第12話 本郷日暮と猿手目日和
貝塚浩の自宅からは私が求める情報の一つも見つからなかったが、ただ一つ、事故ではなく他殺であることだけが収穫といったところか。
久内はこのまま現場に残って色々とやることがあるそうで、私は吾妻さんと近くのバス停から最寄り駅を使って八柱駅まで帰ってきた。
猿手目家の門前でようやく、「久内という刑事の有力候補とやらがこの家にいるのなら、そいつが帰るまで私も同行していよう」沈黙を決めていた口を開いた吾妻さんの気遣いに感謝して彼女をまた招いた。
居間から流れるテレビの音と下品で豪快な、それはもう大猩々のような笑い声が玄関まで響いていた。
ズカズカと床を踏みならしながら襖を開け放ち、「近所迷惑だろうが!」女の子座りをして紅茶をズズズと飲む姿はまるで実家でくつろぐ様を見せた妻木に一喝した。
「おかえりなさぁい」
「椿は何処だ?」
「バッキー? さっき電話が掛かってきて出掛けたわよん」
「んなっ!?」
椿宛てに電話が掛かってくることなんてまずありえない。彼女に親しい友人や親戚なんていない。
「誰からだ?」
「さぁ。でも電話の後に急いで出て行ったから急用なんじゃないかしらん」
「ふざけるなよっ!」
私の細腕が妻木のラバー製のトップスへと伸びて胸ぐらを掴むように捻った。危機感のない困惑顔を向ける妻木に一層苛立ち、「椿を守れと言っただろうがッ! お前は本物の能無しか!」噛みつかん勢いで詰めるが、「なによぅ!」妻木のその巨木のような腕が私の腕を払い除けた。
「守れって、何から守るのか言わない浪漫ちゃんがいけないんでしょおよ! 私はバッキーの交友関係とか知らないし、お友達からの呼び出しだと思ったのよ!」
「う、うるさい! もし……、もし椿の身に何かがあったら私は」
「なにがどういう意味なのよん。ね、説明して浪漫ちゃん」
冷静さを欠いて情けない姿を見せてしまった私に、「まだ未熟な子共だな、お前は」私を冷静に戻したのは吾妻さんの一言だった。
そうだ、私はまだ未熟な子共だ。
何一つ十分にできない半端で無力な小娘だ。随分と堪える一言を遠慮も無く言ってくれた吾妻さんには重ね重ねの感謝を心の中でそっと呟き、「頼む。二人とも、椿を探してくれないか。私一人では限界がある」吾妻さんと妻木に深々と頭を下げた。
「そうだ。それでいい。下げるべき時に頭は下げるものだ」
「よもっちゃんから聞いてたけど、浪漫ちゃんにとってバッキーは本当に大切な人なのねん。任せて、よもっちゃんにも声をかけましょ」
妻木は居間の電話に飛びかかり四方木へと連絡を入れている間に、「お前は狙われている立場だ。私と一緒に行動するぞ」吾妻さんが妻木の背中を一瞥してソッと告げた。
「私の中ではまだ妻木という男の疑念は晴れていない」
「久内の話を信じているのか?」
「あいつは優秀な刑事だと聞いている。全てに疑って掛からねば、油断が身を滅ぼす」
私達は二手に分かれて家を出た。もちろん、椿が無事何事もなく帰ってきた時のために置き手紙を残して。
妻木は一度、四方木の事務所がある常盤平へと向かい、私と吾妻さんは八柱駅から探し始めることにした。雑多な人混みを忙しなく顔をあらゆる方面へ向けて椿を探すが、それらしき人物は見つからない。長身を活かした吾妻さんも視線だけで周囲を見回しているようではあるが同様に成果なしのようだ。
くそ、次第にまた焦りがぶり返してくる。
途中、駅前の公衆電話で自宅に電話を掛けてみるが延々と続く呼び出し音。舌打ちをして受話器を叩き付けるように置くと、「喫茶店や飲食店を覗いてみよう。もしかしたらその人物と一緒にいるかもしれんない」私がもう限界であることを察したように先程とは打って変わって優しい口調と温かな手を肩に置いてくれた。
「椿に友人はいない。私だけなんだ……、椿には」
「それはお前のことではないのか」
「それはどういう」
「そのままの意味だ。お前が真に心を許せる存在が、あの椿という女性なんだろう。自分を見て欲しい、他人の下へ行ってしまうことを恐れている。そう、まるで自分が置いていかれるように感じて仕方が無い。違うか?」
「どうして、そんなことを」
「わかるさ。私も同じだ。今のお前は華然が行方を眩ませた時の私や香元家の人間のようだからな」
