寝障り

@offonline

障り心地

 この記憶は夢うつつであるか、私の精神が狂気に蝕まれ記憶の中に幻を作り出したとも考えることができるが、どこにも正解という理解が転がっているわけではなかった。だが、耳栓とアイマスクで世界を隔てていたものだから、あるいは意図せずに、掛け違った異なる不可思議の気を、刹那のうちに覗いてしまったかもしれない。

 就寝の動作を始めたのは午後十一時を過ぎたころ合いだった。

 パソコンを消し、ストーブの消火の目視をして、トイレで用を足し、隙間風に後押しをされて、寒々とスマホのライトを頼りに自室に戻った。

 人肌を忘れた布団に潜り込み、電気毛布のスイッチをいれる。熱がこもるまでスマホでネット小説に耽る。

 年明け二週間が過ぎていた。

 日付を跨いで八分後。暖気が心地よく、眠気もあくびをもたらしたのでスマホを片づけて、いよいよ眠る段取りに入る。

 使い捨ての耳栓をし、アイマスクを装着した。

 右肩を敷布団に沈めた状態で横を向く。仰向けはどうにも圧迫に集中してしまい眠気がひいてしまうから、普段から横向きで眠るようにしている。

 普段通りの寝相だった。

 木造ゆえか冬は家鳴りが増す。かつて怪異と言われた悲鳴も、長年付き添えばいい加減になれたものであり、私のテリトリーであることに安堵すら覚える。

 騒音をまき散らす自動車やバイクが過ぎ去っていく。風が戸口を撫でていく。猫が喚く。鷺が物悲し気に鳴く。

 使い捨ての耳栓は思ったほどに音を遮断しない。その怠惰な仕事ぶりがほのかに私の聴覚を安らかにするのである。

 耳栓の向こう側の世界は静謐ではないが、過敏になるほどではなかった。ただ、精神に遠くの出来事であると錯覚させる。

 いつも通りの夜であった。

 どれほど寝たのか、意識がないから就寝はできていただろうと思う。

 突然の耳鳴りに意識が向いた。気づくと左肩を下にして横になっているものだから、おそらくに寝返りを打っていたのだろう。

 高音が一定の周波で鳴っている。うるさいとか、クソだとか、死ねとか、素直に悪態が湧いた。すると身体が重くなった。奇妙な金縛りだった。なにせ肩から膝までは型にはめられているかのように動かすことができないが、手足と頭はそれなりに力をこめると動くのである。

 面倒なことになったと思った。恐怖よりも、ずいぶんと眠気が勝っていたのだが、どうにも意識が落ちていく素振りすら見せない。

 元来、自分の影にすら驚いたこともあるほどに小心者の私だったが、このときはずいぶんと強気だった。ともすれば、これも夢の一環だったのかもしれない。とにかくストレスを感じていた。明日も仕事なのだ。日の出る前に出立する必要がある。早く眠って疲れを取りたい。身勝手な考えであるが、防衛本能によることもかもしれない。やはり私は、恐れを感じてはいたのだ。

 すると、右耳からずいぶんと耳心地の良い挨拶を二度立て続けに拾った。


 こんにちは、こんにちは。


 さわやかな青年の声。それは実に明朗快活な挨拶だった。

 接客に従事する、あるいは経験を得た青年だという印象を受けた。それは、相手に媚びるほどではない、むしろ無邪気さや愛嬌があった。今にして思えば、声音だけで人を豊かな心持にする好青年だというイメージを抱かせる。

 耳元で元気良く発声されていると認識できるのに、どうにも声ばかりが小さいと思った。そのくせやたらと明瞭で何を言ったのかよく分かった。

 夜に聞きたくはなかった。眠気のある中で拾いたくなかった。だが、聞いてしまったのだから仕方のないことである。

 平時であるならば、良い印象を持ったに違いない。やけに耳に残る声だった。私に対して指向性を持った声音が確かにあったのだ。

 夜は音が際立つ。聴覚は過敏になる。神経を撫でるのだ。小さい声音であったからこそ、余計と気が向いたのかもしれない。

 私は眠かったはずだ。とはいえ、眠気眼で意識が浮ついていたのかもしれない。

 こんな時間にはた迷惑なことだと不快感が湧いた。だから、ずいぶんと語気を強く、敵意をもった。私は強かった。


 うるさい、安眠させろ。


 そう言った。怒鳴る気概だった。実際、発声されたと思っている。すると、身体がとんと動くようになり、それと同じく、声が右耳から遠ざかるように聞こえた。


 ごめんなさい。


 それから、私は寝返りをうって、右肩を下に向けた。

 やけに眠かった。さきほどまで眠いのに意識が落ちてくれなかったことが嘘のようだった。とにかく無性に意識が遠のいて、気が付くと寝入っていた。目覚ましがなっていたのである。

