第10話 猿神の存在
喫茶ノルンで本郷日暮を捕まえて香元華然との秘密の手紙を突き付けたのだが、「私は知らないね。目の不自由な相手に文字でやりとりなんてするわけがないだろう?」嘘偽りの無さそうな表情で返されたが、コイツの胡散臭さに信じていいものか悩みどころだ。
「本当に知らないのか?」
「お嬢ちゃんが私の言葉を信じてくれるならね」
鵜呑みにしていいものか。
「私は作家だよ。創作についてのあれこれをアドバイスしたりはするよ。でもね、こんな真似は私の範囲外。根拠もないなら他を当たるんだね」
「わかった。ありがとう」
「おや、随分と素直に引くんだね」
「今の私はお前の言葉を信じる他ないからな。ああ……、これでまた振り出しだ。私はてっきりお前だと予想を付けていただけに、当てが外れて途方に迷ってる。じゃあ、コレも知らないか?」
手紙と一緒にあった木彫りの猿を見せるが、どうせ無駄な事と判断して諦めてもいる。
「猿……、ね。それはお嬢さんの方が詳しいんじゃないかい?」
「知らない、わけだ?」
「どうだかね」
なんともハッキリしない答えだ。此方は真剣に聞いているのに、まるでコイツからは真剣味を感じない。本郷でないとするならば、では、何処でこの手紙のやりとりをしたのか。もう、暴論で言えば香元家の人間の誰かが内密にその人物との仲介役となっていた、くらいしか考えられん。それくらいに私は落胆しているのだ。
「座ったら?」
本郷日暮を前にして呆然と立ち尽くしていた私は溜息をつきながら彼女と対面する形で座った。モンブランとアップルティーを注文すると、目の前のこの女がジッと観察するように不愉快な視線を向けてくるので、「なんだ、言いたいことがあるなら言葉に出せ」腕組みしてにらみ返すと、「ミステリーものだとね、犯人は主人公と既に出会っているもんだよ。それと、キミは少し素直に育ちすぎだね」ニヤリと口角を持ち上げてみせた。
「なんのことを言っている」
「ミステリー物で犯人が登場人物以外ではありえない。必ず主人公は犯人と顔合わせしているものなんだよ。そして、それを面白可笑しく仕組んでいるのは創作者である作家、さ」
「創作物と現実は同一ではない」
「さあ、どうだろうね。事件の中心は香元華然、なんだろう?」
「なぜ、それを……」
「まあ、私の想像ではこの事件は香元華然の失踪と何かしらの繋がりがある。そしてお嬢ちゃんは猿手目だ。調べたよ。なんでも神託を授ける名家らしいじゃないか。そのお嬢ちゃんが必死に香元華然について嗅ぎ回っている。失踪から時間が経ちすぎているというのに今更じゃないか。となれば、松戸市で開かれた詩展。そこに今回の事件を予言……、いや、模倣した事件が起きている。となれば簡単だ。無能な警察官が神にでも縋ったんだろう? 違うかい? 猿手目日和さん」
私は言葉を返せなかった。この女は一体何者なのだ。ただの作家だと。そんな奴がどうして猿手目家を調べ、香元華然の詩が詩展に展示されていたことを知り、警察が私を頼ってきた所まで推理できるというのか。
訝しみ、警戒を強める私に彼女は両肩を持ち上げて見せ、「種明かし、してほしいかい」勿体ぶるように言った。
「いいよ、教えてあげる。私は詩展に足を運んでいたんだ。数百ある作品の中から友人の名前をたまたま見つけてね。そう、香元華然だよ。いや、吃驚だ。乙女的作品しか書かなかった彼女がここまで化けたんだからね。アドバイスの甲斐があったというところか。そこで詩の内容を頭に叩き込んでいたんだけど、今回の事件と類似点が多すぎる。そんな中、キミが香元華然について探っているから、これは何か関係があるんだろうなぁ、とね」
ミステリー作家という生き物はこうも想像力が豊かなのか。妄想といってもいいだろう。この女の道筋に頷くのも癪だが、認めるしかあるまい、この女の推理力とやらに。
「ダメ元で聞くが、詩展に訪れた際に不審な人物や、彼女の詩を熱心に鑑賞している輩はいなかったか?」
「そうだね。熱心に鑑賞している三人はいたかな。一人は優しそうなおじいさん。それと身長の高い美人な女性。もう一人が角刈りのラバー製トップスを着たオネェな感じの人ね」
ああ……。最後の一人が誰だか分かってしまった。あいつも審査委員の一人とか言っていたし別段あの場にいても不自然ではないが、展示会の日もその格好だったのに呆れてしまう。