「吾妻さんもこんなに取り乱すのか?」
「私だってロボットじゃないんだ。大切な人の安否やどういう状況の中にいるのか、そればかりだった」
「どうやって自分を取り戻せた?」
「生きている。ただ……、そう思い続けることにした。わずかな希望的観測だが、ゼロではないからな。いつか、私が見つけ出してやればいい、とな」
その言葉を発した吾妻さんの鉄面皮の奥にある素顔を見た気がした。今でも彼女は香元華然を探し続けているのだろう。彼女にとってこの事件はある意味で好機。事件の中心には確かに香元華然が存在しているのだから。彼女としてもこの機会を徹底的に調査するつもりかもしれない。
私は頭を切り替える。もちろん完全に不安や心配が消えたわけではない。しかし、それらは椿捜索に専念する私にとってはただの足を引っ張る無用のものでしかないのだ。だから、吾妻さんの言ったように、きっと無事だ、という暗示を自分自身に掛けておくことにする。
仮に呼び出しを受けて長時間も猿手目家を空けるとは考えにくい。となると、電車で移動しても二駅か三駅程度の範囲内のはずだ。だが、問題となるは新京成線が走る八柱駅と武蔵野線が走る新八柱駅と二つの駅が隣接していて、範囲が広すぎるのだ。
ん……。
「………」
「どうした、大丈夫か?」
「え、何が」
「いきなり立ち止まって、心此処に在らずだったぞ。いや……、なんというか、説明するのも難しいが、意識が飛んでいるような感じだった」
私は一瞬だけ意識がフワリとして放心状態に陥っていたようだ。しかしなんだろうか、どうしてか、直感ではあるが武蔵野線という線は捨てていいような気がした。私が気になるのは新京成線だ。それも松戸方面が気になって仕方ない。
「吾妻さん。たぶん松戸方面」
「根拠はあるのか」
「わからない。なんとなくだが、そんな気がしている」
これといって情報も無く、闇雲に探すよりかは、といった判断だろう。吾妻さんもわかった、の一言だけで頷いて一緒に新京成へ乗り込んだ。
おかしく不思議なもので、私は終着駅の松戸駅ではなく、松戸新田駅で誰かに手を引かれるような感覚で下車していた。
松戸新田駅に何があるかといえば、香元家くらいだろう。
私は賢明に頭を働かせて椿が松戸新田駅を降りる理由を探したが、何一つ思い浮かばず、本当に誰かに呼び出しを受けたという線がいよいよ濃厚となってきた。だがこれもまた不思議な現象が私の中に発現していた。心配よりも安堵の気持ちがジワジワと広がっているのだ。誰かが耳元で、大丈夫だ、と絶大な信の置ける者から囁かれている気がして、吾妻さんに近くで人とゆっくり過ごせる場所はないか、と聞いてみた。
「ゆっくりと過ごせる場所……、か。」
地元民でさえ悩むくらい松戸新田駅周辺にそういった落ち着ける場所も少ないということだ。逆に考えるならば、一つでも思い浮かべばそこに絞れるということにもなる。車の往来が途切れぬ駅前の歩道の脇に並ぶ長身の女性と成人式よろしくな少女のコンビを過ぎる人間達がチラリと一度は視線を向けてくる。私は沈黙して吾妻さんを待ち、「あそこなら、もしくは」あまりいい顔をしていない吾妻さんがようやく思い至ったように歩き出し、私は彼女の後に続く。
「何か訳アリな場所というわけか」
「ああ……。あまり普通の人間は立ち寄らないが、私のような裏社会に身を置く者の憩いの場だな」
「それって、椿が怪しげな連中と会っているということになるな」
「そうとも限らない。決して一般人の立ち入りを禁じているわけではない。私達のような輩も快く受け入れてくれる店、というだけだ。当然だが店内で問題を起こせば表裏なんて関係なく通報だ」
なるほど。表だって事を起こさないが、あまり治安の良い場所というわけでもなさそうだ。しかし一体誰がどのような目的で椿をそんな店に誘ったというのか。まあ……、まだ確実にその店に居るという確証もないわけだが。私としては心配にもなる。気の弱い椿は今頃ビクビクと怯えていないか、とかな。
