§ サワダマチコの結婚② §

食堂さわだへ 1

 六月町ろくがつまち駅前から二十分ほどバスに揺られ、さらに徒歩で五分程度の距離にあるのが我が家、『食堂さわだ』だ。店の二階が居住部になっていて、数年前、義孝が結婚した際に少し部屋数を増やした。


「あら、いらっしゃいませ」


 店の方に顔を出すと、出迎えてくれたのは母親だ。

 裏にも玄関はあるけれど、せっかくだからご飯食べていって、という母親からの申し出もあり、店の方から入るようにと言われている。私達は、がやがやと騒がしい常連さん達の声を聞きながら、奥の座敷に座った。閉店まであと一時間。食べ終わったらこのまま待つようにとの指示である。


「どうも、初めまして。真知子の母の文子あやこです~」


 お冷を運びながら、母が頭を下げる。


「初めまして、白南風恭太と申します」


 畳に手をつき、きれいな所作で深く礼をする。その姿に、母は「あらあらそんなかしこまらないで」と膝をついた。


「そういうのはね、後で良いのよぉ。ごめんなさいね、いまお父さん忙しくって」

「いえ、マチコさんからお話は伺っておりましたから。地元の方々に大層愛されているお店だと」

「あらっ、愛されてるだなんて。ただ長くやってるってだけのお店なのよ?」

「お聞きしていた通りの繁盛ぶりで。とても賑わってらっしゃいますね」


 そう言って、ぐるり、と店内を見回す。

 満席、とまではいかないものの、卓は程よく埋まっていて騒がしい。居酒屋じゃないのに騒がしいのは、おしゃべり好きで陽気な常連さんが多いからだ。私には見慣れた光景である。


 私と弟の義孝は、学校から帰るといつもこの奥の座席で、おやつを食べながら宿題を済ませていたものだ。ある程度大きくなると、お冷を運んだり、注文を取ったり、なんていうお手伝いもした。私達が注文を取りに行くと、常連さん達は、わざとゆっくり読み上げてくれたり、メニューをこちらに向けて指差してくれたりして。


 そんなことをぼんやりと思い出す。

 

 母と白南風さんは何とも和やかに会話をしていて、いまさらながら母親のコミュニケーション能力の高さを羨ましく思う。


「義孝がね、言ってたのよ」

「何ですか?」

「姉さんの彼氏、とんでもないイケメンだぞ、って」

「いやいや、そんな」

「もうね、予想以上でびっくり。モテたでしょう? まさか真知子がこんな面食いだったとはねぇ」


 にや、と笑みを向けられ、慌ててかぶりを振る。


「わ、私別に顔で選んだわけじゃ」

「わかってるわよ。冗談だってば」


 と、けらけらと笑い、卓の隅に立てかけてあったメニューを広げて置く。


「ごめんなさいねぇ、この子、昔から冗談が通じなくってねぇ。ちょっとこう……真面目過ぎるっていうのかしら。大丈夫? 一緒にいてつまらなくない?」

「ちょ、ちょっとお母さん!」


 確かに事実ではあるけども! 白南風さん婚約者の前で娘を下げなくても!


 でも、白南風さんはどう返すんだろう。

 真面目で冗談が通じないのはその通りだし、白南風さんもいつも「冗談だから、笑い飛ばしてよ」って言うし。相手は未来の姑だし、空気を読んで、そうですね、って同調したりするんだろうな。


 が。


「いえ」


 彼の言葉は、私の予想とは違っていた。


「一緒にいて、楽しいです」


 ごく自然なトーンで。

 当たり前のように。

 ただ、事実を告げるように、さらりと。


「だからこそ、生涯を共にしたいと――、って、これは後でゆっくりお話させていただいてよろしいでしょうか。さっきからこの美味しそうな匂いで、腹の虫が飯はまだかと急かすものですから。一番大事なところで腹が鳴ると恰好つかないので」


 ちょっと砕けてそう言うと、母が「あらっ、そうよね! 食べてって言ったのはこっちなのに、ごめんなさいね!」と笑い出し、それに「いえいえ」と愛想よく返す。


 なんかもう、これぞ、『コミュ強同士のやり取り』である。私には無理だ。


 決まったらまた呼んでね、と母が厨房の方へ戻ると、メニューに視線を落としていた白南風さんが、そのままの姿勢で「どうだった?」と問い掛けて来る。


「どうだった、とは」

「うまくやれてた?」

「かなり。と思いますが」

「それなら良かった」


 その言葉でやっと顔を上げる。

 

