第2話
陽の光を反射して湖面がキラキラ光っている。水面にはぎょろりと大きな目が二つ。それは映り込んだレオの顔だ。彼は湖に映り込んだ自分の姿を見つめ、翼をパタパタ動かした。魔女のシシィと会って以来、彼は毎日翼を動かした。筋肉をつけるのに向いている木の実をピッピに教えてもらい、出来るだけ沢山食べた。そうして二週間ほど経ったが、今こうして自分の姿を見てみると、以前に比べて筋肉がついたような気がした。
「今なら少し飛べるかも」
レオは自信ありげに胸を張り、湖を離れた。森の中を竜らしく堂々と歩くと、鹿や小鳥達が興味深そうに彼を見た。普段なら周りの視線が怖かったレオも、今ばかりは少し気分が良かった。きっと、孤高の竜を羨望の眼差しで見ているのだ。
木々の間を縫って坂道をのぼると、自分の巣穴を通り過ぎた。もっと上へ、もっと上へ登っていく。そうして崖の上まで来ると、レオは足元を見下ろした。眼下には青々とした森が広がり、柔らかな風が吹いていた。風にのって土の香りがするのを感じながら、レオは一歩、足を前に出した。あと少し動いたらこのまま落ちてしまいそうだった。全身を虫が這うような、ぞわっとした感覚に襲われる。ふう、ふうと呼吸を落ち着ける。
「きっと僕ならできる。いち、に、さんーーッ」
ぴょん、と崖から飛び立った。それと同時に翼を懸命に動かす。眼前に美しい空が広がっている……と思った頃には森が上に、空が下にいき、視界がくるくる回り出した。落ちている。
「うわぁぁああっ!!」
バキバキッと木の枝が折れる音がして、全身が痛みに包まれた。次にレオが目を開けた時、彼の全身を木の枝と葉っぱが覆い隠していた。どうやら命は助かったらしい。節々が痛むのを堪えて起き上がり、空を仰ぎ見る。木々の枝が天に這うように伸びているが、彼が落ちてきたところだけぽっかり穴が開いていた。また、失敗した。レオはがっくりと項垂れた。
「ぷっ。まぁたやってら。だからお前は飛べやしないんだって。なんで分からない?」
頭上から聞こえた嘲笑。顔をみるまでも無かった。
「シシィ、だったっけ」とレオ。
「お、物覚えは人並みらしい。良かったな、人並みなことが一つくらいあって」
シシィは木の枝に腰掛け、両足を組んでこちらを見下ろしていた。空を飛ぶための杖は膝の上に載せてある。
「そうだね」
「相変わらず言い返さないんだな」
「だって本当のことだし。僕は空も飛べないし、人より優れたことなんて何もない。ちょっと頑張っても、こうやって、落ちるだけ」
「……はぁーあ!! 相変わらず陰気なやつ! うんざりするわ、帰ろ」
さっと枝から飛び降りると同時に杖に飛び乗り、シシィは空高く上っていった。その影をレオに落として、東の空へと消えていく。彼がいなくなった後で、レオは自分の体に降りかかった枝葉をどかした。もし木の枝に引っかかっていなければ、今頃落下と同時に死んでしまっていたかもしれない。そう思うと恐ろしかったが、ほんの少しだけ、それでも良かったと思った。何の取り柄もなく、ただ空を見上げるばかり。同族は身近におらず、話をできる唯一の友達はピッピだけ。自分の情けなさにうんざりして、ついに青い瞳から涙が溢れた。泣いたってどうにもならないのに。そう思えば思うほど涙は溢れていく。
「お腹がすくと元気がなくなるって、ピッピが言ってたっけ」
泣きながら苦笑した。腹を満たすためには果物を食べなければ。とぼとぼと歩き出し、果物がありそうな深い森に入っていく。一歩一歩進むごとに、大粒の涙がボロッと溢れる。滲む視界の中に赤い実を見つけると、レオはそれをもぎ取った。赤く熟れた果実をひょいと口の中に放り込むと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。なるほど、これは確かに少し元気がでる。もう一つ食べようか、と木になる果実に手を伸ばした時、指先の果実が突然はじけ飛んだ。爪にはベタベタした果汁がかかり、さっきまで手のすぐ先にあった果実はバラバラに砕けて地面に落ちていた。
