第6話
※※※※※※※※
同僚に別れを告げた後、東口の傘立てを取り込み忘れていたことに気がついた。こんなことは初めてだ。やはり、再任用という形で少し気が緩んでいるのかもしれない。
高梨なら「年ですもんね」と軽口をたたきそうだが、吾妻自身それを認める気はさらさらない。
東口に出ると、東山公園から響く蝉の声が夕方最後の一仕事をしていた。吾妻は東口で再び首を傾げてしまった。お昼に干しておいた傘が見当たらないのだ。雨も降っていないのに、持って行くなんて。
ハタと蝉の声が止まった。と思えば、暗雲が立ちこめた。
ぽつり……
雨粒が吾妻の頬に落ちてきた。最近の空は読めない思っていたが、まさかこんな急転するとは。そう思いながら、吾妻が空を見上げると声を掛けられた。
「お……さん」
越智さんと聞こえた気がした。しかし、耳を疑い「傘おじさん」の「おじさん」の方かと思い直した。しかし、もう一度呼ばれた。
「おちさん」
今度ははっきりと。
少女と呼べそうな女性が立っていた。吾妻の親戚の大学生のお姉さんが来ていたような余所行きの白ラインが裾に入った鴇色のワンピース、髪は編み込みにして丁寧に結われていた。そして、その手には大切に番傘が
「越智……ですか?」
尋ね返した言葉に少女はにっこり笑って傘を差し出す。
「ありがとうございました。やっと返しに来れました」
一つぽつりと。しかし、雨はそれ以上降ってこなかった。吾妻は差し出された傘に手を伸ばし、受け取ると、少女がその微笑みを空に向けた。
「――――待ち遠しいですね」
「……」
「……あずまさん」
知った声。高梨だ。
「何してるんスか? ぼんやりして」
「あ……あぁ。高梨か。忘れ物か?」
蝉の声がわんわんと東口にも降り注いでいる。空は晴れ。私服に着替えて吾妻から見ればチャラ男感が増している高梨。お洒落パーマに桜色のシャツ、濃紺のスラックス。
「あ……昭和三十九年八月十三日」
事故のあったその日。
オリンピックの年のお盆の入りに貸した番傘がまだ返ってこないんだけど、あの子ちゃんと家に帰れたのかな……。
越智さんの言葉が脳裏に響いた。若い吾妻が「番傘ですか?」と今の高梨のように軽く時代遅れを指摘した時の言葉だ。
「帰ってきましたよ……ちゃんと東京オリンピックの年に」
吾妻は空に言葉を向けた。
「うっわ。吾妻さん独り言? もう、どうしたんスか? てか、オリンピック延期ですよね」
「あぁ。待ち遠しいな。おい、ちゃんと手ぇ合わせてきたのか?」
訝しげな表情を浮かべていたと思ったら、後ろめたい表情を見せる。そんな高梨に吾妻は一睨みした。
「え、あ、その傘ちゃんと乾いたんですね」
オリンピックの空、白黒テレビを前にしてもカラーの記憶が残る開会式の空。青い空に白い五輪が浮かんだ日。
楽しみにしていたのだろう。
越智に代わり、来年は何か関連グッズでもお供えしておきますね。
「ちゃんと手、合わせとけよ」
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