第3話 移ろう者③
「見てらんねーわよ」
「え?」
――アキラくんに会いに行く、約1ヶ月前。
アパートの一室で、ナナミはおもむろに吐き捨てた。
ナナミがいつも晩ごはんを作ってくれるからボクはキッチンで皿洗いを。ナナミはキッチンにいるボクに背を向けるかたちでリビングで気ままに過ごしている……はずだった。
冊子が乱雑に置かれた音で、ボクはナナミの異変に気づく。
改めて注視したナナミは、ついさっきまで分厚い保育士の通信講座教材と向き合ってたはずなのに、今はそれを机に放置してキッチンにいるボクを
射抜かれると危機感を覚えるぐらいの気迫。
直接は言わないけど、いわゆる「ちょっと顔貸せ」ってことなんだろうな。
ボクはキリのいいところまで泡を洗い流すと、大人しく蛇口を閉め無駄な音を遮断する。
「どうしたの?」
「……」
ボクが問いかけても、ナナミは肩越しにボクを睨んだままだ。音がなくなったから、より一層空気が重くなる。迅速な対応も虚しく、余談を許さない状況に変わりはなかった。
随分苛立っている。ナナミがこんなにも全身で怒ってることを示してきたのは久々だ。物珍しさが勝って冷静になる。一体ボクは何をしてしまったんだろう。
しばし無言を貫いていたナナミは、ようやく口を開いた。
「……そのスカした態度よ。なんでアキラに会わないワケ? ずっ〜と、アタシ言ってるわよね? 誘っても毎回その日は仕事だの先輩と遊びに行くだの走りに行くだの何かと理由をつけて来ないし……流石にわざとらしいにもほどがあるわよ。見れば連絡もそっけないし」
「……それは。だって、ただでさえなかなか会えないんだから、2人の時間を大切にしてほしくて……」
刺激しない、
ナナミは、ボクが頑なにアキラくんと会わない事を不誠実だと言いたいらしいけど、それはナナミを想ってのことだとしっかり説明する。
何の偽りもない事実だから、堂々と言える。
毒が蔓延しているボクの内部事情を打ち明けるより、よっぽどいい。
だけどナナミは納得いかないような顔でスマホを手に取り、画面を指差してボクに訴えた。
「アキラが、アタシにしょっちゅう聞いてくんのよ。カイトはどうしてんの? 元気か? って。けっこー前から心配して会いたがってる。カイトだって履歴見られるんだから気づいてよ。お気遣いはありがたいけど、アタシは気にしてないし大丈夫だから。いい加減安心させてあげて」
「……でも……」
押し通せなかった。
ここまで来ると「ないと何かと不便ですから」と出所後スマホを契約しボクらに渡してくれた九条さんを恨んでしまう。九条さんごめん……とんだとばっちりだ。
ボクはナナミの真剣な態度に胸が痛む。だけどそれでもボクは渋っていた。
合わせる顔がない。体の中のわだかまりのこともあるし、余計なことをして2人の関係に水を差したくないんだ。
バツが悪くなったボクは、無意識に足先を玄関に向けていた。
「あっ、ムダよ! 今日は逃がさないから!」
ナナミはボクの動きに過敏に反応して立ち上がると、素早くドアの前に立ち逃げ道を塞ぐ。
それから流し場にいるボクの隣まで距離を詰めてきて、部屋着の短パンのポケットから何かを取り出した。
「はい! これアキラんとこに行く特急の切符! ほんとはアタシが使うつもりだったけど、今回はカイト1人でアキラに会いに行って!」
「え!? い、いいよ……悪いし……ナナミのなんだから、ナナミが使いなよ……こんな貴重な……」
「いいから受け取れ! アタシをここまでさせたのは、はっきりしないカイトのせいなんだから、しっかり責任とってよね!」
「えぇえ……? いや、ちょっと、ボクそろそろ行かないといけないから、また今度……」
「つべこべ言うな!」
「いてて、つねらないでよ」
一歩身を引くも、腕を引き寄せられて半ば強引に切符を持たされる。押しに弱いボクはナナミにこれ以上抵抗できなかった。渡された切符を呆然と見返すことしかできないボクに、ナナミはとどめとばかりに釘を刺す。
「いい? ほんとに悪いと思ってんなら、この切符を使ってアキラに会いに行くコト。それ以外の見返りは認めないし、受け取らない。いいわね?」
ナナミはボクを真っ直ぐ見ている。本気の目だった。これでボクが行かないとでも言おうものなら、手だってあげそうというか、下手したら絶縁されそうというか……とにかく、逆らえない女王様の品格にボクはひれ伏すしかなかった。
「言うまでもないと思うけど、その日はちゃんと仕事休んでよね。アー、いつも働き通しだし、ちょうどよかった! それと、アキラには自分で連絡ぐらいしてよ? もう大人なんだから、これ以上アタシが何かしなくても1人でできるわよね? ……ね?
