第11話 沈黙した情報提供者
私は何度も時計を確認していた。
十二時半を過ぎてそろそろ十三時になろうとしている。だというのに約束の時間を過ぎてもまだ貝塚さんは訪れない。なんだろうか。この胸のざわめきは。嫌な予感がする。私はいてもたってもいられず、居間の電話から貝塚さんの自宅へ電話を掛けた。
まさか約束を忘れているなんてことはありえない。
何度も鳴り続くコール音。
一分、二分、と応答がない。
諦めて受話器を置いてまたしばらく待ち続ける。テレビを観ながら時間を潰してとうとう十五時を過ぎた。
「何かあったのか……」
先程から警鐘がやかましくて落ち着きを失っている私に、「何かあったのでしょうか」椿が告げた最悪の事態が余計私を混乱させた。
「警察に連絡を入れておくべきか……」
インターフォンが鳴った。
貝塚さんだろうか。念には念を入れて椿を連れて正門まで駆けたが、その期待は裏切られた。
「どうした、血相をかいて」
長身の女性、吾妻さんが私達を見下ろして言った。
「昼に約束をしていた貝塚さんがまだいらっしゃらなくてな。電話も繋がらないので心配していたんだが」
「それはすまないな、目当ての人間では無くて」
「いや。吾妻さんも目当ての客人だ。ちょうどいい、私からも話したいことがあるんだ」
此方の雰囲気を察した吾妻さんが目付きを変えて、「わかった」重く低い声と共に周囲を警戒するように視線を巡らせてから脇戸を潜った。
椿には厨房で茶の用意をさせて吾妻さんとは書斎で対面で向き合った。例の犯行予告については椿が茶を用意して出て行ってからにしよう。その間、吾妻さんには調べてもらっていた佐伯刑事とマフィア幹部連中の会話内容を話してもらうこととする。
「佐伯についてだが、一部の幹部の犯罪行為を見逃す代わりにある人物を誘拐し、殺害してほしいと頼まれたそうだ」
「そんなことだろうとは思ってはいたが……。この証言を裏取りとして、直ぐにでも久内に連絡を入れてやるか」
「だが、これから話すことはより重大な情報だ」
まさか他にも収穫があろうとは思いもよらずに身を乗り出し、「なにかあるのか?」私も相応の覚悟を持って挑む。
「佐伯と共にある人物が訪れていたそうだ。その人物こそ、華然失踪に関わる重要人物だ」
「まさか!?」
香元華然の失踪に関わった人物がどうして警察と手を組み……、いいや、そんなことより誰だ。私は生唾を飲み、手に汗を握って構える。吾妻さんはどうやらその人物に心当たりがあるそうだ。
「貝塚浩だ」
「なんだって!?」
思わず立ち上がってしまった。何かの間違いだろう。そんなことはありえない。どうして彼が香元華然の失踪に関わっているのか。混乱を極めた私の頭は正常な思考をかなぐり捨て、妙な興奮が全身を行き渡り、口内を乾かせた。
「貝塚さんがどう関わっているというんだ」
「貝塚浩という男が在る筋の人間を使って香元家に忍び込み、誘拐したそうだ。ちょうど私がいない隙を突いた日の犯行だ!」
語気が荒くなる吾妻さんを落ち着かせると、「それをあいつ等は自分の失態が公になるのを恐れて私にまで隠していた」振り上げられた彼女の握りこぶしの行方は何処へぶつけられてしまうのか、静かに視線だけを向けていると、「すまない……。正直腹立たしいことこの上ない馬鹿げた話だ」吐き捨てて、ゆっくりと拳を下ろした。
貝塚浩の指示で誰かが香元家に忍び込んで一人の少女を攫ったというのか。あの家は私の家より防犯面で言えば優れている。屋敷内にだって香元家の人間と萩谷さんだって居たはずだ。彼等の目を盗んで犯行に及ぶなんて常識的に真っ当なやり方ではない。
「香元華然が誘拐されたのは、誰もが寝静まった夜半ということになるのか」
「ああ……。翌朝に姿が無いのを帰宅した私が気付いたからな」
「その際に戸締まりは」
「どうだろうな。既に家の者全員が起床して各々の時間を過ごしていたし、萩谷に至っては庭の手入れをしていた」
