第3話

※※※※※※※※



「吾妻さーん、ちょっと来てください」

 吾妻が駅員室の留守番をしていたら、急に高梨に呼び出された。連れ出された場所は東口だ。

「ほら、これ」


 高梨の指さす向こうには雨に濡れた番傘が畳まれてあった。

「これ、吾妻さんのです?」

 バカ言うなよ。番傘なんて一体いつの人間が差すっていうんだ?

「いや」

 吾妻が否定すると今度はどんどんと背中をたたかれる。

「なんすか、この傘。お化けっスか?」

「お化けな分けないだろう? 番傘って言ってな……」

 番傘と効いても全くピンときていない表情で、高梨がもう一度「やっぱお化けっスかぁ」と繰り返していた。

 吾妻は肩でため息をついて高梨の教育係の枚方ひらかたを思い、ご愁傷様と心で呟いた。


 そして、番傘と言えば吾妻にとっては越智さんと結びつくものになる。

 越智さんは年齢で言えば三十歳ほど上の先輩で、六年前、鬼籍に入った大往生の大先輩だ。吾妻が新人で梅ヶ谷駅に配属された時の今で言う教育係のような先輩。この傘立ても越智さんの影響だった。雨の日に困っていたご婦人に番傘を貸してあげたことをきっかけにして、それ以降は雨の日は必ず傘を用意するようになったと、聞いたことがある。

 越智さんが定年までここで続けた仕事であり、吾妻が退職の数年前から始めて、今に至る。傘立てを置いていなかった時期が長くあったため、当時のことを知るお客さんはいないだろうが、いまでも喜んでくれる人も多い。


「東口はこの辺りの人にとっての玄関口だからな。ご近所の方がきっちりと返してくれることが多い」


 越智さんが教えてくれた大切なことの一つだったが、まだ若かった吾妻には全く分からなかった。吾妻はその濡れている番傘を手に取り、広げてみた。藤色和傘に太陽が柔らかく差し込んでくる。


「あ、あ吾妻さん。呪われますよっ」

 慌てた高梨を軽く睨み返した吾妻が言った。

「バカ。乾かしてやらないとダメになってしまうだろう?」


 傘は古いものだが、丁寧に使われているようで傷みなどはみられなかった。



 ※※※※※※※※



 私、急行列車にでも乗ってしまったのかしら。

 まぁ、遅くなってしまったら、もうどう足掻こうと同じなのだけど。やっぱり、雨の暗闇を歩くとなると心細い。駅舎で電話を貸してくれると良いのだけど。

 母なら迎えに来てくれるかもしれない。わずかな期待を胸に、視線を窓の外へ向けた。

 ずいぶんと町の方へやってきたみたい。


 あ。


 遠くに見えた駅らしき白い光にやっと安堵のため息をついた。



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