 普段はその音に絶望し、やたらと億劫に起きる。寝たのに眠いと思って、引きずるように布団から出てくるが、その日はずいぶんとすっきりとしていた。

 夜の出来事は覚えていた。全容であるかは定かではないが、不思議な体験をしたという気持ちだった。

 朝は爽快であった。気分は悪くなかった。しかし、仕事を始めると体調が悪くなり、酷く疲れた。社会人になって初めて仕事をした時を思い出すくらいには疲労困憊だった。夜、軽食をとって風呂に入ると眠気が襲い、歯磨きに悪戦苦闘しつつも寝床に入った。

 今日はよく眠れる、これだけ疲れているのだから。

 その夜も、金縛りにあった。金縛り自体、何度となく経験している。とくに社会に身を置くようになれば回数は増したのだから、身体が一等疲れていると起こる現象だという認識だった。恐怖がわくというのならばそれは仕事の進捗によるものに他ならない。考えることを放棄しようと躍起になり、気が付くと朝ということも多い。だから疲労が抜けない前兆という印象が強く、好ましい現象ではなかった。

 うろ覚えだが、この時も別段に怖くはなかった。

 仕事に対する焦燥感があった。金縛りによって、ただひたすらに圧迫されていたことも不愉快だった。

 理不尽な現象に、憤りという興奮がそなわり、いっそう眠気を阻害していたことにたいして、語気を強めて悪態を披露することはできなかった。

 眠りたいという欲を押しのけていた。息をひそめてじっと待っていたのだ。昨晩との相違は確かにあった。しかし、金縛りは実際に再び私を覆ったのである。

 何かが私の体を挟みこみ、動けないようにしているという感触はあった。そればかりで特に物音をたてたりとかして本格的に私を馬鹿にする行為に及ぶことはなかった。

 気が付けば、目覚ましが作動する十五分前に覚醒していた。

 いつのまにか寝入っていたのだ。

 失望があった。未練があった。寝入っていたはずはない。おそらくに記憶が刻み込まれているものだと脳みそに指示を飛ばしたが、金縛りにあったことばかりだけで、それからどうなったかの一切は思い出せなかった。

 寒さを強く感じた。吐く息は白い。室内にもかかわらず冷気が芯を凍らせようとする。

 不思議なことが起こるものだと、努めて平静であろうとした。普段通りの日常をトレースすることに従事した。もちろん、いつも以上に疲れていた。それから眠る時間が迫ると緊張を引き連れて時間を合わせた。

 滑稽だと罵る私が胸の中に落ちていった。

 精神状態の変貌に私が困惑している。

 私は自己暗示に頼るほど、この体験を日中は恐ろしいと感じている。しかし夜になると思い出しこそすれど、恐怖はわいてこないのである。

 ただ、あの青年の少々張った若々しい声を遠くに思い出す。確かに体験したのだと思えば、実のところ記憶の改ざんではないかと疑い、美化はしたのかもしれないと自信を無くす。けれども、声は確かであったと主張したい。

 どうにもこうにも、かの声は、美しいものであったのだ。青年は確かに、私に対して声を向けたのである。あれは本当に違いない。

 好青年は何ゆえに私だったのか。選んでくれたのか、はたまた偶然なのか。どうして私は彼をふったのか。あの強気な私は本当に私だったのであろうか。

 思い出すたびに苦しい気持ちになる。声音は、今、誰かの耳元でささやかれているのではないか。それは誰かのものになったりしないのだろうか。流浪の民のようにただいたずらに人の心を惑わせるだけですむのだろうか。

 あの声をきけば、誰でもが心に支障をきたし、焦がれてしまいそうだという自信がある。あれは、本当に良い声だった。音ではないのだ。人から発声されたという行為がやたらと価値を高めているに違いない。不可思議な事象が、その希少性を極め、耳元で起こったからこそ、承認欲求と自尊心を愛撫したのだ。

 あの声をどうしたって、もったいないと思うのである。

 もう聞くことができないのか。どうにもならないのか。そればかりを寝床に潜れば考えてしまうのである。

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