第14話 香元華然の覚悟

「こ、これは……。なんてことですか」



 解読作業をしていた萩谷さんが悲痛な声をあげた。



 何かよくないことでも書いてあるのが想像できる。「な、何が書いてあるのだね」一同に緊張が走った中で一番に娘を案じる吉成が乾ききった唇を開けた。



「私の詩は人を殺してしまった。私の秘する心が生んだ惨劇の事件の責任を私は自決を持って取ります。最期にみんなに会いたかった。さようなら」



 静かに萩谷さんから紙切れを取り上げ、もう一度それをテーブルの上に置き、「本当にそんな長い文章が書かれているのですか? 見て下さい。萩谷さんが語った言葉と文字数が一致していませんよね。もう一度、確認します。本当にそう書いてあるんですね?」私の視線に臆すること無く萩谷さんは力強く、確かに頷いて返した。



「お嬢様の性格は旦那様も知っての通り、ちょっと愉快な、物事を楽しくしよう、という遊び心を持っています。どうして文字数が少ないのか、それはですね、お嬢様が複数の文字を一つに纏めてしまうからです。例えばこの一文字ですが、これだけで、私の詩は、と読むんです」



 いやいやいやいや。おかしいだろそれは。どうしてそれで私の詩は、正確には、わたしのしわ、という六文字だが、それを一文字に纏めるなんて、ああ、くそ。これじゃあ本当に普通の人間には解読できるものではないではないか。



「だからこんなにグチャグチャとしているのかね」

「はい……、旦那様。私が文字を教えたので、私の責任です」

「いや、キミは悪くない。あの子は楽しむだけで他人に読ませる気が無いのか」



 流石に呆れているようだが、事態は悠長に構えていられる状況でもないのは確かだ。香元華然は一連の事件に責任を感じて自殺をしようとしている。最期に会いたかった。これは死を目前にした彼女の切なる願い故に、本当に命を絶とうという真剣味がこの手紙からは読み取れる。私だけでなくここに集まった者全員がそう感じているはずである。いうなればこれは遺書だ。



「吾妻君は何処にいる。萩谷君、吾妻君に連絡を」

「それには及びませんよ、吉成さん。この手紙は私と吾妻さんで手に入れ、そして彼女は読んだ後に私に嘘の内容を告げてさっさと何処かへと行ってしまいましたから」

「私も華然さんの捜索に出向きます。お二人は家に居て下さい。必ず華然さんを連れて帰りますから、帰宅した際は家族の温かさで迎えるように。いいですね?」

「あ、ああ」



 小腹も空いていたのでテーブルの紅茶を行儀は良くはないが一気に飲み、包装されたビスケットを袖口に数枚忍ばせて香元家を出る前に電話を借り、信用の出来る人間数人と松戸市で活動する情報屋に提供を求める。



「ああ、それと。もしかしたらこの家に色んな人から電話が掛かってくるかもしれませんので、全部メモして内容を控えておいて下さい。私は何回か公衆電話から此方に掛けますので、その内容を伝えて下さい。宜しくお願いします」

「わかった。萩谷君、キミには悪いが電話の前で待機していてくれ」

「かしこまりました」



 そして釘を刺すように、吾妻慈雨がかつて所属していたマフィア組織の人海戦術を使わないように言い付けておく。警官殺しや香元寄江殺しをする連中を吾妻さんが信用していない様に、私もそんな連中に動かれて余計に事態が悪化することを恐れてのこと。混乱に乗じた新たな事件なんて起こされたらもう手の回しようも無いからだ。



 椿と私は香元家から一度、猿手目家へと戻り、門前で寒そうにする不審者一人と並ぶ細身の女性を見つけて、「ご苦労だったな。椿は見つかったが、次は香元華然を探すのを手伝え」二人してキョトンとした顔を見合わせ、「待ちなさいよ。どういうこと? 香元華然ってどういうこと」こいつらに一々事のあらましを説明するのも面倒だ。必要なのは情報収集と探す人員だ。



 四方木には徹底して香元華然らしき人物、もしくは昨夜に本郷日暮の自宅周囲をうろついていた人物の目撃証言等の情報収集。妻木には逐一、猿手目家に連絡を取れるように小銭をどっさりと手渡して松戸市を中心に駆け回ってもらう。



 そして椿には、と視線を向けると、「なんなりと命じてください。私は大丈夫ですよ、日和お嬢様」そう言ってくれたので、彼女には戸締まりの徹底をした後に猿手目家の居間で電話番を頼んだ。



