第5話
※※※※※※※※
さすがに吾妻も驚いた。まさか高梨がこの梅ヶ谷沿線で起きた事故を知らなかったとは。
「いや、だって、吾妻さんは生き字引きだし。ねぇ、
上がりが一緒だった枚方は制服を脱ぎながらいきなり声を掛けられて「はぁ?」という声を上げた。
「あのさ、お前。吾妻さんは大先輩だぞ」
「知ってますよぅ」
知ってて馬鹿にしているのなら、より質が悪い。そう思うのはもちろん吾妻だけではなく、枚方も同じようだった。
「吾妻さん、すみません。ちゃんと指導しておきますから」
駅員帽をロッカーに掛けて私服に着替え終わった枚方が頭を下げていた。
「あ、それよりもちゃんと手を合わせて帰れよ」
吾妻が言うのは駅員室にある神棚のことだ。社の方針で各駅に神棚があり、乗客乗務員の無事な帰路を願うように設置されてあるのだ。そして、今日はその無事がなされなかった日。
雨による落石に気付いた運転士がブレーキをかけたが、車輪がスリップ横転。たくさんの負傷者をだし、死者が一名出てしまった。年若い女の子だったそうだ。
「分かってますよ」
枚方は悟りの域に入ったような微笑みを見せて、ロッカー室から出て行った。彼が出て行くのを確かめた高梨がクスクス笑いながら音量を下げた声で軽口を叩いた。
「枚方先輩、お化けが怖いから絶対ちゃんと祈ります。だから、吾妻さんが心配しなくても大丈夫っスよ」
まぁ、私だって越智さんの昔語りがなかったら覚えていないのだろうけどな。
吾妻はそう思いながら先のお返しとばかりに高梨の背中に軽く張り手を食らわした。
「あんまり先輩を馬鹿にするな。バカ」
※※※※※※※※
駅舎に連絡が入ったのは夜だった。山手の方から雨が降り始めていたということが影響したのだろう。帰宅時間で車両にはまだたくさんの人が乗っていた。
ホームから見上げた空は既に暗い。『梅ヶ谷』と書かれた板を照らす蛍光灯に照らされた大粒の雨が光って見えた。そして、祈った。大きな事故になっていませんようにと。
一応、国鉄と市バスに振り替え輸送を依頼したから、下りのお客さんは一時間ほど前に全員いなくなっている。そして、終点であるここに上りのお客さんはいない。だから、静まりかえったホームに既に人はいない。
それなのに、背後で土を踏む音が聞こえた。
振り返ると雨に滲む景色にまだ少女と呼べそうな女性が立っていた。いつからいたのだろうか。脱線事故のせいで列車は一向に戻ってきていないというのに。改札をくぐった人も見かけなかったというのに。
「どうされました?」
蛍光灯に照らされた少女の顔は雨も相まってより青白く浮き出るようだ。
「雨で……帰れ……ません。列車も……きません」
「……そう、ですね。急に降ってきましたものね。列車も事故があったから当分来ないと思います」
私は少女を見て「お急ぎのところ申し訳ありません」と頭を下げていた。
「傘……忘れて」
「傘……あぁ、傘なら……ちょっと待っててください」
私は東口の傘をすぐに思い出し、急いで階段を上り、改札を飛び出した。
中央改札口を右へと折れ、東口出口へと到着すると、今時、毛嫌いされただろう番傘だけが一本残っていた。
残り少ない番傘のそれは一番に思い入れのある一本だった。
不安な表情を浮かべていた少女を思い出しながら、ホームに戻りつつ私は不安を感じていた。
しかし、その『不安』はごちゃ混ぜの感情からできあがっているようで、いなくなってても不安で、いても不安という不思議な状態だった。番傘を抱えた私がホームに立った時、果たして、彼女はそこにいた。
ゆらゆらと揺れる蜃気楼のような儚さを持って、彼女が私に気がついた。
「すみません、遅くなってしまって。あと、こんなものしか残ってなくて……」
しかし、彼女は静かに頭を下げて「ありがとうございます」と囁いた。それから、細い腕でその傘を
しばらくその消えてしまいそうな小さな背中をぼんやりと見つめていた。
「あ、返すのはいつでも良いんでね。臨時のバスか国鉄の方で振り替え輸送してますから」
その声が届いたのかどうかは分からない。声を掛けた時はもう彼女の姿は闇の中に消えていた。
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