食堂さわだへ 2

「いやいや、こんな時間になってしまって悪いね。真知子の父の守重もりしげです」


 店を閉め、奥の座敷のテーブルを繋げて、向かいには父と母、それから、義孝が座っている。麻美さんはすぐ近くで蓮君の相手をしていて、時間も時間だし、寝かせたら? という母の言葉に「どうせこの時間は寝ないんで」と返していた。時刻は八時半だ。かつての私達なら布団に入っている時間である。そういや、笹川さんのところのお孫さんも八時くらいでは寝ないのよ、なんて言ってたっけ。昔といまは違うのだ。


「いえ、お時間を取っていただき、ありがとうございます。真知子さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいております、白南風恭太と申します」


 深く頭を下げる白南風さんは、こんなことを言うのは失礼だとわかっているけど、別人のようである。私は彼が目上の人間と接しているのを――まぁ岩井さんも目上ではあるんだけど――ほとんど見たことがない。


「そんなね、あのー、かしこまらないで良いんだけどね」


 父はちょっと照れているようだ。照れてる、というか、あの顔はたぶん、驚いているのである。恐らく私のことだから、もっとこう……年上で地味な感じの人を連れてくると思っていたはずだ。けれど、蓋を開けてみれば、年下だわ、俳優並みのルックスだわで圧倒されているのだろう。義孝はそんな父を呆れたような顔で見ている。


「いやいや父さん、こういうのはさ、ちゃんとしないと」

「ちゃんとしないとって言われてもなぁ。お前の時なんて麻美ちゃん連れてきて『子ども出来たから結婚する』だったし」

「俺らのは良いんだって」

「つったって、何を話したら良いものか」


 そんなことを言って、参った、と頭を掻く。母が父の脇を肘で小突き、「しっかりしてよ」と笑った。


「それで? 恭太さんは何のお仕事をしてるの? 義孝から、お若い方だって聞いてはいたんだけど」

「……それなんですが、実は現在はまだ学生の身でして」


 白南風さんの言葉に、三人が「えっ?」と声を揃える。父が「さすがに学生は」と眉をしかめた。反対されるのでは、と冷や汗をかき、思わず前のめりになる。


「あの! 学生っていっても、院生で!」


 それでついつい、会話に割って入ってしまった。両親も弟も、そして、隣に座る白南風さんもちょっと驚いた顔をしている。


「真知子さんに補足していただいた通り、院に在籍しております。この春に卒業が決まっておりまして、四月からはそのまま大学で助手として働くことになっております」


 慌てる私とは対照的に、白南風さんはどっしりと構え、少しも焦る素振りもなくそう話す。


「皆さんがご心配される気持ちもわかります。四月から社会人とはいえ、新卒の身分ですから、頼りなく思えるのでは、と」

「それはまぁ……そうだなぁ」

「でも真知子だって働いてるもの、大丈夫じゃない?」

「働いてるって言っても、子どもが出来たら――」

「育休もあるから、大丈夫!」


 またしても思ったよりも大きな声が出てしまった。ただ、育休制度があるのは事実だし。子どもが出来ても仕事は続けるつもりだ。


「そうは言っても、嫁を働かせてまで」


 そう返してきたのは、義孝だ。いつから麻美さんが店の手伝いをし始めたのかはわからないが、私の知る限りでは、少なくともクリスマス前は何もしていなかったはず。だから義孝の考えは元々そうなのかもしれない。同じ親を見て育っても、理想とする夫婦の形は違うのだろう。私は父と一緒に働く母を見てそうなりたいと思ったけど、義孝は家に母親がいないことを寂しいと思っていたのかもしれない。

 ただ、現在進行形で『嫁を働かせている』父はというと、そこを突かれるのはばつが悪いのだろう、何とも言えない顔をして、義孝の言葉を曖昧に濁している。


「僕は、学食で真面目に働く真知子さんに惹かれて、交際を申し込みました。彼女が働きたいと言うのなら、その意思を尊重したいと考えております。もちろん、家庭に入りたいと言うのなら、二つ返事で了承しますが」

「二つ返事、って言ったって、一年目の給料じゃなぁ」


 難色を示したのはやはり義孝だ。沢田家では父親よりも義孝の方が鬼門なのかもしれない。

 