 方々の情報は香元家に届けられ、定期的に私が舞い込んできた情報をそのまま猿手目家に伝え、さらには四方木が情報を流して走ってもらう。



 一度、私を中継させるのは私自身がより早く動けるようにとのこと。



 それぞれで解散し、八柱駅まで妻木と不本意ではあるが一緒に向かう。道中の好奇な視線なんて鬱陶しいだけで今は遮断する。



「三十分置きくらいに浪漫ちゃん家に連絡を入れるわん」

「そうしてくれ。お前の方でも何か掴んだら直ぐに猿手目家へ報告するように、いいな?」

「あーい」

「気色悪い声を上げるな、馬鹿者! 同類だと思われる。さっさと行ってしまえ、大猩々」



 弾かれたように妻木は武蔵野線へ乗り込み、新松戸を中心とした常磐線沿線の捜索へ向かった。私は新京成線沿いを担当しているので、手始めに松戸駅へと向かう。



 このことは久内にも伝えてあるので、いざという時はアイツにも足として働いて貰う。という私の期待を良い意味で裏切って、もう独自で動いている可能性の方が高いだろう。



 電車が松戸駅に停車。電車を飛び出し人の集まる西口へ。



 自殺をするならまず何処だ。責任を取るとのことだが、私の予想では誰かに見つけて貰えるような場所を選ぶはずだ。事の発端を世間に公表させるために遺体となった自分の傍に遺書を残すはずだからだ。



 しかし、目の見えぬ少女が何処へ行こうというのか。あまりの遠出はできっこない。誘拐した犯人と一緒に行動しているなら彼女の自殺を容認するだろうか。誘拐犯はほぼ確実に今回の連続猟奇事件の犯人と同一のはず。犯人の立場で考えればこれは自分の罪を被ってくれる都合の良い駒として、香元華然の自殺を推奨するかもしれない。が、同時に彼女の文章は難解であり、もしかしたら犯人にとって都合の悪い内容を書かれてしまう可能性だって否定できない。



 これは宗教的な話になるが、死後に人間を神格化させてしまうこともあるそうで、香元華然の詩を遺体装飾に取り入れるほどの熱狂的なファンが、彼女の死後、余計な暴走を企てかねない。そんなことはさせない。私が必ず香元華然を救い、犯人を捕まえてみせる。その熱意を今は行動の熱量に変換させて、人で溢れる松戸市街を駆けていく。



 時間も良い頃合いだ。コンビニ脇にあった公衆電話で香元家へ掛ける。



「猿手目日和です。誰かから情報提供はありましたか?」

「ああ、猿手目さん。一件ありました。二日前の夕方に盲人者用の杖をついた十代半ばの少女を連れた全身黒い服装の人物が新松戸辺りで見かけられていました。その少女は華然お嬢様でしょうか?」

「まだわかりません。また十五分後に掛けます」



 相手の返事も待たずに受話器を一回おき直ぐにまた耳に当て、猿手目家へ連絡を入れる。



 直ぐに椿の声が聞こえ、「私だ。二日前の夕方に香元華然らしき盲人者と全身黒い衣装の人物が新松戸で見かけられている。大猩々……、妻木から連絡を受けたら伝えてやってくれ。そっちは何か得られているか?」早口で用件を伝え、向こうからは特に無いとのことで電話を切った。



 私も新松戸辺りへ向かった方が良いだろうか。いいや、その場所を歩いていたからと行って、その地区に住んでいるとも限らない。もう少し私は私で此処らを探しつつ、新たな情報を待つべきか。



 一度、久内へ連絡を入れようと松戸東警察署へ連絡を入れるが久内は何処かへと出掛けてしまったようだ。せめてこの情報だけでも耳に入れて欲しかったが、あいつも馬鹿じゃない。無駄に動くことはまずないと信じたい。



 伝言だけを残して通話を切る。



 できれば吾妻さんとも連絡を取りたいところではあるが、彼女の行方も分からないのでは仕方在るまい。交番や巡回中の警察官を捕まえては盲人の少女について聞き回るが、どうやらここら辺では見ていないとのこと。



 一度、移動しようと私は二つの改札で足を止め、また頭に響く雑音に眉を潜めていると、「馬橋駅から新松戸駅」という音のような声を聞いた気がした。嗄れたまたあの声がノイズ混じりに聞こえる。この声のお陰で椿は見つかった。ならば、と。私は迷うことなく常磐線の切符を購入して改札を進んだ。



 下車は馬橋駅。普段来ない場所である。何もない、というほどではないが、栄えているという印象も抱かない駅周辺。大きなロータリーをグルリと回っていると背後からクラクションがけたたましく鳴らされ、背後を振り返ると減速して近寄ってくる一台の車。その車種には見覚えがあった。