前二人についての情報が探れないか、もっと聞いてみたところ、優しそうなおじいさんと印象を持った人物は貝塚さんで間違いなさそうだった。彼も審査委員長という立場からあの場に居て当然の人物である。実際、彼女の詩に惚れ込んでいたそうだし、本郷日暮が見た彼もその時は心酔していたのだろう。
問題の高身長の女性というが、スーツ姿というところまでは聞き出せたがそれ以上の情報は入手出来なかった。彼女の言った、犯人は主人公と出会っている、という言葉に倣い、私を主人公とした場合、長身のスーツ姿の女性といえば四方木明美と吾妻慈雨の二名になる。
長身の女性なんて探せばいくらでもとまではいかないが、それなりに道を歩いていても出くわす。まさかその二人の内のどちらかなんてたまたまな重なりがあるはずもない。
だが、吾妻慈雨はどうだろうか。
彼女は香元華然が詩を書いていたこと、本郷日暮と喫茶店で詩についてのやりとりを知っている人物だ。もし彼女があの場に居たとして、詩展で香元華然の作品を目にした時なにを思っただろうか。きっと、こう思ったに違いない。誰が作品を応募したのだ、と。もしかすると香元華然に直接問うたかもしれない。しかし、彼女は口を割らなかっただろう。その際に割っていれば誰が応募したか私が聞いた時に答えを提示してくれているからだ。
事情があって話さなかったとも考えられるが、なんとなくだが、根拠もない私の直感ではあるけれど、吾妻慈雨という人物は香元華然をとても大切にしていた。そして彼女の行方を捜索する依頼を受けた私に隠し事なんてしないと思う。
次に考えて見たのは四方木明美だが、彼女と香元華然には一切の接点が無い。一介の情報屋と名家の令嬢が関わる機会なんてないはずだ。
今まで本郷日暮の証言の女性を吾妻慈雨として考えたが、別人だという可能性の方が高いのだ。こいつが主人公は犯人とどうのなんて言うから私の交友関係から自然と該当人物から考えてしまったに過ぎない。そもそもこの女もそれなりの身長ではないか。おまけにスーツ姿ときたものだ。
「釈然としないな……」
私はある意味でコイツに誘導された。たった一言から私は本郷日暮の掌の上で弄ばれた。私が睨み付けると勝ち誇ったように笑みを浮かべるコイツは確信犯だ。
運ばれてきたモンブランと紅茶を一口食べて気持ちを落ち着かせる。
「でも、何を確かめるか道筋は示せた。違うかい?」
「お前は苦手だ」
「色々話してあげたし、ここのお代は任せた」
伝票を押しつけてくる本郷をまた睨みつつそれを受け取り、椿が居たら窘められそうなくらい大きな口を開けてモンブランを口に押し込んだ。
コイツとはもう同じ空間に居たくないという意思表示だ。
紅茶を飲み干してそそくさと会計を済ませて店を出た。
帰宅した私は早速電話機を手にある場所へと電話を掛けた。
空いた手には名刺。
「はい。貝塚です」
やんわりとした穏やかな声が私の耳に届く。
「こんにちは、貝塚さん。猿手目です」
「ああ、ああ、日和さんですか。どうしましたか?」
「貝塚さんにお聞きしたいことがありまして。詩展が開かれた後の事です。貝塚さんは香元華然さんと何度かお会いした、と仰いましたね。その時、何か彼女から聞いていませんか? たとえば、誰かと文通をしている、とか」
しばらく沈黙が続き、「いいや。聞いていないね」記憶を手繰っているような慎重な声音。
「会っている時はどのようなお話を?」
「主に詩の話だよ。それと……、彼女の押し殺した愛への欲求、ですな」
愛への欲求……。
「そのことについてお話願えませんか?」
「ええ、ええ、構いませんよ。ですが、今は少し忙しいので、別日に改めてお会いしてお話したいのですが、どうでしょう、明日の昼頃というのは」
明日の昼に猿手目家に訪れるということで、私は受話器を置いて適当な茶菓子でも買いに行こうとした所で電話が鳴り、足を止めた。椿は厨房で夕食の仕込みをしているので手が離せない。仕方ないので玄関からまた戻って受話器を取ると、「猿手目日和か?」淡々とした、それでいて圧を感じる女性の声。
「その声は吾妻さんか。どうかしたか?」
「頼まれていただろう。佐伯という刑事とマフィア幹部の会話を」
「もう分かったのか?」
「口を割らせるのにそう手間は掛からんからな」
一体どのような手段を講じて口を割らせたのか。
そんなことより彼女の持つ情報を聞く方が何倍も優先的である。
「少し長くなる。日を改めて話そう。そうだな、明日の夕方はどうだ」
「明日の夕方だな。空けておく」
また別日か。
