第16話 猿手目家の闇、猿手目快晴

 一年の間行方不明とされていた香元華然が見つかった朗報は大々的に取り上げられ、新聞の一面をも飾る騒ぎとなった。



 香元華然の救出から二週間が過ぎた。無事手術も成功したと香元吉成から告げられたときは本当に良かったと、確執の深かった両家が素直に口にして互いに喜び合った。



 まだ意識の戻らぬ華然の見舞いを毎日欠かさず香元家総出で行っているようで、今日は私も同行させてもらうことになっている。



 椿が見舞いの花とフルーツを持ち、二人並んで猿手目家の大門の前に立っていると、吾妻さんが運転する車が減速して停車した。そのまま詰めた車内の窮屈さを耐えながら病院を訪れ、病室の前に立つ二人の警察官に労いの言葉を掛ける香元吉成の後に続き病室へ入る。白い部屋の窓は僅かに開いていて冷気が暖気を奪い去らない程度の微風が丁度良く換気している。個室のベッドにはまだ静かに目を閉じ、小さく胸元を呼吸に伴って膨らませている華奢な身体から伸びるほっそりと白い腕には点滴の管が繋がれている。



「華然、また来たぞ。いい加減眼を覚ましたらどうなんだ。私達はもう待ちくたびれたんだ……。いつまで待たせる、馬鹿娘」



 吾妻さんの口調はとても柔らかく愛おしい者へ向ける声音に変わり、「そうですよ。お嬢様、また字の練習をしましょうよ。旦那様なんてお嬢様の字を見て顔を引き攣らせていたんですから」可笑しそうに話す萩谷さんに振られ、「流石に華然、あれは酷すぎる。みっちり練習しなさい」吉成も噂に聞くかつての威圧的な父親の面をかなぐり捨て、困ったように微笑みかけている。



 この事件は多くの悲劇を生んでいる。しかしそんな多くの悲しみの中に小さな喜びと温かさを目の当たりにした私は、どこか少し寂しい、という感情が芽生えていた。



 四方木を初めとした松戸市で活動している情報屋には引き続きあの襲撃者について探ってもらってはいるが、二週間を過ぎてもまだ何一つとして情報が上がってこない。向こうも向こうで警戒しているのだろうが、その肥えた欲求をいつまで押さえ付けられるか。時間の問題だろうが、そろそろ動くような気がしてならない。



 私も何か一言渇を入れてやろうと椿から見舞いの品を受け取ってベッドに近付くと、「華然……」感嘆の呟きが吉成の口からこぼれた。



「お……、父さ……、ん」



 なんてことだ。この瞬間に香元華然が眼を覚ました。誰もが信じられないといった顔をしている。私もその光景を見て身体の動きを止めてしまった。



 直ぐに萩谷さんが病室を飛び出して医者を呼びに走り、外で看護婦に注意されている声が聞こえた。



 私がベッドへ近付くと、「この足音は、誰かな?」まだ乾いた声で呟くと、「お前の命の恩人だ」そう短く紹介すると、「この声……。ああ、そっか。確か、猿手目……、日和、さんだよね? なんとなく、覚えてるんだ」無理して話しているのだろう、「あまり喋るな。傷口に響くだろう」自然と私の声も柔らかくなっていたのが不思議だったがどうでもいい。



「慈雨。いるよね?」

「ああ。ここに」

「嬉しいなぁ。慈雨だ。また、声が聞けた」

「そうだな。ああ、本当に……、私も嬉しいよ。お前が戻ってきてくれて。ずっと、ずっとだ。この一年間、どれだけ探し回ったと思っているんだ? 本当にお前は人を振り回すのが好きな娘だよ」