「久内。お前どうして」

「それはこっちの台詞だ。猿手目家へ連絡したら、キミは新京成線沿線を探していると聞いていたが、ここは常磐線沿線だが?」

「私の勘だよ、神託だ。ちょうどいい、私も乗せろ」



 久内の返事を待たずに助手席のドアを開けて乗り込みシートベルトを締める。ゆっくりと走り出すと、「馬橋から新松戸の地域を走らせろ。そこに香元華然がいる可能性が高い」私の言葉にどうしてか疑問の声も上げずに、「わかった」市街地を探し始めている。



 警察車両というのは装備がいいな。



 私は無線機を手にして、これには流石の久内も、「おい、何をする気だ」その使用を遮ろうとするも彼の正義感はハンドルから手を離すことを良しとしないようだ。



 これは好機と見た私は適当に機械を弄っていると何処かへと繋がった。



「いいか、良く聞け。今すぐに猿手目家へ連絡を入れて、これから伝える用件をそのまま伝えるんだ」

「少女の声? 誰だお前は? どうして警察の通信回線を使用している」

「ずべこべいってないでさっさと言われた通りにしろ、さもないと犠牲者が出るぞ」



 まるで脅迫だ。ハイジャックや立てこもり犯はこういった気分なのだろうか。そんなことよりもまだ此方の要求を通さない通信相手に舌打ちをすると、横から大きな手が無線機を奪い取り、「久内だ。いま彼女に言われた通りにしろ」威圧的な声に、「く、久内刑事!? わ、わかりました。ですが」それでも不審がる相手に、「黙って言うことを聞け」聞いたことの無い圧のある声に、相手は完全に疑念やらなんやらを潰されたようで、久内からそのまま無線機を手渡された。



「猿手目家だ。いいか、良く聞け。香元華然は馬橋駅から新松戸駅の近辺にいる。それだけを伝えろ。理解したか?」

「了解です!」



 通信を切ってジロリと横目で、「お前、怖がられているのか?」ニィと笑って問いかけた。



「職務怠慢が許せないだけだ。俺達警察官は市民のためにある。人の生き死にが掛かっているというのに真面目に取り組もうとしないその姿勢を注意しているだけだ」

「お前のような奴が溢れていれば、ストーカーによる殺人事件なんて未然に防げるんだろうな」

「人命より我が身を重んじる馬鹿ばかりだ」

「同意だな」



 会話はそれまで。私はくまなく車内から香元華然らしき人物を探すも見当たらず、焦りが高じて苛立ちが募ってきていた。何処にいる香元華然。お前の馬鹿な選択のせいで此方は振り回されているんだ。死んで償うはお前ではなく、馬鹿な連続殺人鬼の方だというのに。お前が死んで誰が喜ぶか問い詰めてやる。それで納得のいかない回答をした場合には殴ってお灸を据えてやろう。いや、その役目にはもっと相応しい人がいるか。



 瞬間、だった。



 また頭にノイズが痛みを伴って発現したのは。



 今度はどんなお告げを授けてくれるというのか。私は痛みに抗いつつ意識をそのノイズに隠れる声に傾ける。ザッザ、ザザ、という虫の群れが擦れるような音の中から、「あそこのビル」ようやく拾えた確かな言葉。



「あそこだ! 止めろ、久内」



 路肩駐車した車を降りて二人見上げた廃墟と化したような雑居ビル。この中に香元華然がいる。本当にいるのか。原因不明の謎の声に従ってしまったが、これで居なければ貴重な時間を捨てたことになる。「ここでいいんだな?」久内の確認に私は無意識に首を縦に振ってしまっていた。



「行こう」



 先導する久内に続いて狭苦しいエレベーターに乗り込んだ。二階と三階には夜営業の店舗が入っているようで、私達はなにも店舗が入っていない最上階へ向かった。



 ペンキが剥げた扉が出迎え、人の気配らしきものは感じない。扉に耳をぴったりと付けた久内が懐から拳銃を取り出し、ノブをゆっくりと回したかと思うと、勢いよく扉を開け放ち、銃口を部屋の中へと向けながら突入した。



 私も続くと、がらんとした薄暗く広い空間。かつてはバーだったのか、割れたグラスがカウンター内に散乱していて、すると、カチャン、という音が間仕切りの向かい側から聞こえた。久内が後ろ手に先に行くというジェスチャーをしてきたので、私は周囲の警戒をしながら足を止めた。



 病院で見るような間仕切りのカーテンを久内が掴んで開け放つと、個室のような空間があり、「おい、しっかりしろ!」久内が片膝をついて横たわる何かに触れながら叫び声を上げた。



