第54話 怒髪衝天




「ニャメ、他人の女に手を出して、一体どういうつもりだ?」

 平坦な声色。

 しかし、聞いているものを心の底から震え上がらせる怒気を孕んでいる。そのことにニャメは心底嬉しそうな顔をする。


「どういう? 人間を怒らせるにはちょうど良かったにゃ。でも、あの程度の女で満足してるなんて、人間は欲が無いのにゃ。その気になれば選び放題だったはずにゃ? なんでかにゃ?」


「何故、だと?」

「少しばかり頭の中を覗いたにゃん。自己中心的で怠惰で依存体質。ロクな女じゃなかったのにゃ。正直人間に釣り合ってないにゃ。殺して寧ろ感謝して欲しいくらいだにゃ」

「……」


「人間は才能に溢れてるにゃ。神に至る素質を持った、億年に一人の逸材にゃ。あんな平凡を下回るような俗な女で満足するのは、種全体で考えれば有害ですらあるにゃ」

「黙れ」


「黙らないにゃ。勿論、ニャメは自分の目的のためにあの女を殺したにゃ。でも、大きな目で見れば種の繁栄に貢献したと言えなくもないにゃ」

「……その減らず口を閉じろ」


「にゃははは、怒ったのかにゃ? でも、少しでもそんなこと考えなったと言えるのかにゃー? 神に至った自分が、この程度の女に縛られるのか? 身近にもっと美人で有能な女が集まってきているのに、手も出せずに俗な女と生涯を過ごすのかって、一度も考えたことがなかったのかにゃ? 婚姻なんて所詮他人同士の契約にゃ。都合があわなければ何時でも解消できる関係にゃ。よかったにゃ、人間。ニャメのお陰でもっと若くて可愛い娘と番えるにゃん」

 煽り散らかしたニャメ。その体が後方に吹き飛ぶ。


「にゃにゃにゃ!」

 ダメージこそ殆ど無いが、突然の事に困惑する。


 先程までニャメのいた場所には、杏弥が拳を振り抜いた体勢で立っていた。


 ――にゃにゃ?! ニャメの反応できない速度で動いた? 不可能にゃ。転移は使えば分かるし、そもそも転移したところで、人間の肉体に出せる出力でニャメを吹っ飛ばすなど出来るわけにゃい!


 混乱するニャメ。


 杏弥は小さくため息を吐くと、無防備にもニャメから視線を逸らし、天井を見上げている。


「はぁ。栗花はな、確かにちょっとばかり、いやかなり我儘で、こっちの言う事なんか聞きゃしねーし、金銭感覚ガバガバだし、全然家事しねーし、仕事が上手くいかなきゃ直ぐ辞めるし、見通しが甘くてよく墓穴を掘るし、勝手に落ち込んで家族に不機嫌振りまいたり、突然泣き始めたりするし、他人との距離感取るの下手だし、方向音痴でよく迷子になるし、胸ねーし、チビで一緒に歩いてるとたまに本気で見失うような、どうしようもねー女だよ。


そもそも外見的には好みでも何でもないし、唯一長所を上げるなら女にしては論理的な話が出来るから理屈が通れば説得のしようが多少、本当に多少だが余地があるということくらいだ。世の中にはもっと聞き分けが良くて、夫を立てて、建設的な話が出来る胸のでかい美人は一杯いるだろうよ。


だけどな、それがなんだってんだよ。生憎と俺の人生でそんな女から告白された事ねーし、付き合いたいと思ったこともねぇ。別に一人でも良かったし、一生独身だと思ってたところに、たまたま俺を気に入った栗花が声を掛けてきた。それだけだ。そして、それで充分だった。


結婚する前に何度俺でいいか確認したか分かるか? 分かるわけねーよな。言ってしまえば俺は誰でも良かった。俺を好きだと思える奴が現れたら、そんな奇跡が起きるというなら、その相手が嫌気を差すまでは付き合おうと決めていた。与えられたものを返そうと決めていて、それが栗花だった。


どうせ誰も現れるとも思っていなかった早い者勝ちの席に、栗花が一番先に座ったんだ。お前は俺が御大層なやつであるかのように宣うが、俺の認識は違う。神なんてくだらねぇものに至っちまうような、人間としては歪な精神を持った異常者だ。それこそ億年に一人のとびっきりイカレた奴だ。そんな奴を、まだ何ものでも無かった時に見つけ出して、好きだと言ってくれたんだぞ。