 ニッコリと屈託のない純真無垢という言葉が相応しい笑顔を見せて返した。



 病室の扉を開けて医者達が入ってきて香元華然を取り囲むと、何やら脈を測ったり色々と忙しそうにしている。その間、私達は部屋の隅に寄って静観していると医者の一人が、「もう、大丈夫でしょう。まだ傷口が開く可能性もあるのでしばらくは入院しながら様子を見ますが、くれぐれも安静にさせてください。体力的にもまだ弱っているはずなので」忠告を素直に頷いて感謝の言葉を何度も吉成は口にした。



 撤退した医者達を見送り、私達もそろそろお暇しようか、とした所で、「犯人は捕まったのかな?」華然の一言が全員の動きを止めたのだ。



「なあ、香元華然。お前は犯人の声とかそういった手掛かりを知らないか?」



 私は問い、華然は顔を此方に向けて、「華然でいいんだよ。日和ちゃん」どうもそこを訂正して欲しそうな口ぶりだ。仕方ない、と私は訂正して、「華然。もう一度聞くが、犯人に繋がる手掛かりを知っていたら教えろ。今じゃなくていい。怪我が治ったらしっかりと聞かせてもらうぞ」見えぬはずの目を開いた華然は、しかし、その綺麗なブラウンの虹彩は思い出すかのように中空を見つめている。



「どうかなぁ。でも、一人は覚えてるんだ。貝塚先生だった。でも、彼は結局操られていただけの傀儡。たぶんもう用済みとして殺されていると思う。彼の役目は私を欲してただけだったみたいだし」

「ああ、そうだ」

「ビンゴ! 今回の事件は私の詩を題材に繰り返されていたんだよね。犯人は詩展を訪れた誰かじゃないかな……、いててて。私の詩はそこでしか公表されてないし」

「無理するなと言っただろうが。まあ、ついでに聞くが、お前の手紙を本郷日暮の自宅に投函したのは、犯人だな?」

「ううん。知らない人に頼んだ。犯人がそんなことしてくれるはずないもんね。だから、犯人と散歩して、彼が油断したときにてきとうな人に声を掛けて投函してもらったんだ」

「どうしてそんなやり方で上手くいくと思ったんだ。普通なら断ったり、その辺に捨てるぞ」

「でも、上手くいったでしょ。世間はそんなに悪い人ばかりじゃないんだ」



 無垢すぎる。人を信じすぎてはいまいか。凄惨な事件の内容にもまるで楽しい雑談をするような口調と声音。これは……、そうか、そういう意味だったのか。以前に吾妻さんは華然について、面白いが、同時に怖いとも評していた。それはこういうことなのだ。怖い物知らずとかそういう話では無く、香元華然にとって全てが、楽しい、ことに過ぎないのだ。



 瞬間、背中からゾクゾクと悪寒が奔り、目の前で無垢に笑いながら話す香元華然という存在が同じ人間に見えなくなっていた。確かに怖い。きっと、身内の死にも嬉々として冗談を交えながら話すことも容易にできてしまう。できてしまうというのは華然にとって適切でない。普通のことなのだ。息をするが如く。喜劇も悲劇も総じて香元華然は楽しいお話としてしか捉えられない。



 袴の下の足が震える。



 気持ちが悪い。本当に私の一つ上の歳の子なのか。どうしたらこんな禍々しくも愛らしい人間が育つ。精神を抑圧した生活と教育の結果だというなら、それは親の責任であろうが、しかし……、これは生来のものであるのだ。なぜならそれほどまでに自然過ぎるから。彼女の飾らぬ素の性質だと人間の危機管理能力がそう告げているのが分かる。



「も、もういい。私は忙しいんだ。これにて失礼させてもらう」

「猿手目日和ちゃん」



 もう私を呼び止めてくれるな。



「なんだ」

「犯人に会ったら伝えて欲しいんだ」

「なにを、だ」

「この一年、退屈しなかったよって」



 ああ……。なんで止めを刺しにくるんだコイツは。お前の目が見えていたなら周りの人間をよく見てみろ。香元吉成、吾妻慈雨、萩谷直也はなんとも言えない悲しい眼をしているぞ。実に寒々しい。実に不愉快。実に苛立たしい。私は逃げるように椿と共に病室を出た。