松戸新田駅の目の前の道を真っ直ぐ歩き、北仲町公園を目印にすぐ近くの対面する古びたスナック然とした店構えに二人して並び立つ。店の裏手は小さいが駐車場となっているようで、チラリとみれば高級車だと見て分かる新車然とした眼に悪い輝きを放つ巨車が数台並んでいる。本当にこんな場所に椿はいるのだろうか。この扉越しの未知な世界に躊躇う私を余所に吾妻さんは一歩踏み出して扉を開けた。
店内は私の予想を裏切るくらいに普通の店だった。確かに大多数の客層はカタギの人間ではないだろうと予想がつく風貌と容姿をしている。しかもほとんどが外国の人間だ。来客を告げるベルの音に久内よりも目付きの悪い悪漢共の視線に晒されてたじろぐ私は視線だけで椿を探し、奥のテーブル席にそれらしき後ろ姿を見つけた。確かに誰かと会話をしているようだ。
私の椿をこんな場所に呼び出した奴の顔を拝んでやろうという意気込みだけで、周囲の不穏な雰囲気を払い除け、あえてブーツの音を立ててズカズカと店内を闊歩していく。椿の肩越しに露わになったその素顔を見た私は足を止めていた。
本郷日暮。どうしてコイツが椿と一緒に居るのか。そもそも電話で呼び出したそうだが、一体どこから猿手目家の番号を入手したというのか。この女はただの小説家という役者であるのに、香元華然と交友を持っていた人物だ。次は椿にでも取り入ろうというのなら、主人である私が割って入らねばならない。一度止めてしまった足はどうしてか重く、しかし何よりも大切な家族の為と意気込んで一歩踏み出すと、椿と向かい合って細めて笑っていた目がチラリと此方を向き、「お迎えみたいだよ。最初から猿手目のお嬢さんにお会いできるなら、ここで待っていれば良かったかな」とぼけた素振りを見せるこの女から視線を外し、私の注意は此方を振り返って目を丸くしている椿に向けられている。
「日和お嬢様!? どうしてここへ」
「どうしてここへ、じゃないだろう。心配したんだぞ、お前が誰かに呼び出されて家を出たと知った時の私の気持ちを考えろ!」
「申し訳ありません。此方の本郷さんがどうしてもお会いしたいと言うもので」
一変させた不愉快な視線を本郷へと向け、「その、どうしてもという理由は私を納得させられるものだろうな」口調がキツくなるのは致し方ない。いまだ心穏やかにあらず。人は心配が過ぎればその時の状況によって喜びや怒りといったあらゆる感情が昂ぶるようにできているようだ。
さて、この得体の知れない作家からどのような話が聞けるのか、椿に席を詰めてもらって私が座り、本郷日暮の隣りに警戒を解かない吾妻さんが座る形となった。
「まるで尋問だね。まあ、いいさ」
なんて余計な前置きから始めた本郷は懐から一枚の折りたたまれた紙をテーブルに置いた。
「私が本当に用があったのは、猿手目日和なんだよ。キミの神託とやらが本物なら、こいつを渡そうと思ってね、椿さんはその為の餌になってもらったってわけさ」
「作家ならもっと言い例えが浮かばんものなのか」
「生憎、私はその場でポンと思いつくような出来た頭は持っていなくてね。じっくり考えるタイプなんだよ」
私がその紙へと手を伸ばそうとすると本郷はサッと手で覆い隠してしまった。
「本当にここに来たのは猿手目日和の実力だった?」
私は伸ばした手を僅かに、無意識だろう、止めていた。
猿手目家の神託。猿手目日和の情報収集能力。
自問すれば、私は神託という名目での情報屋という生業を理解しきっていない。何をしたら自分の実力なのか。父の仕事を十分に知っているわけではないが、ありとあらゆる情報網に声を掛けて集めたり、時には自分の足で探しに行っていた。しかしそれは比率させると八対二くらいのもの。
私が今回の事件でしたことといえば猿手目家が神託の家系として栄えた頃よりの情報網へ電話を掛けたくらいだ。ただ待っているだけの私は仕事をしていたのだろうか。私の実力とは一体……。
喉に言葉が突っかかってしまっている私に、「コイツの実力だ」助け船を出したのはちょうど私の目の前に座っている吾妻さんだった。彼女は真っ直ぐに私を見てそう言ったのだ。そんな彼女の横顔を覗き見る本郷日暮は、「ふぅん、そっかそっか」第三者の答えに納得したように頷いて紙を私の方へと滑らせた。
そこに書かれていた内容に私は目を見張った。
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