このタイミングで姿を眩ませた貝塚さん……、貝塚浩はどこかの筋から吾妻さんがこのことを知ってしまったと情報を入手したからか。もしその予想が正しいとした場合、貝塚には相当の腕利きの情報屋、もしくはそれに近しい実力者が付いていることになる。今回の事件でも情報屋の影がチラついていたが、もしかするとこの事件にも貝塚浩は関与している可能性まで浮上してきた。
椿がタイミングを見計らったように恐る恐ると茶菓子を持ってきた。キョロキョロと私と吾妻さんを交互に見やり、自分が口を挟んで良い雰囲気ではないと察して軽く会釈をして退室した。
「実は」
私は席を立ってデスクに回り込み、引き出しの中から例の手紙と写真を彼女へ見せた。
「最期を飾るのは猿手目日和、か。犯人はお前がこの事件を嗅ぎ回っていることを知っているということになる。いや、お前は貝塚浩と面識があったんだったな。彼にある程度の行動は筒抜けになっていたわけだ」
目を瞑って紅茶を啜った吾妻さんが、「どうするんだ、猿手目日和」ジロリとその鋭い視線をぶつけてきた。
「最悪の場合は自衛する手段もあるが……、正直言ってしまえば女二人のこの屋敷で心細いというのが本心だな。一応警察に相談してみるつもりだが」
「期待薄だな。警察は被害があってからでなければ動けない腰の重い組織だ。かといって、もう私の所属していた組織の人間も信用できたもんではない。どうだろうか。安全が確保できるまで香元家に身を寄せるのは、そうすれば私が守ってやれる」
「とても魅力的なお誘いだな。だが、本拠地であるこの家を留守にはしておきたくないんだ。大切な情報も収めてあるわけだしな」
「何かあってからでは取り返しが付かないことだけは頭に入れておけ」
私が狙われているのだから当然近くにいる椿にも危害が及ぶ可能性も高い。せめて椿だけでも香元家に預けてしまおうか……。いや、あいつにそんなことを提案したとしても私から決して離れないだろう。そもそも心配掛けまいとこのことを秘密にしているんだから、それでは本末転倒だ。
この問題は早期に対策を練らねばなるまい。
ウンウンと考える私に吾妻さんが、「使うか?」懐から黒い固まりを机に置いた。
それは相当使い込まれたと見て取れる拳銃だった。
「シグザウエル。少女には重いかもしれんが、抑止力くらいには役立つだろう」
興味本位から手に取って見たが、これは確かに重い。黒々と重い輝きに擦れた傷は厳かで、両手に乗せたこの殺傷兵器が人を殺めることに躊躇いのない一品であることは間違いない。
身を固めてしまった私を見て、「止めておこう。その様子じゃ抑止力にもならんな」苦笑して私の両手から軽々しくソレを拐取して懐に仕舞った。
「私に扱いきれる代物ではなさそうだ」
笑いかけようとしたら自宅チャイムが鳴った。
こんな変な時間に訪問者なんて誰だろうか。私はハッとなって吾妻さんを見た。彼女もその人物にもしかしたらの該当人物に思い至ったらしく、懐にしまった拳銃をまた抜いて、私を護衛するような位置で廊下を歩く。玄関から椿が対応に出ようとしたのを制し、正門越しの訪問者に対し、「誰だ」吾妻さんが声を掛けた。
「わたしよぉ。浪漫ちゃんの声じゃないわね。って、そうじゃなくて大変よぉ! 貝塚さんが殺されたわ!」
脇戸を思いっきり開け放つと、「ひゃん!」何かにぶつかりその巨体がおでこを摩っている。
「どういうことだ! 貝塚浩が殺されたなんて、どうして!」
「知らないわよぅ。私は約束した時間に貝塚さんの家に行ったの。ドアが開いてるからちょっとお邪魔したら、自室で亡くなっていたのぉ!」
「いいから入れ。詳しい話を聞かせろ」
全員で居間へと移り、そわそわと落ち着きのない妻木はあきらかに動揺している。こんな状態では話漏れの恐れがある。まずは落ち着かせるために、「深呼吸をしろ。そして茶を飲め」言われた通りにした妻木は深い溜息を吐いた。
「貝塚さんの家に行ったの」
「何時だ?」
「朝一」
「家の中に争った形跡は?」
「なかったわよぉ。でも机の角に血痕がべったり付いてたから、転んで頭をぶつけたのかもしれないけど、でも、あんなの絶対変よ! 普通に倒れてぶつけた程度でああはならないもの」
