第2話
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蒸しっとした夏の空。今にも雨が降りそうな重さで湿度を保ち、そのまま太陽がその湿度を蒸発させてしまったような気だるい空気が東口にもまとわりついていた。
定年を迎えた
「夏も終わりかぁ」
独りごちた吾妻の耳には蝉の声がまだわんわん響いてくる。しかし、それもお盆を過ぎた辺りからぴたっと鳴き止んでしまうのだ。意外と蝉はお盆までお経を唱え続けている坊さんなのかもしれないな。
吾妻はそんなことを頭に浮かべ、お盆の入に入った今日を思う。
去年定年退職をしたのだが、減給でよければと人事の奴に声を掛けてもらった吾妻は、再任用で梅ヶ谷駅での配属を続けてもらえることになった。業務も今までと違い、駅員室の留守番に勝手なボランティアである傘貸し出しだけだ。おそらく会社としてはこの留守番業務に重きを置いていて、知識はあるが低賃金で動かせる人材と吾妻がぴったりだったのだろう。しかし、吾妻としては傘立て業務に重きを置いていた。それは、人事の奴も今の駅長も苦笑いで承諾してくれている事項であり、吾妻も留守番業務に穴を開ける気はない。
その上、今や陰でいや、むしろ表向きにも「傘のおじさん」と呼ばれているのだ。もちろん親しみを込めての渾名であり、馬鹿にしての渾名でもある。なんといっても、吾妻は毎朝ここに傘立てを出して、勤務終わりにここの傘立てをしまうということをしているのだ。若い奴らにとってはおそらく面倒なオヤジなのだろう。
しかし、雨の日に傘を忘れてしまった人たちは安心した表情を浮かべながらその傘を取っていく。そして、次の朝、返してくれるのだ。
「さて」
腰に手をやり、柄の部分のアルコール消毒もしっかり終えて、傘立ての準備を終えた吾妻の頭が思い出に浸りそうになった時、声を掛けられた。
「おはようございます」
以前は俯いてこの東口を潜っていくお嬢さんだったが、今では毎日にっこり笑顔を向けてくれる。彼女にとってはおそらく親しみを込めての「傘出しおじさん」だ。彼女は一度「いつもありがとうございます」と恥ずかしそうに手作りのパウンドケーキを持ってきてくれた、優しいお嬢さんだ。会社で色々あるだろうけど、元気に挨拶してくれるということは、頑張っている証拠だろう。
※※※※※※※※
列車の中は静かだった。他に乗客はいないのだろうか。世間はお盆休みに入ったというのにと、不安になって連結部分の向こうに視線を投げていた。だけど、蛇腹が揺れるガラス二つ分の扉の向こうは雨のせいで濁って見えない。
遅くなってしまったらお父さんに怒られるのだろうな……。家に入れてくれるのかしら?
お盆なのに帰るのが遅いとどやされるのかしら。だから、仕事なんてするなって言われるのかしら。
特に資産家というわけではない。前庭があったり垣根があったりする家でもない。ガラガラと音の鳴る磨りガラスの扉を開けばすぐ玄関。オリンピック前景気に乗っかって少し羽振りが良くなったくらい。だから、私は何不自由なく学校へと通い、働きたい思いを募らせ始め、たくさん勉強をして行員になった。
働き始めてみれば、父母共に私を認めてくれると思ったから。
しかし、実際は……。大切にされていると考えれば良いのか、世間体を気にしているのか、父母共に私が行員を続けていることに不満しかないようだ。
いつもよりも明るい列車の照明を仰ぎ見て、大きく息を吐き出した。
誰もいない車両。まだ駅に着きそうにはない。
大きく伸びをしてみれば、地味な色のロングスカートから白い自分の脛が伸びてきた。
職場では短いスカートのコンパニオンみたいな格好なのだが、父母の言葉が頭に過ぎってしまう弱虫なのだ。
Aラインのワンピースに可愛いハイヒール。町に歩くみんなみたいな。窓口に来る着物の奥様のご令嬢みたいな……。
あんな格好出来る家庭に生まれたかったな。
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