第10話 愛の所在

「いよいよ明日だね」

 

 ――アキラくんに会いに行く前夜。

 ボクは惰性でオンパちゃんの部屋にいた。

 

 ボクとナナミが住むアパートから数十分のところ、ボクの夜間アルバイト先からもそう遠くない場所にオンパちゃんは1人で住んでいる。

 ちょうどボクがシャワーから上がると、すでに入浴を済ませたオンパちゃんがベットの上に座り下着姿でボクを待ち受けていた。

 

 シースールのキャミソールから繊細な刺繍が施された黒い下着が透けて目に映る。


「アッキー、喜ぶね」

 どうしても下着や胸に流れてしまう視線を、顔へと持ち上げた。

 オンパちゃんはまるで自分のことのように、満面の笑みでベットから降りてくる。上機嫌のままペタペタとボクの前まで来て体の後ろに手を回したかと思うと、胸に頬を擦り寄せ背伸びをしてボクの唇に軽くキスをした。

「――私も明日、休みをとったの。だから今日は好きなだけ抱いていいよ」

 大人びた内容とは裏腹に、親に駆け寄りヒソヒソ話をする子どものようないじらしさ。

 

 オンパちゃんは、不思議な人だ。

 ボクより4つ年上で社会人歴も長くて成人もしているのに、年下なんじゃないかと思わせるようなあどけなさを持ち合わせている。

 子どもが大人の皮を被っているような、純粋さと危うさがあった。


「……わかった」

 

 ボクは、『ほっとけない』人に弱いのかな。

 オンパちゃんに誘われるがまま腰を引き寄せ、唇で唇をむ。

 包み込むなんていう生優しい加減じゃなくて、横暴にボクのペースに引き入れるように食らう。

「んっ」

 快感にふらつく彼女をベット際まで追いやり、流れるように押し倒した。


 *


 一連の行為を終えた後、ボクらはベットに並んで横になっていた。

 何も考えず、ぼんやりと部屋を薄暗く照らすシーリングライトを見つめる。

 ――ボクらが体だけ繋がる関係になったのは、いつからだったっけ。

 実を言うとよく覚えていないし、思い出したくもない。

 

 きっかけは、忘れたくなるぐらい鮮烈で唐突だった。

 長い旅が終わった後、旅をする前みたいに話を聞いてほしいとオンパちゃんの部屋に招かれて……。

 

 部屋の中で男女二人、意図せず目が合ってから徐々におかしくなる。

 

 飲み物に口をつける柔らかそうな唇。

 ニットの上からでもわかる胸のふくらみ。

 

 普段意識しないところに意識が集中して、目が離せなくなる。

 それから意図的に視線が交わると、オンパちゃんは細く白い指をボクの胸に伸ばし、正面からもたれかかった。

 肩が擦れ合う、手が重なる――そんなささやかなボディタッチから感覚が麻痺して、最終的には他人には触らせないようなデリケートな部位まで互いに確かめ合っていた。

 取り返しがつかなくなるとはわかっていたけど、抗えなかった。――アキラくんやナナミへのどうしようもない嫉妬もその間は綺麗さっぱり忘れられて、しかも気持ち良くて……。

 それからその感覚が忘れられなくて、素肌の繋がりは彼女の部屋を訪れる度、今も繰り返され常習化している。

 

 ボクらの関係を的確に表現するならば、荻原さんの言うとおり低俗な単語で示されて終わりなんだろう。

 ボクらは互いの気持ちを確認する前に一時的な快楽に負けて溺れて、虚無の岸辺に流れ着いてしまった。

 

 旅に出る前はこんな不純な関係じゃなかった、大切な友達だったんだ。2人きりでいてもそんな気なんて起こらなかったのに。

 オンパちゃんがボクをとして見るようになってしまったように、ボクもオンパちゃんを性衝動を消費するとしてしか扱うことしかできなくなっていた。

 そうしてボクはなりたくもない大人になり、それを恨むようにオンパちゃんに冷めた態度で接するようになった。

 

 行為を終える度に苛まれる、純真な自分からかけ離れていく嫌悪。受け入れられずどれだけ吐いても走っても体を洗ってもまとわりついて消えなかった。

 

 そしてまた次の日には現実を逃避させてくれる快楽を求め、体を貪る自分がいる。

 

 汚い、嫌いだ。

 

 一途にキラキラと輝くアキラくんとナナミの愛に満ちた関係と比べてしまうとより一層、光の強さに身を焼かれるようだった。

 帽子を好んで被るようになったのも、光を疎ましく思い、理想からかけ離れていく自分の醜悪さを少しでも隠したいと思ったからだ。


「……ねぇ、3年間アキラくんと2人きりの間、一度も手を出さなかったの?」

 天井を仰いだまま、浅ましい考えを口走る。

 旅から帰るなりボクに手を出したオンパちゃんだ。アキラくんの家庭教師もしていたというし、不純な行為も一度や二度はあったんじゃないかと想像してしまう。

 アキラくんに会いに行くから、ボクも気分が高揚していたんだろう。枕元で微睡まどろむオンパちゃんに、容赦なくゲスな質問を投げかけていた。


「んー?」

 オンパちゃんはボクの突拍子もない問いに、目をまたたかせる。

「どうしたの急に。そんなの一回もしてないよ? ――あ、もしかして妬いてる? かっわいいね」

「違……」

オンパちゃんがボクの頭をお姉さんぶって撫でようとしたから、手で振り払い背を向けて寝返りを打とうとした。

「ううん、嘘だ」

 だけどオンパちゃんは払われた手で今度は肩をつかむと、ボクの寝返りを阻止する。

 華奢で非力な彼女に似合わない力強さだった。

 ボクは気の迷いも乗じて今度は振り切ることができない。

 オンパちゃんはボクを向かい合わせに持ち込むと、両頬に手を添え、顔を固定して告げた。

「――それは、? 私? アキラくん?」

「え」

「もう、はっきり言いなよ。キミ、アキラくんが好きなんでしょ?」

 オンパちゃんから視線を外せない。声も出せなくなってしまった。

 それほどまでに動揺しているのは、いつも子供染みて間の抜けているようなオンパちゃんがボクがアキラくんを好きだって見抜いたのもあるけど――ってなんだ?