話を纏めると朝一で約束していた貝塚宅へ出向いた妻木は、寝室で彼が亡くなっている貝塚浩を発見した。死因は頭部を机の角にぶつけた可能性が高く、直ぐに警察へ通報し聴取を今まで受けていた。それで解放されたこいつは居ても立ってもいられずに猿手目家へと来た、という一連の流れだ。
「私は直接現場を見ていないからなんとも言えないが、貝塚浩は老人ではあったが、足に不自由は無かったように覚えているが?」
「知らないわよん! ああ、もうもう、どうしてこんなことに」
流れが好転してきたか、と思った矢先にこれだ。何から何まで思うように物事が進まない苛立ちは、まだ未熟な子共なだけに顔に出ていたようで、「落ち着け。少し後退しただけだ」それはフォローなのかなんなのか、吾妻さんが声音に変化も見せずに言った。
「お前は言ったな。直接現場は見ていないからなんとも言えない、と。ならば見てきたらどうだ」
彼女の言葉に背を押された気持ちで受話器を手に松戸東警察署へ電話を掛けた。久内を至急で呼び出してもらい、「お前の求めている情報が手に入った」初めに相手の気を引く餌を垂らし、「交換条件だ。貝塚浩の殺害現場を見せろ」続けて此方の用件を述べた。
「情報屋を使っているのは極秘だ。一般人を立ち入らせるわけにはいかなない」
「なら、なんとかしろ」
「無茶を言ってくれる……。わかった。直ぐ其方へ迎えに行く」
権限やら何でも使える物を使ってくれないと、私の方も本当に事故なのか、次に探るべき情報先もわからない。
オロオロとしている椿を連れていくわけにも行かない。しかし、私が狙われている以上は椿も危険であることは変わりない。ならば、と、コイツには役立ってもらおうじゃないか。
「おい、妻木。お前に椿の護衛を頼む。私は吾妻さんと出掛けてくる」
「え、ちょっとぉ!」
「頼むぞ」
これ以上、ウダウダと言われるのも面倒なので反論される前に吾妻さんと屋敷を出てしばらく待っていると、私達の目の前で一台の車が停車した。もちろん運転席には狐顔の久内。何も言わずに二人して車に乗り込むと、彼もまた無言で車を走らせた。
怒っているのだろうか。私の無茶な要望を叶えるために色々と私の知らぬ苦労をして、わざわざ現場を離れて迎えに来たのだ。私だったら文句の一つや二つくらい直ぐに口を出ただろう。しかし、「私の求めている情報とは何だ」至極冷静な口調で口を開いた。
「お宅の署長さんについてだ。佐伯という刑事がマフィアと結託して署長を拉致殺害したそうだ」
「そうか……。わかった」
それだけなのか。お前が求めていた情報を提供して、しかも身内も加担しているというのにその素っ気ない態度は正気かと疑ってしまう。この男は読めない。きっと刑事をしているとそういう感情が麻痺してしまうのではないか。いいや、コイツは正義に盲信している男だ。しかし、そう思えてしまえるくらいこの男は静かだった。
北松戸にある貝塚浩の自宅はごく普通の一軒家だった。しかし、その周囲を警察が行き来しているこの様こそ異常なのだ。
久内刑事に続く私と吾妻さんを鑑識やら制服警官やらがジロジロと鬱陶しい視線を寄越してくる。殺害現場に着物姿の未成年少女と高身長の無表情な女性。その正体が神託の巫女と元マフィア組織幹部だとは誰も思うまい。
玄関を抜けて一階廊下を歩いた途中の部屋の扉が開いている。ここで貝塚浩が亡くなった現場だということは床に染みついた血痕が物語っている。久内は鑑識に一言二言告げると彼等は渋々と言った調子で部屋を出て行き、私達三人だけが取り残された。
「好きに見ていいが、なるべく物には触るな」
「わかっている。吾妻さんも何か見つけたら教えてほしい」
「ああ」
早速確認するべきは貝塚浩がぶつけたという机の角だ。鋭角な角にはべったりと乾燥して茶黒く変色した血痕。机の高さは私の腰辺りというのだから転倒時にぶつけた、と考えるのが普通か。私は刑事ドラマとかそういった類いのテレビを見るわけでも人間の構造に詳しくもないから何とも判断が付かないのだが、人間、机の角に転倒の勢いだけで頭部をぶつけただけで床にここまで血痕が広がる程の怪我をするものなのか。
ウンウンと唸る私に、「何を悩んでいるんだ?」吾妻さんが私の視線の先の血痕を見て、「頭をぶつけたにしては出血量が多いな」そっちのプロの意見を頂けた。
