第15話  安息の一時と安心の温もり

 香元華然を見つけたあの場に居た全員は松戸市内の病院に搬送され、一応の検査を受けた者と緊急手術を受ける者に別れ、前者である私と妻木は香元華然がいま緊急手術をしている手術室の外のベンチに腰掛けていた。



 助かれ、と願う私の願いははたして神様に届くのだろうか。



 少しして連絡を受けた椿や四方木、香元家の人間がやってきてはベンチに横並びに座る。私の心配をする椿の眼にはやはりあの時、華然にみせた吾妻さんと同色の安堵の気持ちが宿っていて、椿の涙を袖口で拭き取ってやると、まだポロポロとあふれ出てくるので、仕方なく、後頭部を優しく撫でながらそのみっともなくも嬉しい顔を私の小さな胸に埋めさせた。



 ヒクヒクと肩をふるわせながらしゃっくりを繰り返す椿に、「私は大丈夫じゃないか」これはちょっと失言だったと口を紡ぐが、私の言葉が聞こえていなかったように香元吉成と萩本直也さんは口角を真一文字に引き伸ばして、鎮痛な面持ちでジッと床へ視線を落としている。



「それで、猿姫達を襲った輩はどういう奴だったわけ?」



 四方木が真剣な口調で聞いてくる。手にはいつの間にか手帳とペンが握られていた。こんな時に聞くな、と言ってやりたかったが、一秒でも早く犯人の情報を得たいのもまた事実。実際、四方木だって親友の妻木が殺されかけて苛立っている様子だ。



「全身黒づくめだった。さらに上から黒いコートを着ていて、拳銃を持っていた。頭は帽子を被ってわからんが、たぶん男性だな。顔はサングラスとマスクで隠れてて……、よく分からなかった」

「ありがとう、猿姫。いいや……、ありがとうございます。猿手目のご当主様」

「見つかりそうか?」

「見つけましょうよ。私達は情報屋ですから」



 これまでに見たことのない真面目な口調に、「そうだな。見つけるぞ」私も新たに気持ちを入れ替えて犯人捜索に挑むことを決意した。そうなるとやはり不満げな顔をする者がいて……、「もう、大丈夫だよ、椿。そこまで危ない事はしない」とグチャグチャに涙で歪んだ不安げな顔に微笑みかけながら頭を撫でる。



「そこまで、ってどこまでですか」

「私を信用しろ」

「信じてますけど」

「なら、もう聞いてくれるな。わかったな?」

「はい……、はい」

「良い子だな」



 また私の胸に顔を埋めさせる。



 すると次に、「猿手目日和さん」真摯な口調で先程まで地面ばかりを見続けていた香元吉成が私をジッと見ていた。



「なんでしょう」

「娘を見つけて頂き、本当にありがとうございました。これまでの猿手目家を貶める侮蔑の数々、どうかお許し願いたい」



 急に立ち上がったプライドの固まりであるはずの香元家当主が深々と頭を下げ、彼に倣うように萩本さんも立ち上がって同じ角度で頭を下げた。



「それはもう気にしていない。それより、良かったな。娘が戻ってきて。私にはもう親子と呼べる間柄はいないが、お前達はまだまだこれから親子の時間、家族の時間を埋めるように過ごせばいいだろう」

「ああ、そうだな」



 しかしまだ、香元華然が助かる保証はない。包丁の位置から心臓は外れているようではあったが、他の臓器が心配だ。直ぐ近くには肺もある。そちらを傷つけていた場合……、いや、よそうか。



 静寂の中に廊下の置くからまた一人姿を現したのは、頭に包帯を巻いた久内だった。後頭部による殴打で意識を失っていたがアイツも無事だったようで何よりだ。そんな彼の表情は不機嫌そのもので、背後からの一撃で自分が昏睡したあげくに一般市民を危険にさらしてしまった己の注意の浅はかさに苛立っているようで、私の前に立ってその不機嫌な顔で見下ろされ、何を言われるかと期待していると、「犯罪者に隙を見せた己が恥ずかしい限りだ。すまない。無事で良かった」そう言うと、一度警察署に戻ると来た道を引き返していった。



「吾妻さんは大丈夫でしょうか」

「ああ、彼女のことなら心配いらない。きっと先程の刑事のような顔で姿を見せるだろう」

「不機嫌な吾妻さん、僕怖くて苦手なんですよね」

「あいつは八つ当たりするような人間じゃない。ただ自分の中で落とし所を見つければ直ぐにいつもの鉄面皮だ」



 香元吉成と萩本さんの会話を聞くに、まあ大丈夫なのだろう、と其方も安堵した。



 このままこの場で全員こうしていても仕方ないので、私と椿は帰宅することにした。この手術も長時間になるだろうから、二人にはあまり無理をしすぎないように言い置いて病院を出る。



 ああ、私は犯人に完全に顔を見られているし、何よりあの脅迫文から私を最期に飾ろうというのだ。一体、あと何人の人間が殺されれば犯人の欲求は満たされるというのか。底知れぬ人間の欲求とは、次には前回を超える刺激を得られなければ満足できなにように出来ている。もっと過激に香元華然の詩を演出するかもしれないという、そんな危惧を抱いている。



 帰路は注意深く周囲を警戒しながら電車を乗り継いで八柱駅まで帰ってきた。



 猿手目家の門を潜った瞬間に安心感が胸に広がった。急に脱力感と疲労が同時に押し寄せ、「椿、眠い」不思議だった。私は甘える子供の様に椿の腰に両腕を回して密着していたのだ。



 ああ、怖かった。あの時本当に死んだと思った。椿の事ばかりが頭を過ぎっていたことは口にはしない。ただ静かに先程私がさせていたように、今度は椿の豊かな胸に顔を埋めさせてもらい、少し気分が落ち着くまで、そのまま意識が曖昧になってきたのは眠気が勝ったからで、庭の真ん中では寝られない、と一度、身を離して屋敷に入った。



「椿……。お願いだ。一緒に寝てくれないか?」

「ええ。いいですよ」



 二人して椿の部屋に、ベッドの上でまたもや彼女に甘えるように身を擦り寄らせ、ほぼ全身が密着している状態にようやく安堵できた。



 私は失いたくない。この安心できる場所を。



 コクリコクリとしていて、一瞬だけのつもりだった。目を開くと椿が目の前にいなかった。窓の外は暗く、急に不安が広がり、部屋を飛び出すと台所と居間の照明が付いていて、日常の光景と私の好きなカレーの匂いが胸をキュッと締めた。



「椿!」

「あ、日和お嬢様。眼を覚まされましたか。おはようございます。もうすぐご飯が出来ますよ」

「どうして私から離れたんだ! 怖かったんだぞ!」

「申し訳ありません。ですが、御夕飯の支度もしなければ、日和お嬢様はずっと外を探し回れていて空腹かと思いまして」

「む、確かにそうだが。それでも暗い部屋で一人起きたときに怖かったんだ」

「日和お嬢様」



 椿は手を止めて水道で手を洗いエプロン姿のまま私に近付いてきて、「大丈夫です。私はずっとずっと日和お嬢様のお側にいますから。いつも言ってますよね、私にとって帰る場所は日和お嬢様のお側しかないと」まるで親子だな、これは。



「今日はいつもより甘えたさんですね」

「う、うるさい! そんな気分の時もあるんだ。私はまだ十五の小娘だからな。いいんだ、それで」

「ふふ、はいはい」



 撫でられる気持ちよさに先程まで心に巣くって広がった恐怖は掻き消えていた。



「私も手伝う」



 今だけは、この僅かな時間だけは、事件のことを忘れよう。

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