忘年会のその後で 1
「なぁ、この後どうする、ハニー?」
「ヒッ! か、かかか勘弁してください」
人で賑わう駅前通りを歩きながら、白南風さんが楽しそうにこちらを覗き込んでくる。
「いやいやハニー、そこはちゃんと『どうしようかしら、ダーリン?』って可愛く返してくれないと。約束したもんな、次『白南風』って言ったら『ダーリン呼び』で、って」
「あ、あれは約束というより、しらっ、だ、ダーリン、が、一方的に」
「ちっ、今回は引っかからなかったか……」
「ヒエッ、危なかったぁ……。ちなみに、三回だとどんなペナルティが追加されるんですか?」
「ペナルティって……。えーと、一回目は『ダーリン呼び』、二回目は俺からの『ハニー呼び』だから……三回目は……」
「さ、三回目は……」
ごくり、と唾を飲んで彼を見上げる。
と。
ぱちり、と目を合わせて、にぃっと笑った。その笑顔も大変心臓に悪い。
「ハニーの方から手を繋いでもらおうかな。しかも、恋人繋ぎで」
「えっ」
それくらいで良いの?
というのが正直なところだ。
むしろ、ダーリンだのハニーだのよりも全然ハードルが低い。
「何だよ、『えっ』って」
「いえ、だって、そんな、全然難しくないというか」
「かもしれないけどさ。だって、マチ、じゃなかった、ハニーからって、全然ないじゃんか。何事も」
「何事も……、と言われると、確かに」
「そりゃ、そういうのを『ペナルティ』にするのもどうかとは思うけど。そうでもしたら、やってくれるんじゃないかな、って思って」
そう言うと、白南風さんは、ちょっと寂しそうな顔をした。でも確かに、何事も『私から』というのはない。手を繋ぐのも当然そうだし、電話やメッセージなんかも、全て彼からだ。
「あの、ごめんなさい」
「んあ、何が?」
「私、何もしなくて」
「え? 何もしてないの? いま一緒に歩いてくれてんじゃん」
「あ――、歩いてるだけじゃないですか。あの、もっと私から、その、なんか色々、すれば良かったですね」
申し訳なさで、涙が出そうになる。こんなに涙腺が弱いのは、きっとアルコールのせいだとは思うけど。
どうしよう。
ここで泣いたらまた気を遣わせてしまう。
名前で呼ぶことも出来ず、連絡をする、手を繋ぐなんて簡単なことすら相手に委ねてしまっている。私なんて、本当に無駄に年を重ねて来ただけだ。情けない。
そう思って俯くと、繋いだ手にきゅっと力が込められた。
「ごめんて」
「え」
「マチコさんにそんな顔させたいわけじゃなくて。マジでさ」
罰ゲーム感のある、ぎこちなかった『ハニー呼び』を止め、白南風さんが私の顔を覗き込む。
「俺は、マチコさんからだったら、どんな時間に連絡が来たって嬉しいんだけど。どうしても忙しい時はすぐに返せないけど、そんなことでマチコさんは怒ったりしないだろ?」
「それは……もちろん」
「ていうかそもそも、そんな非常識な時間帯に送るなんてこともしないだろうし」
「それは、はい、そうです」
「それにもし、マチコさんが手を伸ばしてきたとしたら、俺はどんな時だって掴むし。誰の前だって、教授の前だって堂々と繋ぐ。振り払ったりしない。絶対に」
「いやいやいやいや! 私が気にします、さすがに」
「そ? 良いのに。だからつまりさ」
ぐい、と手を引かれ、建物の陰に誘導される。クリスマスのイルミネーションがなくなっても、駅前は賑やかだ。行き交う人は程度の差こそあれ、皆、ほんのりと酔っていたりして、いつもより陽気に騒がしい。
新年を迎える前の、ちょっと浮足立った空気の中、私と白南風さんの周りだけが、時が止まったように静かだ。
「俺には遠慮しないで。安心して、俺に甘えたり、わがまま言ったりして良いから」
「ぜ、善処します」
「善処して、思いっきり」
聞き覚えのあるフレーズに、思わず吹き出す。私が笑ったのを見て、白南風さんもなんだか安堵したように息を吐いた。
「だからさ、俺も甘えさせて。俺は、マチコさんに名前で呼んでほしい」
「わかりました」
「そこは善処じゃないんだ」
「え、と。それは、はい。善処なんて悠長なこと言ってられない案件だな、と。その、私だって早く自然に『恭太さん』って呼べるようになりたいと」
思ってますし、と、その手を握り返す。すると、白南風さんが、ずるずるとその場に沈むようにしゃがみ込んだ。
「え? ちょ、白南風さん!? 大丈夫ですか?」
慌てて私も腰を落とし、視線を合わせる。片手で口元を覆っている彼は、「そっか」と短い言葉を吐いた。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっと嬉しくて力抜けた」
「はい?」
「マチコさん、案外しっかりめに俺のこと好きだね」
「へっ!? そ、そりゃ、もちろん。――ってこんなところで何を言わせるんですかぁっ!」
「ごめんて」