 オンパちゃんは、言葉を返せないボクをしたり顔で笑った。


「私はね、見た目だとアッキーの方が正直タイプ。でもそれは、慕っていた八方さんに似てるってだけ。それはアキラくんにとってすごく失礼でしょ? それに、彼を傷つけた私にそんな資格はないから」

「……は?」

 頬からオンパちゃんの手が外れる。

 解放されたボクはいてもたってもいられず半身を起こした。

「え、なに?」

 体を起こした反動で、オンパちゃんの上に掛かっていた布団がずり落ちる。

 あられもない裸体がボクの眼前にさらされた。

 だけど腹の底からから込み上げるのは、情欲を打ち消すほどの憤りだった。


「……なんで今、そんなことを言うんだよ」


 裏切り、失意、軽蔑――異性としての自尊心が踏みにじられ、悲鳴をあげようとしている。

 いや、元々ボクらの間に愛なんてない。落ち着け。ボクは感情で振り上げかかった拳に爪を食い込ませ、痛みで理性を保った。


「だって、カイトくんがそんなイジワルなことを言うから。私もお返しただけ。――でも今は…………カイトくん?」


 この理不尽な愛憎を、どこにぶつけたらいいのか。オンパちゃんの声など、ボクにはもう聞こえていなかった。

 ボクはベットから降りフローリングに散らかった自分の服を拾いあげ、順番に身につけていく。

 無言で荒々しく服を着ていくボクを見て、オンパちゃんは外していた眼鏡をかけ急いで立ちあがろうとする。

 事の深刻さを把握し始めたみたいだ。

 しかし相変わらず何が起きているかわからないといった、被害者面のひどく狼狽した顔が目の端に映ってイライラする。

「どうしたの」

「帰る」

「え、もう? 明日も休みなんだから泊まってそのまま行けば――」

「君といるのが、嫌なんだ」

 力ごなしにねじ伏せたい感情を懸命に抑え、静かに言葉で突き放す。

 

 ボクのこの程度の暴言なんて慣れているはずなのに、オンパちゃんは体と息を止めて苦しそうにボクを見つめていた。

 数秒と経たず瞳は潤み、過呼吸になって鼻をすすりながら、かろうじて噛み付いてくる。

「……待って、勘違いしてるよ。私、まだ最後まで話してない。最後まで話を聞いてよ。今は違うって」

「聞くまでもない。前々から思ってたけど、オンパちゃん、おかしいよ。言っていいこととそうじゃないことがあるだろ。ボクの2年間を踏みにじったんだ。アキラくんのことだって、聞いたのはボクだけどあまりにも不誠実で気持ち悪いよ。どうかしてる」

「なんでそんな怒ってるの? だって、だって……カイトくんは優しいから、なんでも受け入れてくれるでしょ? あの時だって嫌がらなかったし……嫌じゃないから、今でもオンパを抱いてくれるんだよね?」

 ボクは大きなため息をつく。

 オンパちゃんは思い違いをしている。この関係が歪だってのはとっくに気づいているだろうに。それとも、わかっていながらに酔っているのか。

 どちらにせよ、ちゃんと言葉にして教えてあげないとダメみたいだ。

「それは」

 ボクは今まで口に出すことをはばかっていた事実を、残酷に言葉に変えた。


「たぶん、愛じゃない。同情だよ。情はあるけど、愛じゃないと思う」


 いつかのアキラくんが指摘したように、ボクらは大切な人を奪った、傷つけたという経験をした立場上、同情しあっているだけだ。

 そして報われない恋をしているという点でも、よく似ている。

 オンパちゃんの瞳から、スッと情が消えた。

 いつもボクの前だと精神的に幼さを感じるオンパちゃんだけど、この時ばかりは年上らしい大人びた笑みと哀愁を放っていた。


「……そう。最低だね、私たち。君も……昔に比べて、拗れたね」


 その発言には、賛同せざるを得ない。

 オンパちゃんがあまりに爽やかな笑顔でいうものだから悪態をつかれている気にならなかった。

「……私は、キミが」

「聞きたくない。もう遅いよ」

 ここにきてなおも話を続けようするオンパちゃんから背を向け、外へ繋がる扉に進んでいく。


 ボクは情けなくて悔しかった。

 アキラくんへの気持ちを知りながら、ボクをたぶらかした彼女が。それ故に告白をしまい込んでしまった臆病な彼女が。

 

 そして何より――。


 彼女の好意を知りながら真摯に向き合うことを避け、穢れた責任を全て彼女のせいにしてしまう幼稚で卑怯な自分が。


「私はキミが……カイトくんが、本当に好きだったんだよ……」

 

 最初から体に身を委ねることなく、そうやって恐れず想いを伝え合っていれば、ボクらもアキラくんやナナミみたいに対等で綺麗にいられたのだろうか。


 彼女の嗚咽の混ざったか細い告白を、扉を閉める音で乱暴にかき消した。

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