第9話  同時進行

 猿手目家の門前まで送ってもらった私は吾妻さんにお茶を飲んでいかないかと勧め、彼女は少し考えるようにフロント硝子から夕陽を眺め、「そうだな。少し私も猿手目家には興味がある」と言ってエンジンを止めた。



 正門の猿絵に感心した様子で、「これが猿手目家の象徴か」私に続いて脇戸を潜った。中庭の砂利を踏む音は軽く、歴史の長い武家屋敷然とした母屋は洋館造りの香元家と比較しても遜色ない威厳を有している。



 玄関にはなぜか椿のモノとは別に二人分の靴が並べてあり、その片方が編み上げブーツであることに嫌な予感がした。



「客人か?」

「あ、ああ……、そのようだ」



 居間では四方木と妻木が茶菓子を食べながら談笑していて、二人の間では椿が愛想笑いを浮かべながら茶を啜っていた。



「日和お嬢様、お帰りなさい。ええと、其方の方は?」

「此方は香元家の護衛をしている吾妻慈雨さんだ。椿、お前どうしてそいつらを家に上げたんだ?」

「も、申し訳ありません。その……、日和お嬢様に大事な話があるというので」



 ぐいぐいと両隣のオカマに詰められて迷惑している椿を引き剥がし、「大事な話とは何だ」彼等の正面に私は吾妻さんと座り、彼女の分のお茶を淹れるように椿に命じた。



「もうもうもう、忘れちゃったのぉ? 浪漫ちゃんが私達に情報収集を依頼したんじゃない。数人の刑事についての動向を探って欲しいって」

「その件か。吾妻さん、少しつまらない話になるが」

「私は聞かなかったことにする」

「そうしていただけると助かる」



 四方木の唇が持ち上がり、「実は一人だけ不審な刑事がいたのよ」開口初めに期待させてくれる餌を投げた。



佐伯さえき秀一郎しゅういちろう。彼ね、署長さんが行方を眩ます前にあるマフィア組織の幹部連中と会っていたそうなのよ。でね、その組織って言うのが松戸市を根城にしているイタリア系マフィアで」

「なんだと!」



 これに反応したのは吾妻さんだ。



 確か吾妻さんは香元家に来る前に松戸市のマフィアに所属していたと聞く。彼女なら何か深い事情を知っているかもしれないと思ったところで、「なぜボスは警察と……、いや、幹部連中の独断か?」その言葉から彼女が所属していた組織だと察せられる。



「署長が行方を眩ませる一週間前のこと。幹部連中と佐伯はマフィアが懇意にしているバーで内密に会っていたそうよ。流石にそこで何が話されていたかなんてのは探れなかったけど」

「なるほど。佐伯についてはどういう人物なんだ?」

「もちろん調べたわ。署内では久内という刑事を目の敵にしていたみたいで、いつも勝手に張り合っていたみたいなのよね。時には違法ギリギリの捜査も……。署長は特に久内刑事に期待するもんだから、佐伯の署長に対する心証は最悪でしょうね」

「だが、それだけで判断するわけにはいかない」



 ウンウンと唸る私に、「その場で何が話されていたか、知りたいのなら私に任せてもらおう」吾妻さんが得意気に言った。



「私はまだそのマフィアと繋がっている。そいつらから直接話を聞く」

「大丈夫なのか?」

「問題ない」



 椿が淹れた茶を一息に飲み干すと席を立ち、「ご馳走になった。私は私の仕事に取りかかる」そう言って見送りも断り、猿手目家を出て行った吾妻さんに内心で期待していた。彼女をお茶に誘って正解だったと、これが神の意図して描いた路であるならば、少しは信心深くなってもいいかもしれない、と笑みが自然とこぼれる。



 もし署長誘拐にマフィアが関与しているとして、一介の刑事の依頼をどうして危険を冒してまで遂行したのか。まあ、そちらは久内の仕事だ。私は彼に依頼された仕事をこなしただけ。本来の私の仕事は松戸市で起きている厄介な事件だ。