「わかった、わかったから……腕をつねるのやめてください……」
そもそもたった1人の肉親である可愛い妹の思いを、ボクが無下にできるはずがないんだ。最初から勝敗は決していた……抗う意思はとうに失せ白旗を上げると、ナナミはようやくボクを解放してくれた。ボクはナナミに引っ張られて赤くなった皮膚をさすり、懇願する。
「でも、これからはこんなことをしないで。ナナミが稼いだお金は、ナナミのために使ってほしいんだ。……この借りは、必ず返すから」
「いいわよべつに。アタシの分まで働いてくれてんだから。あと、お兄ちゃんなんて冗談で言っただけだかんね。んじゃま、そういうことでよろしく。あ、
「彼女?」
顔を上げたナナミの辛辣な視線が、再び真正面から突き刺さる。
「仕事終わってから会いに行くんでしょ。
ナナミはボクがこれから起こす行為を見透かしたように、ウインドブレーカーを手渡す。そこでふと思い立って――ボクはささやかに微笑み返した。
「……ありがとう。ナナミも
「……な! スマホ見てんじゃない! 生意気バカイト! アンタが会いに行くこと、ぜっったいにアタシから言ってやらないんだからね!!」
「ふふ、いってきます」
ナナミに手を出される前に、ボクは温かい部屋からずらかる。
言われてばかりだったし、これぐらいからかってもバチは当たらないはず。
……でもまあ、ボクがいたら恋人らしい電話なんてできないよね。ナナミは文句を一切言わないけど、申し訳ないと思う。
経済上仕方ないとはいえ、ボクらも大人だし同じ部屋で衣食住を共にして個別の部屋がないというのは、不便なところも多々生じる。正直プライベートの限界を感じていた。
だからこうしてあえて一緒にいる時間をずらすというのも、お互い上手くやっていくためには大事なことだと思う。
これぐらいの冷やかしなら、チクリとかゆくなるぐらいで苦しくならないんだけどな……ナナミだから? 毒の構造は、複雑でよくわからない。
外は夜となると冷え、シャツ一枚じゃ肌寒い。
瞬時に上着を渡してくれたナナミの気遣いに感謝する。
ボクは夜空を仰ぐと上着のフードを深く被り、静かに職場まで走り始めた。
*
そんな
ナナミから聞いている前知識はあるものの、初めて行く場所に1人で行くワケだからアキラくんに久しぶりに会うってことよりも、アキラくんとそもそも会えるだろうかという漠然とした不安に脳内を支配される。
こんなこと言ったら今度はナナミにつねられるどころかビンタまでおまけにお見舞いされそうだけど、ボクは結局今日までアキラくんに会いに行くことを伝えられなかったんだ。
スマホはナナミに預けてきた。
もしかしたら今頃履歴を見てカンカンに怒っているかもしれない。
これはほんとにボクがとことん意気地がないのが悪い。悪いんだけど、切符をもらって会うまでの1ヶ月間、連絡を取ろうとはしたんだ。
だけど、その度何回も直前になって指が、思考が止まってしまう。息が詰まる。そして何もできないまま、今日になっていた。
どうやらボクには、アキラくんと会うことを確定づける勇気がなかったらしい。
今日は平日の金曜日。だからアキラくんの大学の講義やアルバイトの状況によっては、会えないこともあり得るだろう。でもナナミの思いに報いるためにも、会おうとした軌跡だけでも残さなければ。
ボクはアキラくんと向き合うことから逃げたツケを、これから運に賭ける。
ほどなくして乗り場にやってきたバスは、選ぶ余地があるほどの空席が点々と存在していた。
ボクは後ろの方――両者空席の2人掛けの椅子の窓側を陣取って、外に思いを馳せた。
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