。


 そう言い聞かせる。

 顔のパーツは何一つ似ていない。完全に妻の顔である。だけど、自分の子だ。これまでもずっとそう言い聞かせて来た。


 ――来たのだ。


 常にそう言い聞かせていなければ、油断した隙に、その悪い考えはじわじわと滲むように湧いてくるのである。


 すなわち、


 自分の子ではないのではないか、という。


 もし仮に。

 万が一、いいや、億が一、自分と血が繫がっていなかったとして、だ。

 それでももうこの子は俺の子どもだ。いまさら手放せるわけがない。自分のことをパパと呼び、慕ってくれるこの子を、いまさら他人だからと、その小さな手を振り払えるだろうか。


 無理だ。


 そう思って、歯を食いしばる。


「くそぉ……」


 住み慣れた我が家が近付く。


 妻――麻美には、すぐに帰宅するように伝えてある。「この足で迎えに行ってやろうか」と提案したところ、慌てて「それは必要ない」と言って来たのである。その反応で確信した。男だ、と。本当に友人からの急ぎの呼び出しだったとしたら、この時点で何かしらの説明があるはずなのだ。けれど、そんなこともなかった。ただ、「いますぐ帰るから、大丈夫」を繰り返すのみである。それならばと「じゃあすぐに帰れ」と会話を締めた。

 

 果たしてもう家に着いただろうか。同居している両親はまだ何も知らない。知らせていない。ただ、姉からの電話を受けて慌てて店を飛び出したから、娘の身に何かあったのではと心配はしているだろう。事故や怪我、急病の類ではないらしいから、あとでちゃんと説明すると言って出て来たのだ。これまでずっと浮いた話の一つもなかった長女の(恐らく)初めてのデートの足にされたと言ったら、きっと色んな意味で驚くだろう。あの真知子に恋人が、というのと、それから、弟を足として使うなんて、と。それくらいに恋愛とは縁遠く、また、弟を顎で使うなんてことのない優しい姉なのである。


 けれどそれよりも、孫と一緒に出掛けたはずなのに、たった一人で帰宅した嫁の方に驚いているかもしれない。蓮はどこだ、どうしたと、もしかしたらいまごろ問い詰められているかもしれない。


 そんなことを考える。


 麻美の言い訳次第では――、と考えかけて、首を横に振った。


 いまから数年前、友人達に子どもが出来たから結婚することになったと話した時、その場にいた全員が何とも言えない顔をして何らかの言葉を飲み込んだことを、そのせいで「おめでとう」の言葉が一拍遅れたことを覚えている。麻美に良くない噂があることだって本当は知っていた。それでも、噂は噂だとその時は信じなかった。自分さえ信じなければ、噂は噂のままなのだ。


 麻美は姉とはタイプがまるで逆だ。

 明るくて、騒がしくて、派手で。あまり賢くなくて、声が大きくて、ハキハキしてて、いつもグループの中心にいた。


 だから、付き合った。

 姉と真逆だから。

 いけなかった。


「義孝ってシスコンだよな」


 中学の頃だった。

 友人の誰かがそう言ったのだ。

 シスコンの言葉の意味は知っている。

 

 いっそ清々しく肯定してやれば良かったかもしれない。ああそうだよ、俺の姉ちゃん最高だからさ。そう笑い飛ばせれば良かった。恐らく、そいつの方では軽いジョークのつもりだったはずだ。『シスコン』なんて言葉を覚えて、そういや義孝んトコは姉弟仲が良かったな、なんて思って。それを多少誇張して言い表したに過ぎなかったのだ。


 けれど当時の俺はそれを重く受け止めた。思春期だったことも要因の一つだっただろう。


 自分が姉を慕うせいで、姉に迷惑をかけてしまう。


 他所の家のきょうだいよりも仲が良い自覚はあった。たぶん、距離が近いだろうこともわかっていた。家は食堂を営んでいて、両親は常に忙しかった。忙しいということは、すなわち繁盛しているということで、それ自体は良いのだが、幼い子どもにしてみれば、淋しいだけだ。たった二歳しか違わないのだから、姉もそうだったろうに、彼女は幼い頃から『姉』だった。


「義孝、お姉ちゃんがいるからね」


 いつもそう言って、常に一緒にいてくれた。俺達の定位置は食堂みせの奥座敷だった。両親はすぐ近くにいるし、腹が減ったと言えばお菓子も、おにぎりも出してもらえる。家族仲が悪いわけではない。それでも親は『店の人』だった。俺の絵を褒めてくれるのも、宿題を見てくれるのも姉だった。懐かない方がおかしい。


 もちろん恋愛感情があるわけでない。そこまでガチのシスコンではない。それはわかってる。けれども、理想の女性像を思い浮かべる時に、どうしても姉の姿が浮かぶ。優しくて、真面目で、落ち着いていて、一生懸命だけど不器用で、ちょっとおっちょこちょいなところがあって、と。見た目だって、「義孝の姉ちゃんって美人じゃね?」と言われるくらいにはきれいだ。身近にこんな異性がいれば無理もないと思う。


 だから、麻美と付き合った。


 自分が好きなのは、姉じゃない。姉とは仲が良いし、大切な家族とは思っているけど、そういうことではないのだと。そうしないと、姉にも迷惑がかかると思った。いつまでも彼氏の一人も出来ないのは、弟を可愛がっているからだ、あそこの家は姉弟でいかがわしいことをしているのでは、と近所の噂好きのおばさん達がヒソヒソしている気がしたのだ。思春期特有の思い込みはそういう方向に暴走した。


 俺が何とかしないと。


 なるべく姉に似ていない、明るくて、派手な女と付き合わないと。仲間内から、「馬鹿だけどそこが可愛い」なんていじられるような女にしないと。


 けれど付き合っていくうちに、少しずつでも愛情は湧いてくる。明るくて派手な女は、刺激的で、楽しい。遊ぶだけならちょうど良かった。でもやっぱり結婚するならもう少し落ち着いた人が良い。年齢を重ねるうちにそう考えるようになった。結婚するならやっぱり姉のような女性とが良い。いつだって俺の理想の女性は姉だった。


 そんな時に言われたのだ。


「子どもが出来たの。ヨシ君の子だよ」


 と。

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