俺にとってこれ以上の女なんて、世界中探したって他にいるわけねーだろうが!」


 杏弥の姿が消え、ニャメが再び吹き飛ばされる。


「にゃにゃ! 一体、何がおこってるにゃ」

 ダメージはそれほどでもない。しかし、先日相手にした分身とはまるで違う。


 そもそも、人間の身で神として受肉したニャメを殴るなど、出来ようはずもない。

 アリがゾウを踏み潰すような、オキアミがシロナガスクジラを呑み込むような、或いはそれ以上に隔絶した差を覆すような矛盾。


「何がだと? 簡単な話だ。お前は俺を本気で怒らせた。超えまいとしていた一歩を踏み出させたってだけだ」

 低い声で耳打ち。


 反射的に空間断裂で杏弥を引き裂こうとするが、杏弥の掌が空間の断裂を握りつぶした。


「はぁ!?」

 最早生物の域ではない。


 そこまで思い至り、ニャメはある可能性に到達する。


「まさか、この数時間で肉体を捨てたにゃ!?」

 魂魄(レベル)は既に神の領域にある。しかし、生来持つ肉体があるが故に、杏弥はその力、権能を事象として発露出来ない。


 いわば封印された状態だったのだ。肉体を捨てれば確かに権能を振るえるようにはなる。だが、その場合は再度受肉する必要があり、受肉するには相当遠大な手間を要する。


 ニャメとて、現世に受肉するための準備で数億年を要しているのだ。時間軸的にありえない出来事であった。


 そもそも、受肉すれば外見を維持しているはずがない。位階の上がった魂魄に引きずられ、人間であった時とは別種の存在として降臨するはずなのだから。


「わけがわからないにゃ!」

 困惑を超えて、恐怖すら感じる。

 不可思議な事態にニャメは一時撤退すべきか考慮し始める。


「ったく、人間も神もクソな奴はクソだな。この件(くだり)二回目だぞ。放っておけば良かったんだよ、俺の事なんてな。踏まなくていい虎の尾の上でわざわざタップダンスしやがって。人畜無害を気取ってダンジョンに引き籠ってるなら関わることも無かったっていうのに。お前らのせいだ。やりたくもないダンジョン攻略も、神殺しも。放っておけば何もない平和が続いたっていうのに」


 一歩ずつ近付いてくる恐怖。


 ニャメは発狂しそうになりながらも、辛うじて残る理性で戦略を組立、実行に移す。

 空間移動で李空と桃を引き寄せると、両腕に抱き締める。


「にゃにゃにゃ、ワケが分からないが、所詮人間は人間にゃ。子供の命が惜しければ動くにゃ」

 きつく抱き締められ、顔を歪めている李空と桃。


 しかし、杏弥は動揺するでもなく、冷淡な瞳を向けている。


「……な、なんにゃ。まさか、実の子供の命はどうでもいいとでも言う気かにゃ」

「いいわけ無いだろ。ただ、神様ともあろうものが随分な三下ムーブするなと思っただけだ」

「――っ! 口に気をつけるにゃ! 子供がどうなってもいいにゃ?!」

 そう言って、李空の腕を折る。


 声にならない声を上げる李空。杏弥は不快気に眉根を寄せるだけ。


「血も涙も無い奴だにゃ。実の子がなぶられてその程度の反応かにゃ。これならあの女を人質にするんだったにゃ」

「勘違いしてるみてーだが、普通にキレてるからな。ただ、二人を傷つける度にお前の死にざまが凄惨になるってのと、間違って殺したり、もう俺にどうでもいいやと思わせたら、その瞬間どうなるか分かってんだろうな?」


 今や、立場は逆転していると、命を担保している子供を丁重に扱えと、神を相手に脅しを掛ける。


「上等だにゃ。お前の始末はダンジョンでつけてやるにゃ。ここじゃ真の姿になれないからにゃ」

 そう言って、子供たちごと空間の割れ目に消えていく。


 ため息を一つ。視界の端に引っかかるものを見つけて、杏弥は後を追おうとしていた足を止めた。にょきっと床から生えてきたミトラスが杏弥を見て少しだけ目を見張った。


「……そうか。至ったのだな。真なる神の領域へ」

「真なるなのかはよくわからんが、突き抜けたのは確かだ。ただの保険だったんだが」

 事故みたいなもんだ、と杏弥はため息を吐いて見せる。


「ふはは、事故で神を超えるか。お主であれば、神々の干渉を消せるやもしれぬな」

「まあ、それは遥か未来のことになるだろうけど。ああ、時間軸は意味が無くなるから、結果は直ぐにでるかも?」

 よくわかんねーけど、と韜晦してから、再び足を進める。


「手を貸してくれた心意気に感謝する。ありがとう、ミトラス」

「その位階に至って尚、他者へ感謝できる。そのような高潔な神に見えた幸運に感謝するよ」


 幾億年の時を超えて、自らでは叶えられなかった願いへと手を掛けた後輩。

 ミトラスの胸中には羨望と憧憬が広がっていた。


「ま、終わったらダンジョン作りの相談させてくれよ、先輩」

 笑いながら、杏弥の姿が消える。


「真に祈るに足る神の降臨か」

 口元に笑みを浮かべ、空気に溶けるようにミトラスはその場を後にした。



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