明日は貝塚さんとの約束もあるからもしかすると時間的に重複してしまうことも伝えた旨で、十六時に約束を取り決めた。まあ、居間でお茶を啜っていてもらおう。
茶菓子を一人分多めに購入するべく財布を改め、駅店舗のケーキ屋へと向かいモンブランを三つ購入して屋敷へ戻ろうかとした所で、「猿姫じゃない?」この嬉しくない呼び名を呼ぶ奴は四方木明美くらいだ。
「また散歩か?」
「そうそう。なぁに、お使い? 偉いわね」
「違う。客人が明日来るから茶菓子を用意するのは当然だ」
「ふぅん、誰が来るの?」
面倒臭いので詳細は省いて貝塚さんと吾妻さんが来ることを伝えた。
「そっかそっか。じゃあ、私は散歩の続きがあるから失礼するね。あ、また仕事あったら回してね、よろしく」
と言って常盤平方面へと歩いて行った彼女の背中を見送った。
帰宅して厨房を覗いてまだ仕込み作業をしている椿に、「これ、冷やしておいてくれ」ケーキを手渡すと、「あ、日和お嬢様! お手紙が届いていましたので、書斎のデスクに置いておきました」報告をしてくれた。
「誰からだ?」
「それが……、差出人も郵便局の証印も無くて」
直接持ってきたのだろうか。
書斎のデスクには一通の便箋が置かれていた。確かに差出人の名前もない。慎重に封を切って中身を取り出すと、その身が竦むような内容に、「なんだ……、これは」思わず半歩後ずさりながらも視線は手紙から離せずにいた。
最期を飾るのは猿手目日和。
手紙と一緒に数枚の写真。それらはこれまでの被害者達の無惨に装飾された姿だった。撮影場所は遺棄現場とは明らかに異なり、全てが同じ場所、室内であることだけがわかった。
これはなんとも。
「面白い真似をしてくれるな」
椿にこんなものが見つかれば卒倒しかねない。写真諸共デスクの引き出しに仕舞ってから自分が何をしようとしていたのか一瞬だけ忘れそうになり、ああ、と踵を返し、猿手目家の聖域である神託の間へと向かった。
分厚い鉄製金庫のような堅牢扉を開けると冷気が足元へ、まるで掴んで離さないような、そんな冷たさには慣れたもので、照明を付けて最奥の祭壇の前に立つ。飾られている神具を手ぬぐいで拭きながらも、ズッと観察されているような視線と目を合わせた。
猿神像。
異様に長い腕をダラリと垂らしてあぐらをかく不貞不貞しい猿の象も手に取って綺麗にしてやる。この作業は当主の役目なのでおろそかにするわけにはいかない。週に二回もこの部屋で一人寂しく掃除をしなければならないのだが、やはり私はこの部屋との相性が悪い。どうも体調が優れない。居れば居るだけ身体が重くなったように、早くこの場から去りたいという欲求が強くなっていく。
よくもこんな場所で父上は平然としていられたものだと感心してしまう。
「日和お嬢様?」
鉄扉から顔だけを出して中を窺う椿に、「ああ、大丈夫だ。もうすぐ終わる」彼女の心配気な顔を見ているのも気分的に良くない。なるべく安心させられるような笑顔を向けたつもりだが、どうだか……、今の私に人並みな表情を浮かべられただろうか。
「はい。御夕飯ももうすぐ出来ますので」
これ以上は邪魔してはいけないという彼女の配慮に助けられ、一気に顔を崩した。また一人冷たい石畳の部屋を入念に清潔に務め終え、一周グルリと見渡すと、そこは聖域というよりは私には石畳の牢獄にしか見えなかった。
さっさとこんな場所からおさらばしてしまおう。鉄扉の隙間から半身になって出ようとした瞬間だった。側頭部を金槌で殴られたような衝撃が私の足を止めてしまった。ギュッと瞼を閉じた先には巨大な腕の長い……、猿の姿。
痛みは一瞬。荒い息を吐きながら逃げるように鉄扉を閉じ、しっかりと南京錠で施錠をした。この中に潜む何者かを閉じ込めるように……。
疲れているだけだ。ちょっと最近睡眠時間が足りていないのも原因だな。この事件が解決したらゆっくりと羽を伸ばすのもいいだろう。それまでの辛抱だ。
袴を踏みつけてつんのめって転倒してしまった失態に己を恥じ、大きな物音で居間から椿が何事かという表情で駆け寄って来た。
「大丈夫だ。ちょっと袴を踏んだだけだ」
「サイズ合ってませんでしたか?」
「そんなことはない。ちょっと下がっていたんだろう」
椿に支えられながら歩く間もズッと背中に何者かの視線を感じていたのは気のせいか……。
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