「おい。久内と言ったか。お前はこの現場を本当に事故で進めるのか?」
「俺も鑑識もそこまで馬鹿じゃない。事件で進めるつもりだ」
「それを聞けて安心した」
吾妻さんは警察に対して不信感を抱いているのか。まあ、そんなことはどうでもいい。マフィアと刑事のお墨付きで事件と判断しているのだから、そうなのだろう。
朝一で貝塚宅を訪れた妻木より先に何者かの手によって殺害された。待て、朝一って何時だ。妻木は詳細な時間を言っていなかった。
「久内。殺害時間は何時頃だ?」
「正確な時間はこれから解剖で知れるだろうが、そうだな……、血痕の染みや変色、そういった観点から判断すると、朝五時から八時くらいだろう」
「随分と早い来客を招いたようだ」
吾妻さんがぽつりと呟き、「顔見知りの犯行が高い、と俺は既に数人の交友関係を疑っている」どうして二人は睨み合っているのか。目付きの悪い二人だからこそ、そう見えてしまうのか。
確かに見知らぬ人間をそんな早朝の時間に自宅に上げないだろう。私なら顔見知りでも追い返すだろうが……。たとえばこうは考えられないか。貝塚浩にとって不都合な情報を握っている人物。そう、貝塚にとって表沙汰に出来ない闇……、それは佐伯と結託してマフィアに警察署署長を拉致殺害の依頼をしたこと。それと、在る筋とやらに頼んで香元華然の誘拐。もう一つの可能性としては貝塚の背後に居たと仮定している存在か。
マフィアか佐伯、もしくはその在る筋の人間か情報屋の犯行が濃厚だが、私の知っている貝塚浩という顔は誰にもニコニコと物腰の柔らかい八方美人タイプだ。来客を追い返すような真似ができるとも思えない。となると久内が絞った容疑者を聞いてみた方が早いか。
「んで、誰なんだ。お前が絞った数人の交友関係、というのは」
久内は一度私を睨み付けるように見てから、一瞬だけ、悩む素振りを見せ、「私の中での最有力候補が同じ詩展の委員を務め、今回の事を警察に通報した妻木宗四郎だ」この瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「馬鹿か! あの大猩々が人を殺すわけないだろう」
私は馬鹿か。
妻木は今、猿手目家で椿と一緒に居る。あいつが犯人だった場合、私は人殺しに椿の身の安全を託したということになるじゃないか。ありえない、絶対に違う。どうして違うと言い切れる。現実を見ろ、猿手目日和。私は自分を強く叱責して現実的な考えをするよう命じた。
「電話を借りるぞ」
覚束ない足取りが呼吸を乱す。今にも卒倒してしまいそうなくらいだ。誰かが私の肩を支えた。その人物は吾妻さんだった。
「しっかりしろ。それでも当主か。焦る気持ちもわかるが、まずは呼吸を整えろ」
言われて歩きながら深呼吸を繰り返し、電話機の前にやってくる頃にはだいぶマシにはなっていた。
猿手目家へと電話を掛ける。
途切れぬコール音。次第にまたざわざわと私を苛む。
やがて、「はい、猿手目でございます」椿の声だった。
「あ、ああ、椿か。私だ」
「日和お嬢様? どうなされましたか」
「大丈夫か? 何か変な事が起きていないか?」
「え、ええ。大丈夫です。妻木様がべったりと私に張り付いていますので」
「妻木に代わってくれるか?」
受話器の向こうから椿と妻木の話し声が聞こえた。
「はぁい。浪漫ちゃんどうしたのぉ」
「お前、朝一に貝塚浩の家に行ったと言っていたよな。時間は何時だ?」
「え、そうね。確か八時半くらいかしらん」
「どうして警察へ連絡するのに三十分も掛かるんだ?」
「それは、気が動転しちゃってたのよ! なによ! まるで犯人扱いじゃない」
「別にそういう意味で聞いたわけじゃない。少し気になったからだ。お前はそのまま椿を守っていろ」
「わかったわよぅ。浪漫ちゃんはいつ帰ってくるの?」
「知らん」
電話を切ってひとまず安堵の深い深い溜息が口から漏れ出た。
「帰るか?」
淡泊な気遣わしい声に首を横に振って返した。
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