 一年目のお給料は低い。それは私もわかる。

 というか、正直なところ『助手』という職業の初任給がどうなっているのかもわからないけど、高給取りでないことは確かだ。


 また私が割り込んで良いものだろうか。専業主婦になるつもりはないとか、いざとなったら私が養う気持ちでいるとか。でもあんまりしゃしゃり出たら、白南風さんがより一層頼りなく思われてしまうかもしれない。


 すると彼は、ちらりと私に目配せをして小さく頷いた。その目が「落ち着いて、マチコさん」と言っているような気がする。


「確かに一年目の給与は――というか一年目に限らずですけど、正直なところ、胸を張れるほどのものではありません」


 そう言うと、やはり目の前の三人は表情を曇らせた。何せ行き遅れかけている娘だ。反対はしたくないけれども、苦労もさせたくもない。そんな、複雑な顔をしている。しかし白南風さんは動揺することもなく、「ですが」と話を続けようとした。


「なぁ」


 それを遮ったのは父だった。


「助手っていうのは、何だ。その、なんていうか、俺はその辺の業界のことがわからんのだが、助手っつぅことは、ゆくゆくは、その、学者? 博士はかせ? とかになるってことなのか?」


 そう言って、不思議そうに首を傾げる。


「実はですね、その、『博士』に関しては、そう遠くない未来に取得予定でして。学位論文は提出済みですし、教授からもほぼ間違いないと。あとは正式に学位授与されれば」

「えっ?」


 そうなんですか? と思わず二人の会話に割り込んでしまう「何で姉さんが知らねぇんだよ」と義孝は呆れ顔だ。


「だ、だって、あんまりそういう話してなくて」

「すみません、僕があえて話してなかったというのもあります。修士時代ですら肩書だけで寄って来る女性が多かったものですから。そういうのを抜きにして、僕という人間を見てもらいたかったのもありますし、正式に授与されてから、とも考えておりまして」

「成る程なぁ」

「恭太さん、苦労して来たのねぇ」


 同情的な両親とは裏腹に、義孝はまだ何か納得のいっていないような顔を向けてくる。


「でもマジで、見た目も良くて、博士だか学者になるんだか知らねぇけど、将来性もあるってなればそりゃあ選び放題だったろうに。何でまた姉さんなんだよ。正直俺はそこが疑問だわ」


 はぁ、と大きく息を吐いて目を眇め、白南風さんを睨みつける。視界の隅で、麻美さんが大きく頷いているのが見えた。私も正直そこに関しては拭いきれない。


「繰り返しになりますけど、学食で働いている姿を見て――」

「それがもう怪しいんだよな。だって、学食だろ? 帽子とかマスクとかしてんじゃん。見えるのなんてここだけだろ?」


 と、自身の目元をぐるりと指差す。


「姉さんが積極的に話しかけるとも思えないし」


 図星である。

 それに対し、白南風さんは「そうなんですよ。実は」と返した。


 えっまさか、彼女の振りをしてくれだのなんだのって、そこから話すの?


「学食の職員さん達って、基本的に気さくというかですね。ちょっと砕けた表現をさせていただくと『おっかさん』みたいな方が多いんですけど、年齢的にも」


 白南風さん、だいぶ言葉を選んでるな。確かに『おばちゃん』とか言いづらいよね。まだ『おっかさん』の方が……、うん、まぁ、似たような言葉だけど。


「そんな中、やけに丁寧な物腰の方がいるなと思って、ずっと気になっていたんです。いつもは厨房の奥にいたんですけど、いつもカウンターにいる人がお休みした時に、たまたま真知子さんがいて。それで、僕から声をかけたのがきっかけで」

「ほぉん」

「まぁ、正直、反応はつれませんでした。恐らく、僕の印象が良くなかったからでしょうね」

「だってさ。どうなの、姉さん」

「えっ、と。それは、うん、実は、そう」

「でしょう? でもそれが、新鮮だったんですよ。まさかそんな反応をされるとは思ってなくて。それで、どうにか振り向かせようって思って、気付いたらもう」


 そんなことを言って、私の手を取る。


「真知子さんしか考えられないんです。ですから、絶対に彼女と結婚したいんです。認めてください」


 そのまっすぐな言葉に、母は「まぁ」と顔をほころばせ、義孝は、ぐぅ、と喉を詰まらせた。父は、というと――、

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