しゃがんだ状態で向かい合ったまま、白南風さんは楽しそうに、私はちょっと恥ずかしく思いながら、笑みを交わす。
「良いよもう。ペナルティ撤廃する。好きに呼びな。訂正しつつ気長に待つから。とりあえず、ここでこんな状態でもしゃーないし、どうする?」
「ええと、白南風さん、ご飯は」
「撤廃した途端に早速『白南風』だし」
「す、すみません。あの恭太さんは」
「軽くは食べた」
「軽くっていうと――」
「コンビニおにぎり。だって学食開いてないしさ」
「そりゃ、もう仕事納めしちゃいましたから」
だからこその忘年会なのだ。
「でしたらお腹空いてるのでは? あの、付き合いますから、どこか入りませんか?」
「その言葉を待ってた。行きたい
「それくらいなら、全然」
「よっしゃ。行こ行こ」
私の手を取り、すっくと立ちあがる。素早くこの動作に移れるのはやはり若者だ。私くらいになると、心の中で「よっこいしょ」の掛け声が必要になる。実際に声が出ることもあるけど。
白南風さんが連れて行ってくれたのは、パンケーキのお店である。正直、これって晩ご飯にカウント出来るやつだっけ? と思わなくもないのだが、白南風さんはなるらしい。彼がクリームたっぷりのふわふわパンケーキを美味しそうに食べる向かいの席で、私はみたらしパフェをつついている。
ものの見事に若い女性しかいない。付き添いらしき男性もちらほらいるけれど、皆ちょっと引き気味の笑みを浮かべてコーヒーを飲んでいる。けれどやはりお客の大半は女性グループで、キャッキャと楽しそうだ。会話の内容はそのほとんどがパンケーキに関するものだったが、その中に、「あそこにめっちゃイケメンいる」という声が混ざっていることに気付いて、落ち着かなくなる。きっと、セットで「向かいのおばさんは何」というのもあるはずだと、まだ耳がとらえていない言葉を勝手に想像したりして。
「マチコさん」
「――え、あ、はい」
「どした。なんか静かだけど。疲れた?」
「い、いえ、そんなことは!」
「無理に付き合わせちゃった?」
「そんなことはないです!」
「やっぱこの手の店って苦手だったり?」
「苦手ってわけではないんですけど、あんまり入ったことがないですね」
「まぁ、そんな気はしてた。でも、嫌いじゃないでしょ、甘いもの」
「それは、はい。むしろ好きです」
「良いなぁ」
「はい?」
突然何? 脈絡なくない? 何が「良い」の?
「マチコさんの口から『好き』って言葉出んの、良いなって思って。
「あ、あの、こういう場ではちょっと」
「ふーん。こういうトコじゃなかったら、言ってくれんだ。良いこと聞いた」
「あっ。あの」
思わず腰を浮かせると、「ままま」と笑って手を振られた。
「冗談だって。ここは笑い飛ばして良いところだから。俺、いまめっちゃ機嫌良いの。これくらい言わせてよ」
「機嫌、良いんですか」
ちょっと気まずい気持ちで腰を下ろしつつ、そう返す。確かに機嫌は良いのだろう。少なくとも、悪いようには見えない。
「良いよ。機嫌良い。っていうか、浮かれてる感じ」
「浮かれてるんですか」
「そ。当たり前じゃん。もー夢見心地よ。目の前に好きな人いるんだから」
「すっ……!」
「好きな人がいて、その人も俺が好きで、そんで、その人といま美味いもん食ってんの。最高すぎね?」
「それは、まぁ、はい」
「でしょ。だからさ、あんまし雑音とか、気にしねぇの。俺に集中して」
な? と言ってから、素早く周囲に視線を滑らせる。
やっぱり気付いてたのか。彼自身に向けられる好意的な視線と、それから、私に向けられているであろう、それとは真逆の感情に。
「サチカじゃあるまいし、突然襲い掛かったりしてこないんだから、堂々としてな。マチコさん、俺の婚約者なんだから」
「あの、さすがにサチカさんだって突然襲い掛かって来たわけではないです」
「あれ? そうなの? 俺はてっきり背後から襲撃でもされたのかと」
「むしろ真正面から来ましたよ」
ただし、「この人ご存知ですか?」っていう切り口ではあったけど。
などと、そんな話をしている時だ。
鞄の中からスマホが振動する音が聞こえて来た。取り出してみると、メッセージアプリの通知のようである。
相手は――、
「どした、マチコさん?」
弟の
「義孝からです。確認しても良いですか?」
「どうぞどうぞ」
『年末年始、こっち来る?それともアイツと過ごす?』
そんな短いメッセージだった。けれど、いつもなら、可愛らしいスタンプの一つや二つも添えられるはずなのに、それがない。やけにあっさりしすぎて、そこがちょっとだけ引っかかる。それで何となく思い出すのは、クリスマスの一件だ。あの後麻美さんと喧嘩になったりしてないかな、なんて思ったりして。
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