 廊下を歩いていると背後から、「あれが、香元華然だ」吾妻さんが申し訳なさそうな表情と声音で言った。



「あれは真っ当に異常だ。いつからだ」

「さあな。私が彼女の護衛として招かれた頃にはもうあんな感じだった」

「二度とご免だ。アイツと関わるのは」

「それが正常なんだろう。それでも私にとっては大切な存在だ。無垢なだけで害はない」

「それを本気で言っているなら、お前も大概だぞ」

「私の人生で、私を恐れずに接してくれたのは彼女だけだったからな」

「なるほど。マフィア幹部の殺し屋なんて、一般市民からしてみれば恐怖でしかないもんな」

「あの子には恐怖や嫌悪が欠如している。その分が」

「好奇心や楽しいに振られたわけか。しかし、そんな奴が家族の愛に飢えている闇を秘めていたのはおかしな話じゃないか?」

「ああ。まだ事件は終わってはいない。事件の先にもしかすると華然の闇が垣間見えるかもしれないな」

「止めてくれ、おぞましい」



 ここで吾妻さんとは別れ、厄払いも兼ねてみのり台にある喫茶店に顔を出した。



 ショーウィンドウのケーキとてきとうな紅茶を注文して席で待っていると、どうやら私の厄はここでは払えそうにないと観念しつつ、こちらに近付いてくる人物を睨み上げた。



「香元華然が救出されたそうだけど、キミのお手柄だね?」

「助けるんじゃなかった。あれは壊れている」

「そう。彼女は元より壊れているんだ。そんな彼女だからこそ、抱いた渇望の情、そう、愛情さ。それを理解したかった。知ってしまったからこそ、それを求めてしまう。愛情は彼女にとって心地の良い温かさだったのだろう」

「周囲からすれば知らぬが仏だろう、あれは」

「そう毛嫌いしてやらないでくれ。それはそうと、犯人は見つかったのかな?」

「全然だよ。情報が集まらん」

「そうかそうか。それは残念だね」

「煽っているのか、貴様は」

「そんなわけないじゃないか。早く捕まえてほしいと願っているよ。だって私達、一般市民は平和が好きなんだから。刺激は程よく、たまに起こるから娯楽として価値があるんだよ」

「お前、何か知っているな」

「さあね」



 私はある事実を告げてやった。



「お前は、誰だ」



 香元華然の情報提供を情報屋達に依頼すると同時に、コイツ、本郷日暮についての素性を調べさせていた。



 確かに本郷日暮という作家は存在している。いや、正確にはしていた。ミステリー作家として売れっ子ではないがそこそこのファンが付く程度の作家だそうだが、一年前に失踪をしている。その翌月に彼女の焼身遺体が発見されていた。しかし、その事件はどうしてか表沙汰にされず、捜査は打ち切られたとのこと。



 では、目の前にいる本郷日暮を名乗る人物はまさか亡霊ではあるまい。



 もっと早くからコイツについて調べておくべきだった。



「なるほど、その様子と口ぶりから、本物の本郷日暮が死んでいることは知っているようだ。何処から得た情報なのかな。普通の情報屋では決して手に入れられない、謂わば禁忌であるはずなのに」

「もう一度だけ問う。お前は誰だ」

「キミはお父さんの書斎を調べたことがあるかい?」

「そんなことはどうでもいい」

「調べなよ。情報は貰ってばかりではいけない。真実が、キミの知らない猿手目の闇がそこにあるから」



 本郷日暮を名乗っていた女性は立ち上がり、店を出ようと歩き出したが直ぐに足を止めて、「快晴かいせい。私の名前だよ、日和」どうしてお前はそんなに寂しそうに自分の名前を告げたのだ。去りゆく快晴を止めることはどうしてもできなかった。