 急いで私も其方へ向かうと、薄暗くても分かる濡れた胸に深々と刺さったナイフの嫌らしい鈍い輝き。身長は私と同じくらいの小柄な少女が短い息をしながら薄眼を空けて定まらぬ視点を中空へと向けていた。



「猿手目日和。ここは任せる。私は救急車を呼んでくる」



 そう言うなり走り出した久内。置いて逝かれた私は軽いパニックに陥っていた。



 頼むと言われて何をすれば良いんだよ。救護経験なんてないし、傷口か? ナイフを抜けば良いのか? いや、駄目だろ普通に考えて、ナイフが刺さっているから傷口がある意味では塞がっているわけだし、ひとまず、「香元華然。お前は香元華然だな!?」名前を呼ぶことにした。



「誰……、かな。貴女……、は? 女の子?」

「私は猿手目日和だ。お前は香元華然で間違いはないな?」

「私は……、そう。香元……、華然……、だよ」



 ようやく会えたな、香元華然。お前には聞きたいことが山ほどあるんだからこんな場所で死んでくれるなよ。



「わかった。もういいから喋るな。直ぐに救急車が来るからな」

「このまま……、私、死な……、せて。駄目なんだ、生き……、てちゃ」

「喋るなと言ったぞ! 口を閉じて助かることだけを考えろ。家族に会いたいんだろうが。喋るのはこの後にいっぱい喋ってもらわなきゃならんからな」



 その見えぬはずの目が私の目を見た気がした。



 直ぐに背後から靴音がして久内が戻ってきた。



「救急隊を呼んだ。彼女がそうなのか?」

「ああ。去年から行方不明となっていた香元華然だ」

「そうか、なら……、がッ!」



 久内はガスンという音と共に前のめりに倒れた。久内の背後には全身黒づくめに身を包んだ細身の人物。その手には鉄パイプが握られていて……、それをまるで野球のバッター選手のような構えで、今まさに私の頭部へフルスイングしそうな勢いに、呆然とただこの現実を処理しきれない脳は活動を停止させる命令を全身に送ってしまっていた。



 拙い。このままでは殺される。心臓の警鐘が脳の活動再開を促すがまだ状況把握に時間が掛かるようで身体は動いてくれない。



 しかし、その人物から遠く離れた場所から、ダスン、という重い音が室内に反響し、それから少し遅れて鉄パイプが地面を跳ね転がる音。



「動くなよ。お前には聞きたいことが沢山ある」



 淡々と話すこの声は吾妻慈雨さんだった。



「わ、私達から逃げられると思わないことねん!」



 ふにゃふにゃと虚勢を張った気の抜ける口調は紛れもない妻木宗四郎。



 元マフィア幹部の殺し屋である吾妻さんはともかく、実力も定かではないがその筋骨隆々の妻木はいい圧力となるだろう。それに此処は四階。逃げ場は二人が背に塞いでいる出入り口だけだ。これは勝った。そう確信しているとその人物もコートの内側から素早く何かを取り出し、カチャリ、という音の直ぐ同時に、タン、タン、と反響させた。



 吾妻さんは咄嗟に妻木を入口付近の個室へと蹴り飛ばし、自身も発砲しつつバーカウンターへ身を滑り込ませた。この好機。空いた扉目掛けて走りながら、カウンター内の壁に飾られた酒瓶を正確に打ち続ける。流石の吾妻さんも頭上から硝子片が降り注ぐ中で応戦するのは厳しいようで、犯人が駆け抜けた場所を遅れて発砲するのが限界だったようだ。勢いよく扉が閉められ、その向かい側では何か重量のありそうな物を倒した音。ああ……、こいれは出口を塞がれたか、と呑気に考えられたのは、どうせこの後に救急隊が到着するのを知っていたからだ。



 そんなことより、「吾妻さん! ここに香元華然が胸を包丁で突いている。何とかしてくれ!」その言葉にバーカウンターからヨロヨロと足を引きずって現れた吾妻さんの様子がおかしい。右手で左脇腹を庇っていることから、「撃たれたのか!?」言葉も硬くなってしまう。



「気にするな。かすった程度だ」



 とは言う彼女の言葉もまた虚勢だとわかる。顔には髪が張り付くくらいにぐっしょりと浮かぶ汗が微かに差す外光を反射している。



「華然……」



 横たわる香元華然の傍に、まるで騎士がするように膝をつくや、そっと右手の甲でその頬へ触れた。一年という別れの時を取り戻すような慈しみの眼からは優しい粒が一つ、二つと流れ落ちて、華然の頬を濡らした。



 それはまさに名前の通り、慈しみの雨であった。

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