「あ〜あ、外したわ」
「一回で仕留めろよ、下手くそ!」
声のした方を向くと、木陰から人間の男が二人出てきた。二人とも山に馴染むような茶色いズボンに濃緑のジャケットという出立ちで、その手には猟銃をしっかり握っている。肌は乾燥して深い皺が刻まれ、背中はやや丸まっていた。目はうつろで下瞼は窪み、伸びた前髪の隙間からレオのことをじろっと睨んでいる。
「え、えっと、どなたですか?」とレオ。
「どなたですかぁ!? 随分お上品な竜もいたもんだ!」
背の高い方の男が笑った。もう一人の背が小さい男は、ぷっと小さく吹き出した。
「俺たちは猟師だよ。見りゃわかるだろ。あんたの角が欲しくてね。竜の角は人間の怪我や病気によく効くんだよ」
「……誰か、具合が悪いんですか?」
背の高い男は少し黙ってから続けた。
「ああ、そうなんだ。俺の母ちゃんがずっと病で伏せっててな。あんたの角があれば治るんだ。だから、どうかその角をくれねぇか」
レオは自分の手で角に触れた。竜の角は竜の証であると考えられている。歳とともに大きくなり、知性と強さの象徴だ。異性と番になるにも、まずは角が立派でなければいけない。もし折れても再び伸びては来るだろうが、それまでに同族に会うことがあったらきっと馬鹿にされてしまう。でも、目の前の男は困っている。自分の母親を助けようとしているのだ。竜の証なんてどうでもいいじゃないか。首を縦に振って角を片方だけ分けてやろう、そう決心した時だった。快晴の空から鋭い稲妻が降り注ぎ、目の前の人間に直撃した。人間達は壊れたおもちゃみたいにブルブル震えた後でビョンッと伸びて、そのまま地面に倒れ込んだ。
「どれだけ馬鹿なら気がすむんだ」
気がつくと人影が自分の上に落ちていた。仰ぎ見ると、杖に乗ったシシィが浮いていた。
「あれ、帰ったんじゃ……」
「帰ったよ。帰ったけど、こっちから銃声が聞こえたもんで戻ってきたんだ。そしたらどこぞの馬鹿が嘘を信じて角を分けてやろうとしてるから、つい魔法をうっちまった」
「わぁ、あれが魔法」
「……馬鹿。ほんっと馬鹿。お前あと少しで殺されるところだったんだぞ」
「ーーえ? でも、角だけだって。欲しいのは」
「だからぁ、嘘に決まってるだろ。人間界じゃ竜は余すとこなく使えるんだよ。角は薬に、爪はアクセサリーに。革は服や鞄にされて、肉と内臓は夕食だ。金もなさそうな猟師二人が、そんな金の成る木を見逃す訳がないだろ」
「僕、食べられちゃうところだったんだ。お母さんの具合が悪いっていうのも、嘘だったんだね」
「当たり前だ。人間なんて信じるな。見たら殺すくらいの気持ちでいろ」
「……でも、それでも良かったかも」
「はぁ?」
「だって僕は何にも取り柄がないから、そんな僕でも必要とされるなら、それでも良かったのかも」
「……はぁ〜。毎度のこと、竜の一族とは思えない発言だな。俺たち魔女の一族はあんたらと付き合いが長い。面倒だから俺は関わらないが、薬の材料に爪や鱗を分けてもらうことも珍しくない。でも、こんな情けないやつが竜だと聞いたら俺たち魔女の一族もがっかりするだろう。あまりに見過ごせなくて助けたが、余計なお世話だったみたいだな。目障りだから俺の近くで殺されるような様は見せてくれるなよ。戦うことも生きていくこともできないなら巣穴にでも籠ってろ、一生」
そう言い捨てると、シシィはさっと空に飛び上がった。
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