「お前等、いつまで滞在しているつもりだ。暇なのか? なら、私の抱えている仕事を振ってやってもいいぞ」



 未だにゆっくりと喫茶店気分で茶を啜る四方木に呆れつつそう言ってやると、彼女は右手を此方に突き出して何かを求める仕草を始めた。



「報酬」

「ああ、わかってる。椿、済まないがこいつらに十万ずつ渡してやってくれ」



 椿が居間から出て行ったのを見計らって私達は互いに頭を突き会わせるように身を乗り出し、「私は香元華然と接触できた人物について調べる。四方木は香元寄江の周辺人物について調べろ。妻木、お前は情報屋ではないなら、私が留守の間、椿を頼めるか?」私の考えを汲んだ二人は頷いてくれた。



「でも、浪漫ちゃんはいいのぉ? 貴女だって可愛いんだし、標的になるかもしれないわよぉ」

「私のことはどうでもいい。椿を頼んだ、いいな? その図体を上手く活かせろ」

「はぁい」



 それにしても歴史が長いというだけあって廊下が軋む。椿が戻ってきて二人に報酬を手渡した。



「じゃあ、頼んだぞ。さあ帰れ。さっさと帰れ」



 茶も菓子も満足した二人を追い出してからまた私は居間に戻って大の字に寝転んだ。袴が捲れ上がって生足を晒しているのもお構いなく、どうせ今は椿しかいないのだからという安心が私を堕落させたのだ。



「お疲れですね、日和お嬢様」

「ああ。少し眠いがまだやることが多すぎてな。同い年の奴等は今頃は学校で部活なんかに興じて仲間内でワイワイとやっているんだろうな」

「恋しいですか、学生生活が」

「いらんいらん。私にはそういうのは必要ない。私は猿手目家当主としての責務があるし、なにより私はそれを誇りに思っている。学生の青春なんて一銭にもならない時間の浪費だ」

「確かにお金にはなりませんね。ですが、思い出としては一生残りますよ」



 思い出、ね。確かにそういうのも大切だろう。私は猿手目家と柄本家という家族の思い出は大切に感情と記憶に焼き付けている。椿も性格からして後生大事にし続けるだろう。記憶の中に生きる人達。そう表現してしまえばなんとも虚しいものだろうか……。



「なんだ?」

「膝枕しましょうか」

「なんだいきなり」

「たまには甘えて頂きたいです。昔みたいに」

「今も十分甘えさせてもらっている」



 なんて言いつつ正座した足をポンポンと叩く椿に誘われるがまま、彼女の膝に頭を預けた。頭上にニコニコとした椿の顔を見上げながら、なんだかやはり恥ずかしい気持ちが込み上げ、しかしそれを見越したかのように私の頭は撫でつけられてしまい、もう逃げることを諦めざるをえなかった。



「日和お嬢様。お仕事もそうですが、あまり気負いすぎないで下さいね。当主として今の日和お嬢様は十分当主をされていますよ」

「だと……、いいんだが」

「私が保証します!」



 椿に甘えている、彼女が傍に居てくれる安心感からかここ最近の溜まっていた疲労がどっと沸いて私の身体を満たした。動きたくない。まだ若いのに、なんて年寄り勢から言われそうな程、指先一つ動かすのも億劫で、なんとかまだかろうじて動いている思考もぼんやりと幕が掛かったように緩慢だ。



 ああ……、と。起きたらやるべきことくらいは簡単に纏めなくては。ええと、なんだ……。そうだ、ノルンで本郷日暮に話を聞くこと。久内に佐伯という刑事がマフィアと会っていた情報を渡して、それから……。四方木や吾妻さんの報告次第ではまた動かなければならないが、それがいつになるかはまだ判明しない。その間に方々への松戸市事件についての情報収集。小さな切っ掛けが一つでも入ればそこからまた人海戦術を用いて情報の枝を広げていかねばならない。



 この事件がそもそもの発端ではあるが、これは成長に大きな貢献だと考えて今は頑張るしかあるまい。



 疲れてはいるが嫌な疲れでも無いのが不思議だ。どこか心の端辺りで充足感に似た感情も確かに存在している。



「今はゆっくりお休み下さい」



 頭上から降る柔らかな声音と慈しみの笑み。私の意識はそれらに抱かれて……。

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