 もうケーキなんてゆっくりと食べている気分ではなく、お持ち帰り用に箱詰めしてもらい、椿と並んで帰宅する。



 普段、立ち入りを禁じられている場所の一つが父の書斎だ。父亡き後は掃除で仕方なく立ち入るくらいで、決してファイルや本といった私物には手を付けないようにしていた。



 快晴は私の知らない猿手目家の闇という言葉を用いた。



 私は猿手目家に関する書物やそれらしきファイルを抜き出して読み進めていく。



 猿手目家の歴史は明治初期から。そんなことは知っている。もっと別の。神託を持って栄華を築き……、どうでもいいし、闇でも何でも無い。読み進めていき、昭和後期に猿手目さるため祐源ゆうげんが若くして当代の座につく。祐源は私の父だ。



 翌年、第一子を出産。



 名、猿手目快晴。



「なん……、だと」



 私はその年のアルバムを引っ張り出し、恐ろしいものを見た衝撃に動揺が走った。



 まだ私が産まれていない時代に両親に抱かれる赤子。



「猿手目快晴……。私には姉がいたのか。あいつが……、そうなのか」



 そんなこと一言も聞かされていない。待て、落ち着け。もう一度、猿手目の歴史書を読んでいけば直ぐに分かるはずだ。



 四年後、快晴は憑かれたような、子共とは思えない言動と行動を繰り返すようになった。だが、それも半年の経過観察で快復し、一種の精神的なものと判断されたそうだ。



 さらに翌年、快晴は誕生日に購入した熊のぬいぐるみの首を鋏で切り落とし、綿の代わりに赤い絵具を溶いた水風船を詰め込み縫合。しかし直ぐにぬいぐるみの頭部を踏みつける光景を目にした私達夫婦は、この子の行き過ぎた行動が次に生まれてくる命に影響を与えかねないと、県外の施設に預けた。



 翌年、後第二子を出産。



 名、猿手目日和。



 延々と私の成長記録が記されていき、時代は両親が亡くなる年まで読み進めた。



 八柱駅付近で私をジッと睨み付けるように此方の様子を伺っている少女を見た。私は直ぐに彼女が快晴であると直感した。だが、施設にいるはずのあの子が何故……。私は直ぐに預けた施設に連絡を入れたが、繋がらず、神託という世間を騙す情報網を使い情報を集めた結果、この年の初めに所員を初め患者が皆殺しにされる事件が発覚していた。現場を押さえた警察官と連絡を取ることが出来、行方不明者がいないか確認を取ったが、所員九名、患者十名全員が首を切られて亡くなっていたとのことだ。どうして快晴の情報が存在していないのか。私は直ぐに思い至った。快晴が施設の人達を殺害し、自分に関する情報を全て破棄してしまったのだと。きっと、私も……、いいや、妻も含めて快晴に殺されるだろう。



 せめて、日和だけは生きて欲しい。



「これが……、猿手目の闇」



 手が震える。



 私の両親と椿の両親は車の事故ではなく快晴に殺されたのだ。



 駄目だ、震えが止まらない。呼吸が乱れて自制できない。苦しい。快晴は私もきっと殺す。



 殺す。



 あの脅迫文が私の脳裏に思い起こされた。



 最期は猿手目日和で飾る。



「香元華然に近付いたのは事件の種まきだったとでも言うのか」



 華然の詩に魅了された人物に取り入って、今回の殺人事件を引き起こさせたと考えれば、香元華然が言っていた三人のうちの二人が判明したことになる。残りの一人の実行犯となる人物が誰かという話になってくるのだが、ここで行き詰まってしまっている。だが落胆も諦念もまだ早い。二人の犯人が分かっただけでも大きな進歩だ、と前向きに捉え、今後の私の行動に何ら変化はない。



 情報を集めて捕まえてしまえば良いだけのこと。



 私を狙う姉の存在諸共に。



 もうしばらく猿手目家の、猿手目快晴についての情報を集めることに専念する時間に割いておこう。

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