「一応、めっちゃ緊張してたからね、俺」

「そんな風に見えませんでしたけど」

「そう? でも、マチコさんに助けられた」


 俺、これ、とサバ味噌定食を指差しながら、やはり彼はさらりと言った。


「私ですか? 私、何か言いましたっけ?」

「顔で選んだんじゃないって言ってくれたじゃん」

「え。言いましたけど。いや、だって。その通りですし」

「あれでスイッチ入った」

「スイッチ?」

「スイッチ、ってか。気合? まぁ、とにかく、マチコさんのお陰だから。今後も俺がピンチになったら助けて」

「あの、ですから、私は特に何もしてないような。助けてって言われても」

「良いの良いの、マチコさんは自然体で。――なぁ、マチコさんはどうする?」

「わ、私は生姜焼きで」

「おっけ。――すみません、決まりました!」


 大きく手を振ってそう言うと、厨房の奥から、母の「いま行きます」という声が聞こえてくる。


 てっきり再び母が来るかと思いきや、奥からひょこりと顔を出したのは意外な人物だった。


「いらっしゃいませ」


 どすどすという苛立った足音すら聞こえてきそうな歩き方でこちらへやって来たのは、全身に不機嫌オーラを纏った麻美さんである。義孝の話では店の手伝いは一切させていなかったはずだけど、一体どうしたのだろうか。


 麻美さんは私と目を合わせると、一瞬、眉間にぴきりとしわを寄せた。私はいままで、彼女のこんな表情を見たことがない。もしかして、まだ怒ってたりするのだろうか。クリスマスのあの夜、義孝を呼んだことを。だけど、こっちにだって予定があったわけだし。


 何か言われるかも、と思わず肩に力が入る。何も言われなかったとしても、ずっとこういう態度を取られるのは居心地が悪い。しかも、まさかこの場に麻美さんがいると思わず、白南風さんに彼女のことを相談してしまったのだ。自己紹介でもしなければ、彼女がその『弟の嫁』ということはわからないだろけど。いや、でも、紹介しないわけにはいかないだろうし。白南風さんのことだから「ああ、あなたが不倫の疑いのある弟嫁さんですか」なんてことは言わないとは思うが。


 のろのろと近付く麻美さんの眉がぴくりと動いた。不機嫌一色だった表情が崩れる。そして――、


「いらっしゃいませ。お義姉さんの婚約者さんですよね?」


 さっきまでの態度を軟化させ、ふわりと微笑む。声も心なしかワントーン高い。


「義姉さん? あぁ、義孝さんの――」

「妻の麻美です」


 あっ、言っちゃった。いや、そうだよね。普通言うよね。


 果たして白南風さんの表情は変わるだろうか。あからさまに態度に出すような人ではないと思いつつも、それが気になる。


「どうも初めまして。マチコさんの夫になる予定の、白南風恭太と言います」


 おそらくは、女性の誰もがドキリとするであろう笑みを向けて、軽く頭を下げた。麻美さんも例外ではないらしい、ほわ、と口を半開きにして、彼の表情に見とれている様子だ。


「――お」


 その中途半端に開かれた口から、短い言葉が出る。


「お義姉さんと結婚したら、私達、親戚ですね」

「まぁ、そうなりますね」

「恭太さんって、おいくつなんですか?」

「二十七ですけど」


 伝票を挟んだバインダーを胸のあたりで抱え、麻美さんが首を傾げる。


「えぇ、お義姉さんより五つも下ぁ? あのね、私、二十九」


 年下とわかるや急に敬語を撤廃し、親しげに距離を詰めてきた。『五つも』をやけに強調していたような気がするのは考えすぎだろうか。


「はぁ」

「てことは、もしかして、昔好きだった番組とか、流行ってたバンドとか、そういうの同じ世代かもじゃない?」

「どうでしょうね」

「絶対そうだよ。え〜大丈夫ですかぁ? お義姉さん、そういう話、合わなそう」


 ちら、と視線を向けられて、何とか笑みを作って返せたのは「あ、ええと……、まぁ、そうかも、ですね」という言葉だ。これが精一杯だ。だって事実なのだ。青春時代の五歳差はかなり大きい。そういや、その手の話だってしたことはない。意図的に避けているわけではないけど。


「どうでも良くない?」


 そこに、白南風さんの刃のような声が割り込む。

 顔はにこやかだけど、声が冷たい。気がする。


「それはそれで新しい世界を知られて良いと思うけど、俺は。ね、マチコさん」


 ひやりと冷たかった声が急に溶けて、表情と同じだけの柔らかさに戻った。向けられる視線が優しい。


「俺の知らないもの、マチコさんが全部教えて。マチコさんが知らない世界は俺が全部教えるから」

「は、はい」


 まさかこんなところで甘い言葉をかけられると思わず、顔が熱くなる。頭上から、チッ、と舌打ちが聞こえてきて、慌てて顔を上げると、麻美さんが鬼のような形相で私を睨みつけていた。

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